序話 黄金の侯爵
大陸の西部に位置する、王国ファンケンラート。
その北部には、古くから『魔境』と呼ばれる大森林が暗く根を張っていた。
瘴気が絶えることなく満ちるその森では、魔物達が飽くことなく血を血で洗う争いを繰り広げている。
彼らは人語を解さず、本能——人肉を好む食性と、破壊的な衝動——で構成されており、たとえ低レベルの魔物であっても、その鋭い爪や牙はいとも容易く人間を切り裂いてしまう。
人々は魔物を恐れ、嘆き、戦い、生き抜く。
ファンケンラート王国の歴史は、繰り返される魔物たちとの長い戦いの歴史とも言えた。
王国の中でも、魔境の大森林に隣接するリストニア侯爵領は特別な存在だった。
土壌豊かな森林と埋蔵量の多い鉱山を抱えながらも、常に魔物の侵攻と瘴気という脅威に晒される危険な土地。
リストニア家は、代々王国を守る盾としてこの地を治めてきた。
その力は他家の追随を許さず、先代の当主は自らリストニア騎士団の団長を務め、その妻はリストニアにある北部魔導院の責任者として地を守る戦いに身を投じてきた。
しかし六年前——魔物の大侵攻、スタンピードが発生。
二人は災厄の称号を持つ腐死竜と戦い、そして相討ちとなった。
侯爵家の後継者として優しくも厳しく育てられていた少年は一夜にして父と母の温もりを喪い、爵位を継ぎ、幼い妹を背負って侯爵領を統治する立場に立たされた。
アルベルト・リストニア。
十二になったばかりの冬の出来事だった。
誰もが「この少年は重圧に耐えきれず潰れてしまうだろう」と哀れみの目を向けた。
しかし、彼は膝を折らなかった。
白磁の肌に嵌まるアメジストの如き薄紫の瞳には深い知性と慈愛が宿り、空気を震わせる声は清らかな水の流れのよう。金糸で編まれたような髪を胸元まで伸ばし、無造作に後ろで一つに束ねた長身の青年——。
それが今、十八歳となったアルベルト・リストニアだ。
完璧な対称性を誇る顔立ちは、まるで神々が作り上げた彫像だと誰もが噂する。文武両道の才は生まれつきのもので、剣を振るえば剣聖に劣らぬ速さを見せ、魔法を唱えれば大魔導師をも驚愕させる術式を展開する。
魔物との戦いではリストニア騎士団を率いて自ら先陣を切り、敵を打ち倒す。
その輝かしい力と、何より人々を守ろうとする温かき心に、領民たちは彼を『黄金の侯爵』と讃えてやまなかった。
リストニア城にある執務室では、早朝からペンを走らせる音と報告を読み上げる声が絶え間なく続いていた。
「閣下、昨日の魔物討伐の報告が届いております」
低い、しかし敬意に満ちた声が響く。執務室の椅子に座るリストニア家当主アルベルト・リストニアの前に立ち、手にした書類を読み上げるのは、黒い髪に銀灰色の瞳をした騎士——ヴォルフガング・ツェベルクだ。
アルベルトの従兄弟であり、幼少期よりリストニア家に仕えている。その剣の腕は王国で最も鋭く重いとされ、二十一という若さで、王国唯一の剣聖にまで上り詰めた。
長身で引き締まった体躯に、黒を基調とした騎士服を纏い、腰には宝剣「夜裂き」を佩いている。
常に冷静であまり表情を変えることはないが、瞳の奥には確かな忠誠が音もなく青い炎のように燃えていた。
アルベルトは軽く頷き、ペンを置くと顔を上げた。
「詳細を」
「昨夜遅く、北方の村落に通じる農道に中型の魔狼が三体出現しました。連絡を受け急行したリストニア騎士団により、討伐は明け方に完了しております」
「負傷者は」
「たまたま酔い覚ましに歩いていた農夫が1人。ですが彼のおかげで魔狼の急襲にいち早く気付けました。幸い怪我も軽く、瘴気による作物への被害も最小限です」
「……そうか」
淡々と告げるヴォルフガングに、アルベルトは短く答えると続けた。
「ご苦労。討伐者への報奨はいつも通りに。負傷しながらも知らせてくれた農夫にも、十分な治療を」
「御意」
深く一礼をしたヴォルフガングが、次の報告を始める。
リストニアは魔の境界と接する地。騎士団からの報告はたった一晩でも十は優に超える。
それら全てを聞きながら、アルベルト・リストニアは、…いや、彼の『中身』とも言える精神は、実のところ全く別のテンションを維持していた。
(今朝もみんな無事でよかった〜!そしてヴォルフガング様は相変わらず声まで完璧すぎる〜!うひ〜!朝から眼福〜!ありがとうございますぅぅぅ〜!!)
表向きはいたって真面目な顔で、適切に指示を出していく。この究極の二枚面も、すでに慣れたものだ。
再び礼をしたヴォルフガングが、報告書の束をアルベルトの執務机の上に奏上する。わずかに視線を落とし、顎を引く。さらりと揺れる、黒い髪。
アルベルトの心の中では、何故か神輿が練り歩いていた。
(ワッショイワッショイ!この角度から見るド級のイケメン、破壊力高すぎィッ!こんな完璧超人が傍にいたら、そりゃ原作のアルベルトも最終的にはメロメロになりますって!第三者視点で二人を見たかったぁ〜!自分じゃ萌えねぇわ!)
ボーイズラブを愛する腐女子魂が激しく燃え上がる。
だが、そんな内面は微塵も表に出さない。
腐女子。
そう、腐女子。
六年前、両親が亡くなった瞬間——。
突如頭の中に流れ込んできた、膨大な量の前世の記憶。
民主主義の国に住む普通の会社員で、ボーイズラブ、つまりBLが大好きな腐女子だった自分。
転生先が人気BL作品の原作小説『この忠誠は、永久に』の世界であり、自分がその中の「最強スペック持ち受け」の主人公アルベルト・リストニアであると気付いた時、彼女はパニックになった。
だが記憶の奔流の中にあっても、不思議と精神に負荷がかかることはなかった。二つの記憶は滑らかに融合し、十二歳のアルベルトとしての人生も、前世で生きた時間も、どちらも『自分』として受け止めることができた。
以来、彼女は『アルベルト』を演じている。
ここに至るまでは、必死だった。最強スペックだとは分かっていても、なにしろ中身が違うのだ。
前世の記憶を、知識を、職務経験を総動員して『魔物との戦いとか怖すぎるよ〜!!でもやらなきゃ小さな子たちまで危険な目に遭うからやりますけど〜!!』と嘆きながら奮闘を続けてきた。
記憶しているだけでも、十回は死にかけている。
それでも元々のスペックのおかげか、領政は奇跡的な効率で回っていた。魔法を駆使して灌漑設備を強化し、鉱山の採掘効率を三倍に向上させた。剣術の稽古も欠かさず、剣聖であるヴォルフガングとの模擬戦でも何とかついていけている。……一度も勝てたことはないが。
領民からの信頼は厚く、「平和に暮らせるのは侯爵様のおかげだ」と感謝の声が絶えない。
アルベルト自身のスペックは、実に物語の主人公らしい、いわゆる「チート」だった。魔力は強大で、リストニア家直系に伝わる血族魔法の他、当主のみに発現する紫紺の魔法を使うことができる。六年前の両親の死後、初めて使用した時は、領内全域を覆うほどの光が迸り魔物の大群を大森林まで押し返したという伝説すらある。
だが中身としてはそれらが全て設定上のチートだと理解しているので、人々からの称賛に対して驕ることは決してなく。むしろ逆に「前世の記憶とは言え、みんなのアルベルトがこんな腐女子でごめんなさい!バレないように頑張るから許して!」という気持ちであった。
「お兄様!おはようございます!」
執務室に、明るい声が響いた。警備の騎士が開けた扉から、可憐な少女が顔を覗かせる。
入ってきたのは、腰まで伸ばした桃金色の緩やかな巻き毛を揺らす美少女——アレクシア・リストニアだった。
十一歳とは思えない気品を備え、薄い紫の瞳は兄と同じ輝きを宿している。
ふんわりとしたドレスを軽やかに弾ませながら、アレクシアは兄へと駆け寄った。
「朝食のご準備が整いましたの。ヴォルフガングも一緒にいかが?」
リストニア夫妻が亡くなった時、彼女はまだたった五歳だった。幼い頃に両親を亡くした彼女にとって、アルベルトは両親の代わりであり、兄。つまり家族全てとなった。
その兄妹仲はリストニアに住む者なら皆が知るほどで、子を持つ親たちは長子には「侯爵閣下のように歳下を慈しみなさい」と教え、末の子には「アレクシア姫様のように兄姉を思いやる優しい子になりなさい」と日頃から教え育てていた。
「おはよう、アレクシア」
アルベルトは椅子から立ち上がると、胸に飛び込んできた妹を優しく受け止めた。
内心では
(アレクシアちゃん、今日もめっっちゃ可愛い……!あっ、この間視察に行った時にお土産に買った白蝶貝の髪飾りつけてくれてる〜!嬉しい〜!)
と叫んでいた。
「ちょうど空腹を感じていたところだ。ヴォルフガング、君も一緒に」
「恐縮です、閣下。警邏までの時間でよろしければご一緒できます」
「ではそうしよう。警邏は私も手伝うよ。ちょうど見たい場所もある」
アルベルトの言葉に、ヴォルフガングはわずかに眼差しを和らげた。
三人が向かったのは、城の奥にある小さな食堂だった。客をもてなす晩餐会用の食堂とは違いアルベルト達しか使わない、家庭的な空間だ。
テーブルには焼きたてのパンとサラダ、コンポート、ミルクスープといった簡単な朝のメニューがメイド達によって並べられていた。
食事をしながら、アルベルトは近況についての話を振った。
「ここ数日、報告に上がる魔物の数が少しずつ増えている。ヴォルフガング、君の耳に何か届いてはいないか?」
「報告が増えた箇所を重点的に調査したものが、午後に届く予定です」
「分かった、一緒に見よう。届いたら呼んでくれ」
「承知いたしました」
主が必要とするものを先回りして用意する側近の優秀さに、心の中の鼓笛隊が行進を始める。人数多いな…、と自分の心相手に突っ込んでいると、不安そうにこちらを見る妹と目が合った。
先程まで仕事をしていたせいで、切り替えを忘れて朝から物騒な話をしてしまったことに気付く。
「すまない、アレクシア。食事中にする話ではなかった」
「いいえ、お兄様。リストニアの人々を守るためのお話ですもの」
アレクシアは首を横に振るが、それでも十一歳の少女に聞かせる内容ではなかった。心の中の鼓笛隊と反省会をしつつ、話題を変える。
先日の魔物討伐の帰りで見かけたカルガモの親子の話は、アレクシアを大いに喜ばせた。特に、母鴨に付いて歩く大勢の小鴨を見た騎士の一人が『閣下と我々みたいですね…』と呟いて、周囲から総ツッコミを受けていた辺りでは珍しく顔を両手で覆ってまで笑っていた。
どうやら、不安な気持ちは薄くなったようだ。
妹の笑顔を見ながら、アルベルトは心の中で小さく拳を握った。
(よし、今朝も多分ちゃんとアルベルトを演じられてるはず……。原作みたいな『孤高で気高く、強く優しくて、でもどこか儚いアルベルト』にはなれないし、むしろ私はヴォルフガング様とアルベルトのセットを眺めていられる壁になりたい原作ファンなんだけど……ハッ!一生見られないじゃん!……これが腐女子の業かッッ…!!)
頭の中では腐女子が大騒ぎしている。
だがしかし。
『原作のアルベルト』らしく頑張ろうと奮闘する彼女の行動の結果は、彼女自身の意図を大きく超えて周囲に拡がっていくのだった。
午後、領内の森で小規模な魔物の討伐が行われた。アルベルト自らが先頭に立ち、魔法で魔狼の群れを一掃する。その隣ではヴォルフガングが剣を振るい、残った敵を屠っていく。
やがて唸りを上げる獣が全て骸となり、最後の一頭の首を落とした騎士たちが被害状況を確認していく。遠くから領民たちが見守る中、アルベルトは魔物の体液に染まったマントを翻し、静かに微笑んだ。
「皆、今日もよく耐えてくれた」
その姿に、若い騎士たちは歓声を上げ、娘たちは頰を赤らめ、老いた者たちは祈るように手を合わせた。
「侯爵様……本当に、黄金の侯爵様だ」
「私たちは、閣下になら命を捧げられる」
そんな声が、領内全域に広がっていく。
アルベルトは気づいていなかった。
バレないように振る舞おうと、意気込めば意気込むほど。彼女の行動——身を挺して民を守り、魔法と剣で魔物を屠り、妹を慈しみ、領民を大切にする姿——が、周囲の人間たちに「この人にこそ忠誠を捧げたい」という、原作のタイトルそのものを体現するような「永久の忠誠」を呼び起こしていることに。
薄紫の瞳が夕陽を受けて宝石のように輝く。
アルベルトは金糸の髪を風で揺らすに任せながら、心の中で呟いていた。
(私は空気が読める腐女子!壁となって静かな余生を送るのは、魔物の脅威が完全になくなるまでお預け!なにしろ討伐の度に普通に命がかかってるからね。真面目に取り組まないと、いくらチートでも死んじゃうぅぅぅ!)
——……ヴォルフガングは。
そんな主の横顔を誰にも気づかれぬよう、見つめていた。




