大魔導師サイネケンと若返りの魔法⑦
(見学した感じだと、取り立てて不審な点はなかった。とりあえず拾った毛が何の動物なのかと、あとはあの男の子には悪いけど、縁組を申し出た夫婦の素性を調べて……。問題がなさそうなら様子見かな)
陽は、すっかり沈んでいた。
道に沿って大通りに並ぶ灯りが、光の帯を作っている。
昼間ほどではないが、それなりに賑わいがあった。
来た道を引き返す馬車の暗くなった荷台の中で、アルベルトは膝を抱えて座っていた。
(はぁ……、そういう選択肢もあるってわかってるし、可能ならそれが当人には最善だっていうのもわかるんだけど……。理屈では理解できても、やっぱりへこむなぁ……)
足元から上がってくる冷気も気にならないほどに、先程の少年の言葉が胸に突き刺さっていた。
アルベルトにとってリストニアは、前世で大切にしていた物語の舞台であり、同時に生まれ育った故郷でもある。大森林の脅威は常にあるが、それでも日々の移ろいは美しく、リストニア家の者たちが守り続けてきたこの地を、大切にしたいと考えている。
——だが。
皆がそう感じているとは、限らない。
故郷は灰となり、家族を奪われ。
自身は魔物と戦うすべを持たず、苦痛と共に生きていかなければならないとしたら。
……この地は、地獄と変わらぬ場所となるだろう。
才能や地位に恵まれている者の方が、稀なのだ。たとえそれが、物語として用意された設定なのだとしても。
(私がしてきたことは、……していることは、本当にみんなのためになっているのかな……)
ぐっ、と息が詰まりそうになる。膝に顔を埋めると、御者台の方から「閣下」と静かに呼びかけられた。
「百人いれば、百通りの生き方がございます。……自分は、三年前まで駐屯兵をしておりました。正直なところ両親には最初、騎士団入りを反対されましたよ」
膝から、顔を上げる。手綱を持つ騎士は、前を向いたままだった。
「ですが、今ここにいます。あなたと共にこの地に住む人々を守りたいと、そう思ったからです。たとえ、この身が地に伏そうとも。……そしてそれは、戦わず生きる人たちも同じだと思うんです」
広い通りを、荷馬車が進む。荷がなくなったおかげで馬の足取りも軽く、軽快に歩いている。
「通りを見てください、閣下。皆、笑顔で歩いています。あの子は大きなパンを抱えてますね。美味しそうだ。あなたがいるから、あなたと生きたいから、リストニアにいる者たちもいます。その信頼は、あなたの支えにはなりませんか?」
(ロイドさん……)
騎士の言葉は真摯で、思いやりに満ちていた。おそらく、普段から本当にそう感じてくれているのだろう重みがあった。
アルベルトはフードをもう一度被り、騎士の分のローブを脱ぐ。それを手に持ち御者台まで行くと、後ろから騎士の背にローブをかけ隣へと腰を下ろした。
「閣下?」
「……ありがとう、ロイド」
「いえ、みな思っていることです」
「それを言葉にしてくれるのは、君の優しさだ」
(良い人だな。お兄さんがいたら、こんな感じなのかも)
御者台から、騎士に言われたように通りを眺めた。
灯りが建物を、人々を照らしている。
花屋が店じまいをしている。
肉屋の主人が、手を叩きながら呼び込みをしている。
冷たい風に身を寄せ合い、連れ立って歩く二人の女性。
マフラーを手に、先を走る子どもを追いかける男性。
無数の声が入り乱れ、賑やかな夜を形作る。
それは原作のアルベルトも、そして『自分』も望んだ光景であったはずだ。
「……誰にも傷ついてほしくない、と願うのは傲慢だろうか」
アルベルトの思いを実現不可能だと笑う者もいるだろう。理想は大きいほど、理想のままで消えてしまうのが世の常だ。
「閣下がそれを願うのであれば、我々はどこまでもついていきますよ。……まぁ、ほんとぶっちゃけ。この間の腐死の魔導師戦で、早々に戦線離脱して治療用のテントで声を上げて泣いていた自分が言う台詞じゃないかもしれませんが」
「……泣いて?」
「誰にも言わないでくださいよ。——悔しかったんです、戦えない自分が。肝心な時に閣下のお力になれない自分が。……なので魔力の底上げをしたくて、副団長に頼み込んで大隊長を紹介してもらったんです」
なるほど、新米騎士と大隊長の繋がりはそこからの縁か、と。アルベルトは通りから視線を若い騎士へと移した。
騎士たちは魔導師ほど魔力が多いわけではないが、それでも鍛錬すれば素質の差はあれど、ある程度の増加は見込める。魔法を使う機会はなくとも、魔力が増えればそれだけ防御や耐性も強くなる。
短期集中で習うなら、大隊長に師事するのは良い案だと言えた。
「そういえば、大隊長は君を随分と気に入っているようだった」
少しだけ浮上した気持ちにつられて、執務室の前で大隊長とした話を口にする。さすがに「好みのタイプだ」と話した点については「気に入っている」に置き換えはしたが。伝えた途端、前を見る若い騎士の目にキラリとした輝きが宿った。
「サイラスさんが?今度非番を合わせて、あの人の家で食事をする約束をしてるんで、根掘り葉掘り聞いてみます!」
(……!?ま、待てー!今、すんごい爆弾発言が!)
「だ、大隊長の家で……食事?」
「あの人、非番の時は一日中寝倒してろくに食べもしないらしいんで作りに行く約束を。自分、こう見えて結構料理得意なんです!」
(はわ〜!なんか急に怒涛の萌え成分が……!さっきまでのシリアスは一旦脇に置いて、今日の付き添いをロイドさんにしてもらって、本当に良かった〜!!)
心の中の腐女子隊も、先程までの空気を忘れて一気に大盛り上がりだ。「そのままお泊まりコースな予感!」だの「大隊長から誘う線もありなのでは!?」だの好き勝手騒いでいる。ちなみにアルベルトの心の中の腐女子の好みは、『年下ワンコ攻めの押せ押せコース』だった。
「楽しい時間を過ごせそうだな」
「はい!がんばります!」
「……っ、が、がんばる?」
「あっ…!い、いえ!料理をがんばろうと!」
(ご、誤魔化した!今、絶対誤魔化した!ちょっとやさぐれてた私の心に効くぅ〜!!ありがとう〜!!)
惜しむらくは、これを分かち合える同類がいないという点だが。
アルベルトは隣に座る、少し照れた様子の若い騎士を見上げながら、立場をフル活用して見守っていこうと心の中で硬く拳を握っていた。
その後数日は、何事もなく日々を過ごすことができた。
サイネケンからも、エルフ王グウィンに確認を取ったところ、同じく『しばらくすれば効果は消える』との見解を得たとのこと。その『しばらく』を知りたいとは言えず、執務室と書庫、そして自室を往復する毎日を送っている。
万が一に備えて、足首まで隠れる長めのローブを着る生活にも慣れてしまった。
この日も、ある程度の執務を片づけてから書庫に籠っていた。
(どの文献を探してもないなぁ。何の動物なんだろう)
机には、いくつもの本が広げられ、その脇に赤い色をした動物毛が置かれている。
毛の長さはどれも五〜七センチほど。根元部分は黒くなっていた。
(この太さと長さだと、馬くらいの大きさかな。でもこんな鮮やかな赤い毛の馬なんて、聞いたことないし。そのもそも毛質が違う)
馬ではないとすると、大きさから考えてリストニア城下の養育施設に気軽にいて良い類のものではない。
(ものすごく大きい、ペットの犬?……前世には人間より大きな超大型犬とかいたよね。この世界ってひょっとして赤い色の犬とかいたりする?いやいや、だったら見学する時に誰かが教えてくれるだろうし、立ち入り禁止の場所で飼ったりもしないでしょ)
「……それに、この色。どこかで見たような……」
「——閣下、失礼いたします」
灯りの下でじっくり眺めていると、態度には出ていないが少し慌てた気配のヴォルフガングが、ノックの後に入ってきた。
その視線が、アルベルトの頭からつま先までを見る。
「先程、サイネケン殿の姿が元に戻りました」
「……!そうか、ということは私も」
「同時に戻るはずだと聞いていたのですが……」
「誤差があるのかもしれない。私のような前例がないのだから、予測からずれることもあるだろう」
それでも、サイネケンの知らせは朗報だ。大元の術の効果がなくなった以上、解決も時間の問題のはず。
ようやく本来の日常が戻るいう安堵から、アルベルトは息をついた。
「効果が切れるタイミングを可能性を考えると、部屋にいた方が良さそうだ」
サイネケンとは違い服のサイズに問題があるため、できれば自室で誰もいない時に戻りたいと考える。ヴォルフガングも同じ考えだったのか、「そうですね」と相槌を打つと、本を片付け始めたアルベルトの手伝いに加わった。
「閣下、この赤い色の毛は?」
机の上に置かれた動物毛に気付いたらしく、問いかけてくる。
「先日行った施設で拾ったものだ。思い浮かぶ動物がいなくて、調べようと思って持って帰ってきた。属性や耐性がついていないから、魔物ではないとは思うんだが」
「質感は、大型の動物のように見えますね。確かにここまで鮮やかな赤い色の生き物は、記憶にないですが。人をやって調べますか?」
「騒ぎになっていない時点で、いるかどうかも怪しい。加工で染毛されているだけの可能性もある。リュシアン宛に同じものを送っているから、結果を聞いて対応を決めよう」
「かしこまりました」
(意外にもこの世界、郵便に速達があるんだよね。解析が終わったら、例のスマホのビデオ通話みたいな『写し鏡の魔道具』に連絡してもらうようにしてるから、タイムラグなく結果が聞けるのも助かる〜)
古い本を傷めないよう丁寧に片付けてから赤い毛も袋にしまい、二人で書庫を出る。
アルベルトが今日はこのまま自室に戻る旨を伝えると、忠実な騎士は朝までの護衛を買って出た。
「気持ちだけ受け取っておこう。自室に籠るだけだ。内鍵もかける」
基本的にアルベルトは、自室前には護衛を置いていない。日中、人の出入りが多い執務室に護衛がいるのは、単純に来訪者の確認のためでもある。なぜならば、アルベルト自身がこの城で確実に三本の指に入る実力者であるからだ。故に、子どもの姿となり魔法も剣もまともに使えない主を心配するヴォルフガングの気持ちもわかるのだが。前提として、アルベルトが子供になったと知る者自体が限られている。わざわざ城に忍び込んで、大魔導師サイネケンをして『この国屈指の武人』と言われるリストニア侯爵の寝込みを襲おうなどという命知らずな者はいないだろう。
(……まぁ、昔はいたりもしたけど。魔物の討伐実績が積み上がっていくにつれて、減っていったというか)
筋肉は全てを解決する、の実例を作ってしまった形だ。
「簡単な夕食だけ、頼んでおいてくれ。一緒に食べるとしよう」
だが、それはそれとして。申し出てくれたヴォルフガングの気持ちを無碍にはしたくない。
提案すると、騎士は瞬きを一つしてから「えぇ」と表情を和らげた。
「少しずつ魔力を制御できるようになってきた。朝までには戻れそうだ」
「何よりです」
自室で、二人きりでの夕食をとった後。
ヴォルフガングが淹れる紅茶を待ちながら、椅子に腰掛けたアルベルトは自身の手を見下ろしていた。
出の悪い蛇口が水圧で詰まりを押し流そうとしているような、そんな独特のムズムズとした感覚がある。これを覚えておけば、もし今後同じような事態になったとしても、いくらかマシに動けるのかもしれない。もちろん二度とこんな事が起きないように、サイネケンには若返り魔法を使用する際の注意事項をしっかりと伝えるつもりだが。
「君にも世話をかけたな」
「私が閣下に関することで苦に思うことなど、何一つありません」
ソーサーの上に、静かにカップが置かれる。
優しく細められる瞳に、アルベルトは頬に熱が集まるのを感じた。
(こ、こういうことをサラッというよね、この人……。中身が私だから、騙してるみたいで、毎回気が引けるというか……)
心の中に浮かんだ「騙している」という言葉が、小さく胸を刺す。
「……私なんかの、どこがいいのか」
それは、単なる独り言だった。
心の中の声が、零れ落ちただけの。
(前世の記憶としての『私』が目覚めなければ、ヴォルフガング様は原作の『アルベルト』を好きになって、原作通りの道を歩んでいけたのかもしれない。きっとそれが本来あるべきルートで、リストニアの人たちにとっても最善だったのかも……)
たらればを考えていても、仕方がない。だがそれでも、あったかもしれない可能性を想像してしまうのは、あの少年の言葉が今も尾を引いているからなのだろう。
少年は、何も悪くない。家族を失いながらも前を向き、将来を見据えて行動していた。アルベルトとて両親を喪ってはいるが、アレクシアがいる。ヴォルフガングも。そして、リストニア家を支え、仕えてくれている者たちや、この地で生きると決めた者たちも大勢いる。
誰に聞いても「恵まれている」と言われる境遇だ。
立場が逆なら、自分とて少年と同じ選択をしたかもしれないと考えてしまう。
全員が同じ意思を持つなど、ありえない。少年の選択は、彼にとっての最善だった。
それも理解している。
けれども、その上で。
どうしようもなく。
寂しいと、感じてしまう。
「——閣下」
俯くアルベルトの頬に、硬い手が触れた。
なにかございましたか、と片膝をついた騎士に静かに問われる。その想いに触れることさえ、躊躇われた。
享受して良いのか、その価値があるのかと。
『原作』と同じ存在に、なれるはずもないのに。
緩く首を振り、漏れそうな弱音を唇を噛むことで止めた。
その薄い皮膚を、ヴォルフガングの指がそっとなぞる。
「……傷がつきます」
静かで、けれども渇いた地に染み入る雨のように優しい声。
薄いガラスに触れるように、アルベルトは自らの手を、同じ目線の騎士の首の後ろへと回した。そうしてほんの少しだけ、身を寄せる。間を置かず、騎士がアルベルトの薄い背中に腕を回し引き寄せる。小さな身体が広い胸の中に閉じ込められる。
(……私は、この優しい人も偽って生きている)
それでも、伝える選択肢を選ぶことができなかった。
アルベルトには、違う人間として生きた記憶があるのだと。そしてここは、その人間が読んでいた物語の中かもしれないと。
「……サイネケンが、肉体に精神が引っ張られると言っていた。私も今頃になってその効果が出たのかもしれないな。すまないが……、少しだけこうしていてくれ」
何度も目を背けて、そして何度でも考えてしまう。
原作通りに時間軸が進まないのは、どう演じても原作の『アルベルト』にはなれないからなのではないか。できることをしているつもりで、ずっと間違った道を歩んでいるのではないか、と。
原作の慈愛に満ちた『アルベルト』なら、あの少年の選択にも幸せを祈る言葉と共に微笑みを贈ることができていたはず。それをしなかった時点で、否定的な感情が浮かんでいたことは間違いない。
あの時、比べてしまったのだ。
少年の選択と、彼や人々を生かすために命を捧げてきた騎士たち、魔導師たち、兵士たち、治療師たちの生き方を。
ヴォルフガングや自分が、人々を守るために負った傷の数を。
家族と故郷を喪った子どもに抱いて良い感情ではないと、気付いていながら。
(あの時、声をかけずに見送ったのは、アルベルトとして正しくなかった。私は、自分の感情を優先したんだ……)
この気持ちを吐露すれば、ヴォルフガングは若い騎士と同じように慰めの言葉をかけてくれるだろう。
けれど、それでは駄目なのだ。『アルベルト』ではなく『自分』が肯定されるなど、あってはならない。
「……閣下」
今は、何も言わないでほしい。
その思いを伝えることさえできず。アルベルトは回した腕に力を込め、共に生きてきた騎士の胸に顔を埋めた。
(いや、寝るとか……。普通あのまま寝るとかある……!?)
ない。自分で問いかけ、自分で答える。
どうやら身を寄せるように凭れたまま、眠ってしまっていたらしい。
いつのまにか、室内には朝日が差し込んでいた。
眠った主君を起こさないように小さな身体を抱き上げた騎士は、代わりに椅子に腰を下ろしたのだろう。そのまま朝まで眠らずに。
アルベルトは、自身が、鍛えられた身体の持ち主の膝の上で横抱きされている事実に気が付いた。
「おはようございます」
「……お、おはよう……」
温かな色味を宿す銀灰色の瞳へ挨拶を返して、違和感を覚える。何やら足元がスースーする。視線を向けると、自分の素足が目に入った。
靴を、履いていない。
ズボンも、履いていない。
昨日までは足首辺りまであった長いローブが、膝上丈になっている。
(ほわっ!?)
身体に巻かれていたローブをばさりと開く。見慣れた十八の自分の身体が目に入ってくる。
ただし。
何も身につけていない、全裸状態のものが。
(おわぁぁぁぁぁぁ!!!??)
慌ててローブで隠し、今度はテーブルの上を見た。丁寧に畳まれた状態で、子ども服が置かれている。一番上には、ちゃんと下着もあった。
「……昨夜、眠ってしまわれた後、お身体の年齢が戻り始めまして。その……、息が苦しそうでしたので」
つまり、気を遣って脱がしてくれた、と。
ヴォルフガングの視線は、窓の方を向いていた。その頬に、赤みが差している。
沈着冷静な騎士でも照れることがあるのか、と思うと逆に冷静になることができた。
(む、昔は一緒にお風呂に入ったこともあったし!ヴォルフガング様は親切でやってくれたんだから……!)
「て、手間をかけさせた。すまない」
素足のまま、膝の上から降りる。絨毯が敷かれてはいるが、それでもひんやりとした感触に、意識がよりクリアになった。
視線の高さが、昨日までとは違う。声も子どものものではない。ようやく戻ったという安堵と裸ローブという現実が、アルベルトの足をまっすぐクローゼットへと向けさせた。
(とりあえず下着!それからズボン!あとシャツ!!)
靴はこの際どうでもいい。背後からの視線を感じながらも、無心で手早く着替えをすませる。
(修羅場をくぐり抜けてきた身体すぎて、ヴォルフガング様の視線がわかる〜!この間の腐死の魔導師戦で倒れた時も、着替えを手伝われて散々見られてるから今更なんだけど。それでもやっぱり、あんまり見られたくないわけなんですよ!)
魔力の制御も元に戻り、子どもの身体の時ほどの寒さは感じなくなっている。とりあえず白いシャツと黒いズボンまで着込んでから、振り返った。
「一晩中支えてくれていたんだな。疲れてはいないか?」
「……いえ、羽のようでしたので」
「そ、そうか……」
(そんなはずないですからね!普通に身長も筋肉もある身体ですからね!)
思わず、心の中で突っ込む。そこでふと、昨日の夜に比べるとかなり気分が浮上していることに気付いた。
言い訳のようにヴォルフガングへと伝えた『肉体に精神が引っ張られる効果が今頃出た』というのも、あながち間違ってはいなかったのかもしれない。
もちろん、この地に住む人々の未来や『アルベルト・リストニア』としてほ生き方とは、この先も向き合い続ける必要があると胸に刻んでおかなければならないが。
「ありがとう。昨日は少し落ち込んでいたようだ」
軽くなった気持ちに笑みを乗せて、礼を伝える。
それに対して頭を下げたヴォルフガングが、近くまでやってくる。そうして、「失礼致します」と花弁の露を掬うような繊細さで、アルベルトを横様に抱え上げた。
「靴を用意しております」
驚くアルベルトには構わず、ベッドまで行き、縁にゆっくりと下ろす。
「じ、自分で履けるから」
目の前で跪かれることには慣れてきたが、足元にしゃがみ込まれると何故か恥ずかしさが増してしまう。相手が素足に触れようとしている状況なら、なおさら。
(ほら、その、昨日お風呂入ってないし……!)
当然のように靴を履かせようとしている騎士の手を、なんとか止める。三度頼み込んで、ようやく靴だけを足元に置いてくれた。
急ぎ気味に足を入れ、立ち上がる。靴下は、後で履こうと諦めた。
「皆にも知らせないと。まずは執務室に……」
廊下へと繋がる扉へと身体を向けたアルベルトの左手が、不意に捕らえられた。
「ヴォルフガング?」
どうした、と問おうとして、彼の視線が下を向いていることに気付く。
アルベルトのシャツの袖から見える、淡い輝きの同魂の印。それを見つめながら、騎士が口を開く。
「……自分のどこが良いのか、と。昨日あなたは仰いました」
艶のある黒髪が、その眼差しに影を落とす。
「あなたがいなければ、私は何も見えず、何も聞こえないまま。この胸の鼓動を、とうの昔に己の手で握り潰していたことでしょう」
静かに、言葉が紡がれる。
「あなたは、私に世界を分けてくれました。それだけでも、充分に報われていたのに」
アルベルトの手が持ち上げられ、その手首に乾いた唇が触れる。忠誠のように、懇願のように。
「この印を、受け入れてくれた。……俺は、いつも与えられています」
忘れないでください、と銀灰色の瞳がアルベルトを映す。
「あなたは、私の全てなのです。今までも、これからも」
「——……」
アルベルトの心の中に、一つの想いが、願いが、浮かんだ。
この瞬間だけでいい。
騎士の言葉は、『自分』へ向けられたのだと。
そう、信じても良いだろうか。
「……私の方こそ、貰ってばかりだ」
騎士の手に、自身の右手を重ねる。
六年前の、あの日。
知らない記憶が堰を切ったように溢れ、アルベルトの人格が押し流されそうになっていた、あの時。
繋ぎ止めてくれたのは、この手の温もりだった。呼んでくれた、声だった。
彼がいなければ、十二歳のアルベルトは、今までの記憶を前世に上書きされていたかもしれない。
もしそうなっていれば、アルベルト・リストニアは見た目が同じだけの、別人となっていたことだろう。
「君が繋ぎ止めてくれたから……ここに、いられる」
告げた思いの意味は言えず、伝わることも望まないけれど。
重ねた手に力を込め、自らの胸元に引き寄せる。
それは、祈りにも似ていた。
〈——閣下、お身体はいかがですかな?〉
扉の向こうから、耳に馴染んだ老いた大魔導師の声が聞こえた。
そっと手を離したアルベルトは、扉に向かって「私も戻ったよ」と応えを返し、傍にいた騎士を見上げた。
何を思い、何を悩もうと、時の流れが止まることはない。
アルベルト・リストニアには、多くの役割がある。進み続けなければ、ならない。
今はまだ、道の先が見えなくとも。
「行こう。大森林の調査を進める段取りをしておきたい。拾った赤い毛についての答えも、リュシアンから連絡が来る頃だ。もし危険な生き物であれば、改めて施設を調べる必要がある」
「承知いたしました。その際は、お供いたします」
申し出に頷くと、ヴォルフガングがホッとしたように目を細めた。
「失礼いたしますぞ」
扉が開き、老翁の姿へと戻ったサイネケンが入ってくる。
いつも自信に溢れている彼にしては珍しく、どことなく目が泳いでいるように見えた。
「数日ぶりの姿だ、我が師よ。……どうやら熱も無事冷めたようで、何より」
声をかけると、近くまで来た老人から肺の中の全ての空気を吐き出すかのような長い溜息が聞こえてきた。
「儂の百二十年の生の中でも、ありえぬ失態でした。この魔法は、二度と使わぬようにいたしましょう」
(へぇ……。お爺ちゃん、百二十歳なんだ。——……百二十歳!?えっ?人間、だよね?)
衝撃の事実すぎて、後の話が耳に入ってこない。
この世界の人間の平均寿命は、前世で住んでいた国よりも少し短いくらいだ。百二十歳は、あまりも長寿すぎる。しかもサイネケンは、腐死の魔導師戦で、騎士並の身体能力を見せていた。
どういう原理なのだろう。禁忌に足を踏み入れたりしていないだろうか。
心配が顔に出ていたのか、アルベルトを見た大魔導師は「心配ご無用」と手をひらひらと振って、
「魔力の強さと、制御力の高さの賜物です」
と答えた。
「それより、儂の部屋にある写し鏡の魔道具に、リュシアンから連絡が入りましてな。閣下からの依頼の件とのことで、早朝ではありましたがお呼びに参りました」
「リュシアンから?ありがとう。あなたにも同席してもらいたい件だ。構わないだろうか」
「もちろんです」
どうやら赤い毛を持つ生き物については進展がありそうだ。
後で部屋に向かうので先に戻っていてほしいと伝えると、サイネケンの視線がアルベルトの全身を行ったり来たりした。言いたいことはわかる。毎朝きっちりタイまで締めているアルベルトにしてはカジュアルすぎる装いだろう。
「今朝、身体が戻っているのに気付いて慌てて着ただけなんだ。……できれば湯浴みもしたいし」
「なるほど」
深い皺の奥にある瞳が、今度はテーブルの上に置かれた子ども服を見る。
「……お邪魔でしたかな?」
(なっ!?お、お爺ちゃん!?)
「ち、違う!そういう意味では……!」
「しかし、湯浴みをしたいと」
「そ、それは普通に汗を流したいだけで」
「……汗をかくような夜を?」
(違うって!昨日お風呂入れなかったから!ちょっと待って!わかっておりますぞ、みたいな顔しないで!!完全に誤解だから!!ていうか何でそんな突っ込んで聞くの、この人!!もうーー!!)
「違う!お爺ちゃん!」
本当に、うっかりと。
心の声が、そのまま口から転げ落ちた。
「……!?……し、失礼、した!」
慌てて口を押さえたが、時間は戻らない。驚いた顔をしている。サイネケンも、ヴォルフガングも。
大魔導師は数秒真面目に考え事をした後、何故か嬉しそうに破顔した。
「見えていない部分の肉体年齢が戻りきれていないのやもしれませぬな。儂は大歓迎ですぞ。閣下がそう思っていてくださっていたとは、光栄の極み」
「……いや、その……」
「ちなみに、先程の話は冗談です。もし本当に『そのような夜』を過ごしていたら、このような早朝に閣下が立てるはずがございませぬからな」
(それもどういう意味だよ。心の声を魔法の副作用だと勘違いしてくれたのは、助かったけど)
朗らかに笑いながら、「では後ほど」と退室していく百二十歳の背中を、溜息と共に見送る。
室内に、沈黙が落ちる。
窓の向こうから、朝鳥の鳴く声がした。
「……湯浴みをしよう」
「手伝いましょうか?」
「それはいい!」
ヴォルフガングにまで、からかわれるとは。
叱るような目で見上げると、想像していたよりもずっと、温かく優しい眼差しがこちらを見つめていた。
「いつでも、お手伝いいたします」
どうやら、本気だったらしい。
そうなると、冗談として流すわけにもいかず。
視線を外しながら、アルベルトはモゴモゴと「今日は、いい」とだけ答えたのだった。
お読みいただきありがとうございました。
別連載の『お喋りクソ野郎、と言われ千年前に魔皇に声を封印された兵卒ですが、年下のイケメン最高指揮官に片想いしています。』の番外編を更新後、第三章に入ります。(間に息抜きのBL短編を挟むかもしれません)
お時間ある時にでもお読みいただけると幸いです。




