// 0012 - 奪われた罪
白いセダンは、夜の道路を滑るように走っていた。
街灯の列が、フロントガラスを横切っては消えていく。一定の間隔で現れ、次の瞬間には背後に流れ落ちる。車内に差し込むその明滅が、瑞希の時間感覚を酷く曖昧にしていた。
エンジン音は低く抑えられている。
加速も減速も最小限で、運転に無駄はない。だが、その静けさが、かえって落ち着かない。音が少なすぎると、考えが入り込む余地だけが増える。
瑞希は助手席に深く沈み込み、背中を預けたまま前を見ていた。
視線はフロントガラスの向こうに固定されているが、景色を見ているわけではない。流れていくアスファルトも、遠くのネオンも、認識の外だ。
シートベルトが胸元を斜めに締め付けている。
外せばいいと頭では分かっているのに、指先は動かない。拘束されているという感覚だけが、やけに鮮明だった。
運転席のオリヴァーは、前を向いたままハンドルを握っていた。
横顔は街灯の光に照らされ、次の瞬間には影に沈む。その繰り返しが、表情を読み取ることを拒んでいた。
「そこ、右です」
瑞希の声に反応するように、ウィンカーが鳴る。
短く、乾いた音。それが了解の合図だった。
車は緩やかに進路を変え、再び速度を保つ。急いでいるはずなのに、乱暴さは感じない。感情を切り離したような運転だった。
瑞希は、窓の外に目を向けた。
ガラスに映る自分の顔。泣いた痕跡も、取り乱した影もない。ただ、目の奥だけが、何処か空洞だった。
この車が、何処へ向かっているのか。
罪が暴かれる瞬間が近付いているのに、何故か現実味がない。
白いセダンは、夜を切り裂くこともなく、黙って進み続けていた。街は何事もなかったように眠っている。車内にだけ、言葉にならない重みが沈殿して凝り固まっていた。そして、その沈黙をオリヴァーが破った。
「さっき、お前はまた人を殺したって言ってたよな」
「……それが、何か?」
瑞希は僅かに身体を強張らせ、顎を引いた。
挑発でも、否定でもない。ただ、問い返した。
「スティンとアルフェが一緒に居たんなら――それはお前の罪じゃねーよ」
「は……俺の、罪じゃない……?」
瑞希の視線が、ゆっくりとオリヴァーへと向かった。
眉を顰め、横顔を見る。その顔は影に沈んでいて意図が読み取れない。
「スティンの異能は“免罪”だ。対象が行為に伴って感じる罪悪を、根こそぎ消し去る。要は、倫理的なブレーキを取っ払う能力さ」
オリヴァーは、前を見たまま続ける。
ウィンカーの音が、規則正しく鳴る。
「アルフェは“因果干渉”――選択肢そのものを奪うわけじゃねーが、お前が選びやすい未来だけを先に理解させる。納得できる選択肢を、確信として感じさせるんだ。異能が使われたこと、お前も分かってんじゃねーのか?」
その問いに、瑞希は視線を僅かに逸らした。
確かに異能が使われた感触はあった。何となく、使われたことだけは分かっていた。だが、それが何だと言うのだろうか。
「……だとしても」
瑞希は街灯の光を絞るように、目を細めた。
「俺が、選択したことに変わりはありませんよね。二人は、俺に殺人を強制したわけでも、俺を洗脳したわけでもない。俺が、選んだんですよ」
声は、車内に低く響いた。
オリヴァーは「へえ」と短く声を漏らし、ただ眉を上げた。
それは否定ではなかった。だが同時に、その論点は重要ではない――とでも言うような、酷く、冷ややかな態度だった。
自分が、オリヴァーの話の土俵に上がっていない。
瑞希は無意識に、そう感じた。
「――あの。スティンさんとアルフェさんって、一体何者なんですか」
沈黙が、車内に落ちる。
エンジン音と、タイヤが路面を噛む音だけが続く。
オリヴァーは赤信号で緩やかに車体を減速させた。
「手の付けようのない犯罪者さ」
一拍間が空き、再び言葉が落とされる。
「奴らの組織名は――悪の嚢。いつから存在してるのかも分からねーし、その構造も不明。目的もはっきりしてねー組織だ」
交差点を抜ける。
信号の青が、フロントガラスを染めた。
「異能者ってのは、殺人で増える」
オリヴァーの声は、事実を告げるように淡々としていた。
瑞希はその声に、ただ無言で続きを促していた。
「だがそれは、刃物を振るうことだけじゃねーのさ。交通事故、あるいは――職務上の射殺。そんな意図しない殺人でも、特異値は平等に開示される」
「……それは。そう、でしょうね」
瑞希は目を細めた。
一度目の殺人は、瑞希の意図するところではなかった。それを言えば、弁解に聞こえるかもしれない。だが、事実だ。そして、オリヴァーの言うように、意図しない殺人で特異値が開示されるというのも、納得できる。
「だがな――マーレボルジェは違う。連中は躊躇いなく人を殺す。効率的に、意図的にだ。要は、イカれた野郎どもの集まりってことだ」
瑞希はその断定的な言葉に、微かな違和感を抱いた。
確かに、スティンは躊躇も逡巡もなく人を殺した。アルフェも、拘束した男のことを、何の迷いもなく瑞希に差し出した。
だが、何故だろう。
その躊躇いのなさには、合理があった。殺意を向けられたから。組織を裏切ったから。マーレボルジェは、理由なく殺す組織ではない。
半日話した程度で、分かる領域ではない。
けれど、瑞希には理解出来た。それを肯定するつもりはないが、そこに快楽や狂気が混ざっていないことだけは、分かっていた。
「あなたたちは……そのマーレボルジェを叩いて、構成員を捕らえるのが目的なんですよね。治安を、維持するために」
「あぁ? お前、何言ってんだ?」
オリヴァーは、きょとんとした顔で首を傾けた。
車が静かに減速する。瑞希が逃げ出した倉庫前に、車体が停車した。
「捕らえるんじゃねーよ」
吐き捨てられた言葉とともに、エンジンが切られる。
静寂。それを裂くように、金属の擦れる音がした。
オリヴァーが胸ポケットから取り出した拳銃が、淡く光る。
「殺すに、決まってんだろーが。膿は切除以外にねーんだよ」
「――は?! ちょ、ちょっと待っ」
瑞希の声を置き去りに、オリヴァーはドアを開けた。
冷たい夜気が、車内に流れ込む。拳銃を構えたまま、外へ出る背中。瑞希は慌ててシートベルトを外した。ドアを開け、地面に降りる。
横浜の、倉庫街。
瑞希が二度目の殺人を犯した、犯行現場。
オリヴァーは、白い息を吐きながら倉庫の前に駆け寄っていた。
錆びた鉄扉。街灯もなく、月明かりだけが表面を薄く撫でている。拳銃を構えたまま、一歩近付く。足音は殺していた。オリヴァーは、靴底が地面に触れる角度まで計算しているようだった。
オリヴァーは扉の脇に身体を寄せ、背を扉に預けた。
次いで、ゆっくりと上体を傾ける。
拳銃は下げない。左手で扉に触れ、耳を当てていた。
「ちょっ、あの、オリヴァーさん……殺すなんて、間違ってますって!」
僅かに潜めた声とともに、瑞希は駆け寄った。
背後から伸ばした手が、オリヴァーの袖に触れる寸前で止まる。
何か、嫌な予感がした。
理由はない。ただ、この沈黙は、身に覚えがある。
「オリヴァーさ――」
言い切る前だった。金属が軋む音が、夜に響いた。
オリヴァーが、躊躇いなく鉄扉を押し開けたのだ。
「――ッ!」
瑞希の制止の声は、出遅れた。
扉が一気に開かれ、闇が倉庫の外へ溢れ出す。オリヴァーは前傾姿勢のまま一歩で中へと踏み込んだ。反動もなく、即座に拳銃を構える。
照準は低く、だが迷いもない。
呼吸が、変わる。空気が冷えている。そこに、人の気配はなかった。
瑞希もその背中に続いて中に入った。
靴底がコンクリートを踏む感触。反響が、やけに大きく感じられる。月明かりが、高窓から差し込んでいた。先ほどと何ら変わらない光景。
だが、照らされているはずの床には、何もなかった。
血の跡も。倒れているはずの男も。床に落ちていた埃さえも。
倉庫は、異様なほど整っていた。
「……な、なんで……」
無意識に発した声が、震える。
瑞希は、その場に立ち尽くした。視界が、ゆっくりと現実をなぞっていく。ここで、人が死んだ。確かに、自分は――殺した。だが、床は乾いている。血の痕跡もない。空気は澄み、死の匂いすら、残っていない。
「なん……なんで、死体が、無いんだ」
思わず、声が零れた。
無かったことに、されている。
自分が選択した結果も。犯した行為も。その罪でさえも。まるで、最初から存在しなかったとでも言うように、何もなかった。
瑞希の喉が、ひくりと鳴った。
オリヴァーは、そんな瑞希を視界に入れることさえせず、ゆっくりと倉庫の奥へと進んでいく。その足音だけが、静かに響いた。銃を下ろし、その場にしゃがみ込む。指先が、コンクリートの床を拭い、視線が落ちた。
「塵一つねーとはな……掃除が早え。流石は、俺の宿敵ってとこか」
低く、吐き捨てるような声。
その背中を見つめながら、瑞希は理解した。
罪は、奪われることがある。
そして、当人の意思に反して、消されることもある。
「……殺した罪も、背負わせてくれないのかよ……」
それが救いなのか、それとも、もっと残酷なことなのか。
瑞希にはまだ、答えは出せなかった。




