第二百六十一話 姉の屍を越えてゆけ!
リレーの最終盤について。
先ほどまで聖さんは混乱していた様子だったが……話しているうちに、少しずつ考えがまとまってきたのか、段々と落ち着いてきていた。
「――私が、ひめちゃんの手を引っ張っていたの」
囁くような呟き声に、俺は小さく頷いた。
その言葉は正しい。聖さんはひめの姉として、ずっとあの子の手を握っていた。
感情の表現が苦手で、身内以外には心を開きにくいひめにとって、聖さんは唯一の頼れる存在だっただろう。
「私が引っ張ってあげないと、ダメだと思ってたの」
だから彼女は、背負っていたんだ。
妹の思いを。ひめの人生を……聖さんが見捨てたら一人ぼっちになってしまうひめのことを、誰よりも心配していた。
それくらい、彼女は妹を愛している。
それは今も変わらないはず。だが……前と違うことがある。
「でも――今は、ひめを導いてあげられる人が、私以外にもいる」
それが誰なのかは、言われずとも分かった。
そんなの、一人しかいない。
「――俺のこと?」
「うん。よーへーだね」
つい数ヵ月前に、俺はひめと仲良くなった。
誰にも懐かない飛び級天才幼女が、俺にだけ甘えてくれるようになった。
それが、大きな変化である。
「今日の失敗も、あなたがひめちゃんを助けてくれた。私は、何もしなかった……ううん。何もする必要がなかった。だって、よーへーに全部任せられたから」
そういえば、あの瞬間の聖さんは何か思いつめたような表情を浮かべていた。
どうやらあの時から、彼女の心は揺れていたらしい。
「ずっと、ひめちゃんのお姉ちゃんとして、ちゃんとしようって生きてた。でも、よーへーがいるって思ったら、一気に力が抜けちゃったの」
……リレーの終盤。俺と目が合った気がしていたのは、勘違いじゃなかったらしい。
聖さんは、ひめだけではなく俺も見ていたんだ。
「リレーの時も、そうだった。よーへーがひめちゃんを背負ってくれていた……だから、ゆるんじゃったのかもしれないね」
話しているうちに、聖さんも気持ちを整理できたのかもしれない。
それを言語化しているように見えた。
「――よーへーがいるなら、私が立派なお姉ちゃんである必要もないのかなって」
もしかして……聖さんは、彼女なりにずっと気を張って生きていたのだろうか。
絶世の天才であるひめを妹に持つ姉として、聖さんはプレッシャーを感じていたのかもしれない。
もちろん、他人である俺に彼女の深い心理までは読み取れない。
表面上はすごくふわふわしているように見えたが、聖さんは彼女なりに気を引き締めて生きていたのだと思う。
ひめのお姉ちゃんとして、彼女は立派であろうと心がけて生きてきたのだとしたら。
それが、俺という存在の登場によって、一気に緩んだのも……納得できた。
「私、本当は体育祭の勝敗なんてどっちでもいいの。生徒会役員に立候補したのも、少しでもひめちゃんに恥ずかしくない生き方をしたかっただけで……本当は、帰宅部で毎日寝ていたいんだよ?」
本質は、ひめの言う通り『ナマケモノさん』なのだろう。
でもそれが聖さんらしくもあるか。
「――もちろん、ひめちゃんをお嫁さんにするとき、私はよーへーに立ちはだかるけどね。そして、ボコボコに負けて、ギャン泣きしながらひめちゃんに未練たらたらで泣きつくけど足蹴にされて、二人に屍になった私を踏みにじられながら、嫁に送るの」
「想像が怖いよ」
俺もひめも、そんなことしないから。
……というか、待て待て。
「お、俺がひめをお嫁さんにするなんて、いつ決まった? まったく……ひめはまだそんな年齢じゃないよ」
サラッと言われたので聞き流しそうになったが、冷静に考えるとおかしな話である。
だって、ひめはまだ幼い子供なんだから。
「うふふ。いつまでそうやって言い訳できるかな? ひめちゃんは、このままずっと子供でいてくれるとは限らないからね?」
くっ。痛いところを突かれた。
たしかに、その通りである。
ひめは日に日に大きくなっている。その成長は、俺が想像するよりも早い。
そう遠くない未来で、きっと俺は選択を迫られることになるだろう。
でも、やっぱり今の段階ではまだ早いことは確かなので。
「……あ。ひめが来た」
「うわ。ごまかした……へたれやろ~」
遠くからとことこと走ってくるひめに手を振って、聖さんの言葉は聞き流すことにするのだった――。




