灯籠流しの夜
灯籠流しが始まったのは、その日の午後六時をまわったころ、西の空が茜色に染まった、実に静かな夕暮れのことであった。
武蔵川へ出る河口までのさほど長くない距離を、ろうそくの光をたよりに流れる灯籠には、朝顔の柄に染め抜いたのや、子供が描いた、はやりのアニメのキャラクターを描いたのと、ずいぶんとバラエティに富んだものがそろっていたが、その日、真樹や村瀬、坂東医師に付き添われた大沢たちが川辺に持ち込んだそれは、ずいぶんと凝った、変わった作りのものであった。
「――流していくのに、飛行機の形っていうのはなんだか妙な気もしますなあ」
六人を代表して、ふたたび真樹たちの元へ駆けつけた村瀬は、真樹が模型店の知人とともにどうにか作り上げた、飛行機型の灯籠を、街灯の明かりの下でじっと見つめていた。
「でも、ほかならぬ航空エンジニア志望だった兄のためです。これが一番、よいような気がします」
かつて村瀬とともに遊んでいた大沢義文少年――ではなく、その弟の大沢正文は、坂東医師がろうそくへ火をつけ、胴体の中へ仕込んだ釘へそれを差し込むさまを横目に見ながら、先に流れ出した灯籠の、ぼんやりとした明かりを眺めているのだった。
「――それにしても、実に不思議だ。真樹さんがおっしゃったように、彼はあの時、大沢……いや、ヨッくんそのものだった。あそこで遊んだこと、飛行機を飛ばしたこと、覚えていることをすべて話していたのが、ああしてワインダーをギィギィ回した途端、すべて幻のように消し飛んでしまった……」
そっと水面に、スチロール製の浮船をつけた飛行機が降り立ち、坂東医師の手から離れて流れに乗り出したのを見ると、真樹はあらためて、昨日駐車場で話したことを捕捉しつつ、村瀬に事の一切を説明し始めるのだった。
「あの日、帰り道に知り合いの模型店にいった僕は、そこの大奥さんからPTAが模型飛行機に食って掛かったことがあった、という話を聞いて、その理由を調べたんです。そうしたらありましたよ、あなたがたが小学生だったころ、あのジャリ畑で起きた事故のことが……」
「――最後にかくれんぼをした日、親父にねだって買ってもらった、高いゴムワインダーをあそこに落としていったことに気付いた兄貴は、次の日の放課後、雨でくずれたジャリに巻き込まれて線路へ落ちて、突放で走ってきた貨車にはねとばされたんです。しばらく、国鉄の病院で虫の息のまま過ごしてから、兄はなくなりました。僕が五つのときのことです。そしてほどなく、親父と僕らは予定通り、転勤のために九州へ移りました」
真樹から話を継いで、弟の正文が事情を打ち明ける。小さな中洲のあたりでは、いくつかの灯籠が流れにつかまり、モーターボートのように素早く駆け抜けてゆく。その中を、流れからそれた飛行機型の灯籠は、悠々たる調子で泳いでいった。
「あの当時は、淀補大きな事件ではない限り、事故死や殺人事件なんかは今のように全国ニュースにはのらず、新聞でもぽっと出るきり、という扱いでしたからね。ことに、今回は学区も違ったし、あまり重要視されずに、大人の間でも話題にはならなかったんでしょう。だから村瀬さんたちは、彼が亡くなったことを知らなかった……。当時の新聞の縮刷を見る限りだと、そう考えるのが無難なようですね」
話が終わると、真樹は隣で、ひと仕事を済ませてキャメルをくゆらせていた坂東医師へ目配せをし、バトンを渡した。灯籠の波は、作りの悪い、浸水を起こしたらしいものが徐々に沈んでいくにつれ、段々と小さくなっていく。
「――そして、長い年月が過ぎたつい先ごろのことでした。これは大沢さんの奥さんから伺ったんですが、押し入れの整理をしていたときに、ころりと出てきたものがあったそうなんです。それが例の、事故現場からのちのち見つかった、油まみれのワインダーだった、というわけなんです」
「……そいつを見て、何年かぶりに兄貴のことを思い出した矢先でしたよ。夢枕に、あの子供時代のままの兄貴が出てきて、僕の一挙一動を操るような、そんな感覚になったのは……」
「医学的に見れば、過去の記憶やトラウマから来る、虚構の記憶や、幻覚の類ということで片付きます。しかし、それではどうも辻褄の合わないことが起きてくるので、僕も真樹さんも、これはやっぱり、ほんとうに義文くんの魂が弟の口や手を借りて、村瀬さんたちとの再会を果たそうとした、と、そう考えているんです」
吸いさしを携帯灰皿へ突っ込み、二本目に火をくべる坂東医師へ、どういうことです……? と、村瀬がおそるおそる尋ねる。
「――もし仮に、義文くんにつれられて、幼い彼があなた方と遊んでいたとしてもですよ。六人もいたら一人くらい、一緒につれてこられた小さな坊やのことを覚えていたっておかしくないじゃありませんか。ところが、今回はそうしたものがまるっきりなかった」
「シャーロック・ホームズは小説の中でこういったそうです。『ありとあらゆる可能性をひとつひとつ消していって、最後に残ったものがたとえどんなに突飛だろうと、それがまごうことなき真実なのだ』と……。さすがにあの名探偵はこんな幽霊なんか信じなかっただろうけど、僕はやっぱり、そういうことだったんだろうなぁ、と思うんです」
最後に真樹の語った一言で、その場に形容しがたい沈黙が、石のように横たわった。灯籠の波は、目の前の陸橋を超えて、かろうじて見えるその次の橋のあたりまで、ぼんやりとした明かりとともに続いている。その中にはもちろん、あの飛行機型のそれも含まれ、武蔵川の河口まで続いているはずだった。
「――飛んでっちゃいましたな、飛行機」
沈黙を破ったのは、灯籠の流れていくのを見守っていた村瀬だった。あたりの人数も減って、街灯から街灯にからげた、ワイヤー吊りのコードから伸びた提灯だけがぼんやりと輝いている。
「これであと一年は、静かに向こうで過ごしてくれるでしょう。……真樹さん、坂東先生、兄がご迷惑をおかけしました」
改めて礼を述べると、大沢は村瀬の方を向いて、
「兄はきっと、短いながらも、あなたのような友達がいて幸せだったに違いありません。あまり多くを語らない子供だった、と親父やおふくろから聞いたことがありますが、みなさんのお話を聞く限り、きっと幸せな人生だったろうと思います。ありがとうございました……」
と、改めて礼を述べ、固い握手を交わすのだった。
「なに、お気になさらず。すべて無事に済んだんです、もう、言いっこなしです。――真樹さん、坂東先生、あなた方には、なんとお礼を申し上げたらよいか……」
大沢ともども、深々頭を下げる村瀬に、真樹啓介と坂東医師はちょっと目を見合わせてから、申し合わせたように、お気になさらず、と言って、二人を朗らかに笑わせ、喜ばせたのだった。
「――今回は、なかなかの大仕事でしたね。その点僕ときたら、ただ持ち込んで、ヘンテコな説を述べただけだった」
村瀬たちと別れ、あの日同様、自宅の応接間へと真樹を招いた坂東医師は、冷蔵庫から出したビールの栓を開け、ささやかな慰労会を催した。彼からビールを注がれ、あふれた泡を慌ててなめた真樹は、ちょっと照れくさそうに、いや、それだけじゃありませんよ、と、坂東医師を励ますのだった。
「たしかに、ちょっと変わった説ではありましたが、あなたがああして話を持ち込み、あの祠のことを話してくれなかったら、僕自身、いろいろと首を突っ込んで調べようとは思わなかったでしょうからね。なにがどんな効果を出すかなんて、終わるまでわからないものです」
「そう言ってくれると、僕もちょっと気分が晴れます。――じゃあ、あらためて……」
我々の健康を祝して、という音頭につられて、二つのグラスが軽やかな音を立てる。お盆の晩は、すずしげな夜風とともに、ゆっくりと暮れてゆくのであった。