日付なし
最後に日記を付けてから、もう三日くらい過ぎただろうか?
魔法使いはとっくにいなくなってしまっている。群れに対して旅立ちの時が来たことを告げ、行く先を示した。その後から姿が見えないのだ。
どこに行ったのかは知れない。群れにも特段変わった様子は見られないことから、魔法使いは、群れと別行動をするのが当たり前なのも知れない。
魔法使いが示したのは、真昼の太陽の方角だ。
南。その先に見えるのは、草原と空だけだった。
猫たちは魔法使いの命令に従い、洞穴を出た。そこからずっと、どこかを目指して旅を続けている。
私は猫たちと進む他になかった。彼らの中で客人のような捕虜のような待遇を受けつつ、無茶な行程をひたすら行く。食事は優先的に与えようとしてくれるし、疲れた時は群れの進行を止めるか、あるいは担いで運んでくれる。
おそらく、私は相当に優遇されている。それはよくわかる。
だけど辛い。ひとつの場所に留まれないことは、こうも気力と体力を削ぐものなのか。
現在、群れは狩りのために足を止めている。久々の長い休憩に、やっと日記を書く気力が湧いた。若干手が震えているが、現状を書き記しておこうと思う。
空は快晴。空が透き通って穏やかな風が吹く。春の気配がする。魔法使いの示した通り洞穴を出て南へ向かっているが、この辺りはすっかり雪が解けているらしい。
温かくなったためか、動物たちの姿もちらほらと見える。今いるあたりは蛇行する川に挟まれた湿地帯らしく、特に水鳥が多い。
木々は薄く、背の高い草が生い茂っている。足元は湿っているが、川に近くなければそう歩き難くはない。森を歩いているよりはましなように思う。軍人たちからもらった靴が、しっかりしているせいもあるだろう。
動物がいるせいか、猫たちは食事にそれほど困っていない。狩りに出れば何かしら収穫がある。狩った獲物は猫たちの中で、体格の順に分配されているように見られた。
もっとも私はその恩恵にはほとんど預かれていない。猫たちは私にも分け前を与えてくれるが、私の方が食べられずにいるのだ。
原因は火だ。湿地帯のせいか燃やせるものがなく、焚火を作れないでいる。おそらく、立ち止まって少し工夫すれば火も作れるのだろうが、それは先を急ぐ猫たちが許さない。
いや、許さないというよりも、通じないと言うべきか。立ち止まりたいと言う意思と理由を伝える手段がない。私がいつまでも動かないでいると、猫たちは歩けないのだと判断し、勝手に抱えて上げて連れて行ってしまう。暴れても力では敵わない。理由を告げても言葉もわからない。厄介だった。
もういっそ、生の肉も割り切って口にしてしまうべきかとも思う。寄生虫や病原菌を恐れても、今さらと言えば今さらだ。
おそらく、本心では寄生虫と言った理由のあるものを恐れているのではない。単純に、生理的に抵抗があるのだ。
だからもう少し、この空腹が耐え難くなるまでは。そうやって決断を先延ばしにしている。
心配なのは水もだ。今はちびちびとペットボトルに残った水を消費しているが、いつまでもはもたない。じわじわとした不安がある。
ああ、書き忘れるところだった。
この湿地帯には、特筆すべき点が一つある。
この辺りには魔物が多い。川を下りながら南に向かっているのだが、進むほどに魔物が増えているような気さえする。
昨日は一匹だった。今日はすでに二匹見た。魔物は他の獣と違い、猫の群れにも逃げ出さない。そのせいで余計に目につくように思えるのだろうか? いやいや、森の中では滅多に見かけなかったはずだ。
まだら猫たちは、魔物の対処に慣れているようだった。鳥が「魔物」などと呼ぶから恐ろしい化け物と思っていたが、割とどこにでもいる存在なのか? 私がいた森の中だけ、特別に少なかったのか?
それなら、他の生き物と分けて、わざわざ「魔物」などと大層に呼んだのはなぜだろう。それとも、犬、猫と同列に魔物と呼んでいるのだろうか。
……
…………いや、魔物の姿は様々で、犬や猫のような姿のものもあれば、ネズミのように小さなものもいる。共通しているのは、すべて肉体が半壊し、頭以外のどこを傷つけても再生するところだ。
このあたりを鑑みると、やはり「生き物」に対する「魔物」のように思う。
洞穴を出てから四日過ぎ。
魔物の数が増えている。この辺りが魔物の生息域なのだろうか?
さすがの猫たちも疲弊してきているらしい。なんとなく、群れの数が減っているような気もする。シロは無事かと群れを見回し、彼の姿を見付けて安心する。
猫たちは、それでも魔物の多い方向へ向かっているような気がする。猫たちの目的地は、いったいどこにあるのだろう。
空腹で腹が痛む。
六日目。
少し前から、魔物に紛れてナメクジの姿がちらほらと見え始めていた。大きいものから小さいものまで、湿地の泥の中で蠢いている。おかげで食事はどうにかなるようになった。生肉は駄目であの気持ち悪い生き物が良い理由が自分でもわからないが、おそらく一度口にして、慣れてしまったためだろう。食べられるものだと頭の中で認識してしまっているのだ。
実際問題、あのナメクジ、栄養価がかなり高いように思う。雪崩に遭い、体力も尽きかけた私をここまで回復させたのだ。言ってしまえば、シロと暮らしていた時よりも余裕がある。毎日猫に連れられての移動で疲弊しきってはいるものの、やせ衰え、死ぬという感覚は、今は少し遠い。
他方、水については問題が継続している。ペットボトルの水は飲み切ってしまった。仕方がなく、このところ生水を口にしている。危険なことをしているとは思うのだが、喉の渇きは空腹よりも耐え難かった。幸い、今のところ軽く腹を下している程度だが、どこかで取り返しのつかないものをひっかけるのではないかと冷や冷やしている。
それでも、猫たちは止まらない。相変わらず私の声を聞き届けないし、理解もできない。
彼らはどこへ行くのだろう。
どこまでも行くのかもしれない。野生の肉食獣は、いつだってひとところには留まらない。
では、なぜ私を連れる。私の言葉が分からないのに、私がなんの役に立つ? 足手まといの私など、置いて行ってしまえばいいのに。その方が、私にとっても猫たちにとっても都合がいいはず。
なのに、私はなぜここにいるのだろうか。私を連れるように命じた、あの魔法使いは一体、どこに行ってしまったのだろう?
七日
今朝早く、魔物を見た。
泥の中で、小さな獣に喰いついているのを見た。透き通った朝の空気の中、不意に目に入ったその姿が、なぜか印象に残っている。
体毛は泥に汚れ、鳴き声はしわがれ、狂気じみていた。長い尾を持ち、たしか体は大きかったように思う。人の背丈ほどあっただろうか?
それは行軍する猫たちに見向きもせず、目の前の獣を喰らうのに必死だった。猫たちも気に留めた様子はない。
私も、この時にはすでに魔物の存在に慣れ切っていた。特に魔物を注視したわけではなく、遠目から泥まみれのそれを見ただけに過ぎない。
ただ、なんだろう。違和感があった。あの時、遠目から見ていて、なんだかおかしいと感じたのだ。
なんだろう。
わかった。
あの魔物、見覚えがあったのだ。
泥まみれですぐには気付かなかったけど、あれは猫だ。
魔法使いの猫だった。