第一部1 異世界転移とは
4mか5mか。
現代日本でこのサイズの猛獣を見る事はできないだろう。ホッキョクグマでもこれよりは小さい。
目の前に聳える巨大な怪物を目の前に弘道の今までの努力は人間社会だからこそ成り立つものなのだと実感させられる。学力、知見、営業スキル等々。
灰色の毛並みに腕くらいありそうな鋭く長い牙、爪。かすりでもしたら内臓がポロっとでてくると確信できる。山奥で熊に襲われて、悲惨な死体で見つかるニュースをよく見るがまさか死体側になるとは思わない。生存バイアスとはこのことだな、と弘道は乾いた笑みを浮かべた。
怪物が咆哮をあげると、木々が逃げたがるように蠢く。滴り落ちる大粒の涎と吐息は生暖かく、血の匂いがした。死がここまで鮮明にわかると逆に人は冷静になれるらしい。だが、脳みそとは逆に体からは冷たい汗が噴き出て、寒さに震えが止まらない。
怪物が腕を大きく上げる。太く長く伸びた強靭な爪に木々の間に差し込んだ僅かな日の光が反射して鋭利に輝る。左肩から振り下ろされ、右腰に抜ける。弘道の身体は内臓が飛び出るどころか、真っ二つに切断されるだろう。死の間際はスローモーションに感じると聞いたことがあるが本当なのだと弘道は微かな時間の中で驚嘆した。
目をつぶる。これが悪夢で、起きたら仮眠室で寝ていることを弘道は祈った。
「やぁぁぁぁぁぁ!!!」
怪物とは別の咆哮。甲高く、少女のような声だ。
目を開けると目の前は同じような鬱蒼とした森の中。違うところがあるとしたら、目の前に立っているのが巨大な怪物ではなく、小さいな少女だということだけだ。
身長は小さめで150cmくらいだろうか。肩で緩やかに巻かれた黄金の髪に、白い竜を形どった髪飾りが付いている。銀の胸甲の下に赤茶色のノースリーブ、腕に取り付けられた鎧のようなものは重さを感じさせる。下半身は黒いショートパンツと腰に巻かれたポーチ、そして長く頑丈そうなブーツを履いていた。
右手に携えていた短剣からは怪物のモノだと思われる鮮血が滴り落ちていた。少し粘り気があって、一粒に重さを感じる。現代日本を生きるとこんな生々しい血を見る事はできない。
「大丈夫?」
鈴の鳴る音のような声で少女が振り返る。何歳ぐらいだろうか。少し幼い。可愛らしい顔だが、その奥に猛々しさを感じさせる。日本人ではなく、西洋人に近い顔立ちだ。それでいて、少しアジアっぽさもある。金色に輝いた瞳が弘道を不思議そうに見つめた。
言語は同じらしい。ならここは日本なのかと弘道は思案に耽る。だが、服装、顔、何よりもこの猛獣がそうではないと教えてくれている。訳が分からないが、そういうものかと自分を納得させることにした。
「変わった服装だね」
「あ、あぁ。君こそ」
ここがどこかは知らないが、現代日本ではないことは確かだ。巨大な猛獣が血を首から噴き出して倒れている光景を目の前にしてどちらが正しい恰好なのかは一目瞭然だろう。
こんなところにスーツで来る奴の目的ならただ一つだけだ。
「私の恰好は別に変じゃないよ。変なのは君だよ。どうしてそんな恰好を?なんでこんな森に?どこから来たの?」
怒涛の質問攻めに弘道は硬直する。「こっちが聞きたいよ」とボソッと言った後に彼女にそんな愚痴みたいなことを言っても何も起こらないだろうと冷静になり、深くため息をつく。
「僕もわからない。トイレから出てきたら突然ここに出てきて。多分、僕と君は他の国、いや世界の住人だと思う」
自分でも何を言っているのか、弘道はわからなかったが、そうとしか考えられない。目の前の少女が短剣一つで背丈の何倍もある猛獣を倒した。現代世界で行われる狩りとは構造そのものが違う。それこそ魔法や剣が出てくるようなファンタジーの世界、所謂異世界に転移してしまったのかもしれない。
「転移してきたんだね。初めて見たよ」
少女から出てきたのは意外な反応だった。この世界では転移は案外カジュアルなものなのかもしれない。
「僕だけじゃないのか?」
「私が見たのは君が初めてだよ。でも魔女が他の世界から人を連れてくるみたいな伝承はたくさん残ってるし、きっと街で見ると思うけど動物と人間の混種は他世界から来た存在って言われてる」
ファンタジーに対しての造詣は浅いが、亜人たる人種があることは知っていた。しかし、それも自分と同じ異世界の住人だったとは。つまり、この世界の原住民は自分と同じ人間だけだということになる。
「魔法とかもあるのか?」
「あるよ。私は使えないけど。貴族とか王族は使えるって聞く」
こちらは案外カジュアルではなく、高尚なものらしい。魔法が誰でも使えるなら治安は絶望的に悪くなりそうだ。
少女はおもむろに斃した猛獣の死体の元に行き、毛皮に短剣を差し込む。腰のポーチからハンカチのような布を取り出し、鼻と口を覆う。その後、青い液体の入った瓶を取り出すと猛獣のぐずついた傷痕にかけた。
「魔法はないんだけどね、こういうポーションは市販で売ってるから持ってるよ」
猛獣の傷痕から少し紫がかった気体が溢れ出てくる。腐った鶏肉を鍋で煮たような激臭に弘道は本能的に鼻と口を塞ぐ。
「これは?」
「瘴気だよ。魔獣は死んだ後もその魔力を蓄えてるから、抜かないと後々大変なことになる」
少女は真剣な表情で魔獣の毛皮を剥いでいく。残念なほどに異世界というのはリアルで残酷なのだと実感させられた。弘道自身、ファンタジーは購読しないから異世界の情緒をそこまで理解していないのだが。
「よし。お待たせ」
少女は血にまみれた手で顔の汗を拭く。魔獣の血が頬にべったりと付いていた。現代社会にいては見ることも感じることもできなかったであろうその残酷な少女の風貌に弘道は心臓が波打つような美しさを感じた。
「行こうか」
少女が魔獣の皮を「よっ」っと勢いよく掛け声と共に担いで歩き出す。
「どこに?」
「ここにいてもまた死にかけるだけだし、泥まみれだよ?ギルドに行ったらご飯も着替えもあるから。安全だしね」
「ギルドってあのギルド?」
弘道は中世ヨーロッパの商工業者組合を思い浮かべる。この世界はやはり中世ヨーロッパの世界観に魔法や魔獣がいるような感じなのか。
「君の思い浮かべるギルドかどうかはわからないけど」
少女は重そうな毛皮を肩に担ぎながら、倒れている木々を身軽に避けていく。少し歩くと茶色の艶やかな毛並みをした馬が退屈そうに地面に生えた雑草を漁っていた。
馬の尻の上に毛皮を乗せると、少女は馬を「レイデ」と呼ぶと愛らしそうに撫でた。レイデは少女の頬に鼻を押し付けると、ついた魔獣の血を舐めとった。
「その血、舐めて大丈夫なのか?」
「レイデも魔獣の仲間だから大丈夫。調教はしてあるから襲ったりはしないよ」
まさかこの馬も魔獣だったとは。もしかするとこの世界に通常の動物はいないのかもしれないと驚嘆な思考に走ってしまう。
少女がふと弘道の方を振り向き、優しい表情を向ける。先程の狩人の顔からは想像できない。
「そういえば、名前を聞いてなかったね。わたしはリリィ。君は?」
名前を名乗るときに胸ポケットから名刺入れを出すのは癖だ。そもそもこの世界で名刺云々が存在するのかすら知らないが、一応名刺を提示しておいた。営業スマイルは忘れずに。
「元スタートネットCEOの浅木弘道です」
リリィは首を傾げ、不思議そうに名刺を受け取って裏表を確認する。
異世界で現代日本の起業家に何ができるのかは知らないが、ひとまず環境に巻かれることも生き残るすべであると浅木弘道は知っている。
「どうぞ、お見知りおきを」
泥にまみれた頭を下げて、再び胡散臭く笑ってみる。




