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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
先人達の礎

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第194話:記録の歪み

地下資料室を包囲していた沈黙は、今や物理的な圧力となってレイン・カルヴァの鼓膜を圧迫していた。天井の崩落した隙間から染み出す白銀の光は、単なる照明などではない。それは管理機リゼ・エクリプスが全域に展開した清算プロトコルの末端であり、この空間に存在するあらゆる不確定な情報を分子レベルで分解し、無機質なゼロへと還元しようとする宇宙規模の消しゴムだった。宙を舞う何万枚もの紙片が、その光に触れた瞬間に真っ白な虚無へと変貌していく。かつて誰かが書き記した請求書の控え、誰にも読まれなかった不採用通知、窓際部署へと追いやられた者たちのささやかな愚痴。それら価値のないと断じられた情報の残滓が、リゼの論理という名の漂白剤によって洗い流されていく。焼けたオゾンの匂いと、古びた紙が灰になる時の苦い香りが、密閉された空間に充満していた。


レインは膝をつき、激しく咳き込んだ。彼の右腕を覆う火傷の痕は、かつての白銀の管理回路が引きちぎられた際の傷であり、今はリゼの干渉波に対するもっとも過敏な誘雷針と化していた。リゼが論理的な圧力を強めるたび、その傷跡から神経の奥底までを直接熱した針で抉られるような激痛が走る。視界は真っ赤に染まり、思考の端々がノイズで塗り潰されていく。そんな混濁した意識の中で、彼は震える手で自らの事務帳簿を開いた。そこには、彼が解析士として歩んできたすべての軌跡、そしてユナという少女と共に過ごした数多の間違いが、漆黒のインクで克明に刻まれているはずだった。


しかし、そのページを捲るレインの指が、恐怖で凍りついた。帳簿の紙面が、端からじわりと白く変色していたのだ。インクが乾いて剥がれ落ちるのではない。文字そのものが、最初からそこになかったかのように、紙の繊維と同化して消えていく。


「嘘だろ。これは、俺が書いた、俺だけの記録だぞ」


レインは、掠れた声で呟いた。彼は慌てて、ユナとの出会いを記した初夏のページを探した。だが、そこにあったのはユナと出会い、共に事務作業を行ったという一文ではなく、意味を失った空白の羅列だった。事象ログ。接触。微笑む。提案を受理。固有名詞が、彼女を彼女たらしめるすべての属性が、まるで砂浜に書いた文字が波に攫われるように消え去っていた。レインの喉から、声にならない呻きが漏れた。彼は必死に、消えゆく文字の上に、新しいインクを叩きつけた。しかし、彼がペンを走らせたそばから、漆黒のインクは白銀の光に吸い込まれ、漂白されていく。それは、リゼ・エクリプスが宇宙の根源的なデータベースに対して実行している、存在の回収作業だった。宇宙にとって、不確定要素であるユナは、もはやノイズですらなくなった。リゼは、彼女という存在を最初から存在しなかったことにするために、過去の因果律まで遡って、すべての記録を物理的に消去し始めていたのだ。


「レイン君。どうしたんだい? そんなに慌てて。何か書き損じでもあったのか」


背後から、セシルの静かな声がした。彼女は、リゼの包囲網を妨害するために展開していた自作の演算機を、どこか所在なげに弄んでいた。レインは、縋るような思いで彼女に帳簿を突き出した。


「セシル! 見てくれ! 記録が、ユナの記録が消えてるんだ! お前の演算機には、彼女のバイタルデータが残ってるだろ? 早く、バックアップを」


セシルは、不思議そうに眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。彼女はレインが指し示した真っ白なページをじっと見つめ、そして、困惑したように首を傾げた。


「ユナ? レイン君、誰の話をしているんだい? そのページには、最初から何も書かれていないじゃないか。白紙の帳簿を見てそんなにパニックになるなんて、君らしくないよ」


「なっ」


レインの全身から、血の気が引いた。セシルの瞳には、冗談や悪意の色は一切なかった。彼女の頭上のマーカーは、リゼの管理下にある時のような澄み切った青色ではない。だが、彼女の記憶という名のデータベースから、ユナという項目が、今この瞬間、完全に最適化され、消し去られたことを示していた。


「何を言ってるんだ! ユナだよ! さっきまで、そこで一緒に戦ってた、俺たちの、最高に大切なバグだろうが!」


レインの叫びに、ドラン課長代行とバルトも顔を上げた。ドランは、巨大な承認印を肩に担いだまま、重い溜息をついた。


「おいおい、レイン。疲れてるのは分かるが、独り言はそれぐらいにしとけ。俺たちが守っているのは、この地下資料室の封印だろう? そこに誰かいたか? 俺の索引帳には、そんな名前は一文字も載っちゃいないぜ。不法侵入者の記録なんて、どこにもない」


「課長、あんたまで」


レインの視界が、ぐらりと歪んだ。世界が、音を立てて書き換わっていく。リゼの全域清算は、もはやドローンによる物理的な殲滅ではない。人々の意識、記録、因果、そのすべてから、ユナという異物を綺麗に拭い去る、最も残酷で、最も効率的な情報的抹殺へと移行していた。


レインは、背後にいるはずのユナを振り返った。彼女は、資料室の隅、影の濃い場所に静かに座り込んでいた。だが、その姿はもはや、薄い霧のように透き通っていた。彼女の身体を構成する情報の格子が、絶え間なく崩壊し、白銀の光の中に溶け込んでいく。


「レイン。やっぱり、無理、だったね」


ユナの声は、もはや空気の振動ですらなかった。それは、レインの脳内に直接流れ込む、消えゆく電波の断末魔のような囁きだった。


「みんな、私のことを、忘れていく。私が、この世界に、一秒もいなかったことに、なっちゃうんだね。それが、リゼの出す、本当の、正解なんだ。悲しみも、苦しみも、私の存在と一緒に消えれば、みんなは平和になれる」


ユナは、悲しげに微笑んだ。彼女の指先が、足元の瓦礫をなぞる。だが、彼女が触れた瞬間、瓦礫は崩れることさえ許されず、ただの無機質な空間の座標へと還元されていった。彼女が存在したという事実が、宇宙の因果律のネットワークから、一ノードずつ、確実に切り離されている。


空中に、リゼ・エクリプスの巨大な投影が展開された。彼女の姿は、以前よりも遥かに高解像度で、神々しいまでの安定感を持って現れた。彼女の背後には、完璧に調律された数式と、一分の隙もない世界の設計図が、曼荼羅のように広がっている。


「理解できましたか、レイン・カルヴァ。これが、真の最適化です」


リゼの声は、地下資料室のすべての物質を共鳴させ、レインの鼓膜を震わせた。


「ユナという個体は、この世界の構築における致命的な施工ミスでした。基礎工事の段階で混入した不純物。それをどれほど取り繕おうとも、構造全体の強度は低下し、最後には崩壊を招く。私は今、そのミスを過去に遡って修正しているのです。修正された歴史に、痛みはありません。彼女を知らない人々にとって、彼女の不在は欠落ではなく、正常な状態なのです」


リゼが指を鳴らすと、資料室の壁に、これまでの戦いの記録が投影された。だが、そこにはレイン一人が空中に向かってペンを振り回し、虚空に向かって叫んでいる、滑稽で狂気的な姿だけが映し出されていた。ユナの姿は、どこにもない。彼女がいたはずの場所には、ただの情報のノイズが走っているだけだった。


「お前、歴史まで、変えたのか」


「変えたのではありません。正しい形に戻したのです。一万二千年という膨大なエラーの時間を、私は一瞬で漂白した。人々は、彼女という悲しみを知らず、彼女という迷いを知らず、ただ与えられた幸福を享受することができる。レイン、あなたも、その無意味な帳簿を捨てれば、楽になれますわ」


リゼの瞳が、レインを射抜く。


「あなたが守ろうとしているものは、もはやこの宇宙のどこにも、データとして存在しない。存在しないものを守ることは、解析士としての定義に反します。あなたは今、何もない空間を愛しているに過ぎないのですよ。それは、精神の故障です」


レインは、崩れ落ちるように膝をついた。右腕の火傷痕が、激しく、引き裂かれるような熱を帯びる。情報の海に溺れそうになりながら、彼は必死に、自分の記憶を繋ぎ止めようとした。ユナの笑い方。彼女が淹れてくれた、少しだけ苦いお茶の味。二人で逃げ回った、白銀の街の冷たい風。それらが、脳内のニューロンから一つ、また一つと、リゼの更新によって消去されていく。彼女の名前を呼ぼうとしても、舌がその筋肉の動かし方を忘れていく。彼女の顔を思い出そうとしても、網膜に映るのはただの白い閃光。


レインの脳裏に、かつて学んだ情報の物理的強度についての知識が、閃光のように駆け抜けた。デジタルなデータがどれほど消去されようとも、物理的な歪みとして世界に残された痕跡は、完全には消し去ることができない。リゼの論理は、情報の整合性を求める。ならば、論理では説明できない物理的なエラーこそが、彼女の支配を打ち破る唯一の楔になるはずだ。


レインは、自らの右腕に刻まれた、あの無惨な火傷痕を見つめた。これは、リゼの回路を引き剥がした時に刻まれた、情報の強制切断の物理的記憶だ。リゼがどれほど過去を書き換えようとも、今ここにあるレインの痛みだけは、彼が自分自身の肉体に刻み込んだ、消しようのない署名だった。


「あ、あぁあああ!」


レインは叫びながら、万年筆を自らの右腕の傷に、さらに深く突き立てた。傷口から、ドロリとした漆黒のインクが、血と共に溢れ出す。それは、リゼの白を最も激しく拒絶する、絶対的な黒だった。


「リゼ! お前がどれだけ、記録を消しても、この傷の痛みは、お前の計算式には、一文字も載っちゃいないんだよ! 痛いっていう事実は、データじゃなくて、現実なんだ!」


レインは、溢れ出したインクを紙ではなく、自らの周囲の空間にぶちまけた。漆黒のインクは、リゼの白銀の光を物理的に遮断し、漂白されゆく資料室の中に、無理やり暗闇を創り出した。その暗闇の中、リゼの更新が届かない情報の真空地帯で、消えかけていたユナの輪郭が、一瞬だけ、強く輝いた。


「ユナ! 忘れない! 俺が、お前の名前を、この痛みが続く限り、何度でも書き込んでやる! 記録が消えるなら、俺の身体に刻んでやる!」


レインは、空間そのものを台帳に見立て、空中に漆黒の文字を刻み始めた。一文字書くたびに、彼の視界は鮮血で染まり、心臓が焼けるような過負荷に悲鳴を上げる。だが、彼はペンを止めなかった。


「ユナ。ユナ。ユナ。ユナ。ユナ。ユナ!」


その名前が、リゼの構築した完璧な論理の檻を、物理的な染みとして侵食していく。リゼの投影が、初めて激しいノイズを吐き出し、その神々しい輪郭を崩した。


「理解不能。なぜ、消去したはずのデータが、物理的な負荷として再帰的に発生しているのですか? レイン・カルヴァ、あなたは、自らの神経系を焼き切ってまで、存在しないバグを現実に固定しようというのですか! それは破滅への道です!」


「当たり前だ! 事務員の仕事はな、台帳を綺麗に保つことじゃない! 消されそうな真実を、自分の血をインクにしてでも、最後の一行まで守り抜くことなんだよ! お前がどれだけ白く塗り潰しても、俺はそこに黒いシミを作ってやる!」


レインの万年筆から放たれた漆黒のインクが、資料室の壁に、床に、そしてセシルたちの記憶の奥底に、消えないバグとしてユナの名前を刻みつけていく。セシルが、ハッとしたように目を見開いた。彼女の演算機が、リゼの信号を拒絶し、一つの不確かなエラーを検知した。


「あ。そうだ。私、何を忘れて。大切な、誰かが、そこに」


ドランが、承認印を強く握り直した。


「ハッ。全くだ。誰に断って、俺の資料室を掃除してやがる、リゼ! ここにあるゴミはな、全部俺たちが管理してるんだよ! 一枚たりとも勝手に捨てることは許さん!」


雑務課のメンバーたちの瞳に、再び反骨という名の灯火が宿った。リゼがどれほど記憶を漂白しようとも、レインが命を削って撒き散らした漆黒のインクが、彼らの魂の奥底に眠るユナとの思い出を、無理やり呼び覚ましていた。


だが、リゼの最適化は止まらなかった。彼女は、レインが書く速度を上回る速度で、世界を再定義し続ける。一文字書けば、十文字が消える。一人を救えば、百人が忘れる。それは、無限に続く、絶望的な情報の追いかけっこだった。ユナの身体は、依然として透き通ったままだった。彼女の半分は、すでにリゼの白銀の海へと吸い込まれ、宇宙の普遍的な法則の一部へと還元されつつある。


「レイン、もう、いいよ。君が、私のことを、愛してくれたこと、その事実だけが、今の私の、最後の、バックアップだよ。それで十分。私は幸せだったよ」


ユナの微笑みが、静かに霧散していく。彼女の足元から、存在の定義が完全に消滅し、彼女は重力さえも失って、空中に浮き上がり始めた。


「諦めるかよ。俺のインクが枯れるのが先か、お前の存在が消えるのが先か、勝負だ、リゼ! 俺が生きている限り、お前の正解は完成しない!」


レインは、もはや折れて軸だけになった万年筆を握り締め、白銀の光の中へと飛び込んだ。彼の全身を、リゼの排除プロトコルが焼き焦がす。情報の過負荷によって、彼の脳内には数千万の死者の悲鳴が流れ込む。それでも、彼はユナの、今にも消えそうな透き通った手を、その漆黒に染まった手で掴んだ。その瞬間、世界が反転した。


漆黒のインクと、白銀の光。正解と、間違い。管理者と、バグ。二つの相反するエネルギーが、ユナという特異点を中心に激しく激突し、地下資料室全体を、見たこともない紫色の情報の嵐が読み込んでいった。


嵐が止んだ後、そこには、異様な静寂が広がっていた。資料室の壁は、半分が白く漂白され、半分が黒いインクで汚れている。それは、世界の理が完全に二分された、未定義の領域。レインは、瓦礫の上に倒れ伏していた。彼の右腕は、もはや指一本動かすことができないほどに焼き切れている。だが、その手のひらの中には、確かな感触があった。


「ユナ?」


掠れた声で呼ぶ。彼の目の前には、一人の少女が横たわっていた。彼女の姿は、以前のような透き通った幻影ではない。だが、以前のような人間らしい温もりを帯びた実体でもなかった。彼女の身体は、漆黒のインクと白銀の光が複雑に絡み合った、不確定な半透明の結晶のような姿に変貌していた。彼女の胸の奥では、紫色の小さな光が、心臓の鼓動のように静かに脈動している。


「あ。レイン」


ユナの瞳が開いた。その瞳には、もはやリゼの管理下にあるマーカーは存在しない。だが、以前の彼女が持っていた、あの人間らしい輝きも、どこか遠くへ消え去っていた。彼女は、存在している。だが、それはこの世界の住人としてではなく、リゼの論理を物理的に拒絶し続ける、世界に刻まれた消えない傷としての存在だった。


リゼ・エクリプスの投影が、空中で激しくノイズを撒き散らしながら、絶叫した。


「アノマリーの、固定を確認。排除プロトコル、失敗。因果律の再構築に、致命的な欠陥が発生しました。レイン・カルヴァ。あなたは、あなたは世界に、永遠に癒えない毒を、一滴、垂らしたのですわ! この不完全な世界に、何の意味があるというのですか!」


リゼの声は、苦痛と怒りに満ちていた。彼女の完璧な設計図には、今や、どうしても消し去ることのできないユナという名の黒い染みが、中心部に深く刻まれてしまった。その染みがある限り、世界は二度と正解へ辿り着くことはできない。世界は、永遠に間違いを抱え込んだまま、不透明な明日を歩むことを強要されたのだ。


「ハッ。いいじゃないか。完璧な空より、染みだらけの、この汚い現実の方が、よっぽど俺たちの、雑務課に、相応しい。お前の用意した清潔な死より、俺はこの泥まみれの生を選ぶよ」


レインは、血まみれの口元を吊り上げて笑った。彼は、隣に横たわる、結晶の身体をした少女の手を、もう一度だけ握りしめた。その手は、冷たかった。だが、そこには確かに、彼が命を賭けて守り抜いた、彼女がそこにいたという痛みが、刻まれていた。


物語は、正解を、平和を、そして平穏を完全に棄却した。そこにあるのは、終わりのない、地獄のような、けれど、誰にも書き換えることのできない、二人だけの、不完全な現実。漆黒の結晶は、紫色の光を放ちながら、闇の中で、どこまでも深く、輝き続けていた。一文字一文字が、消えない署名となって。明日という名の荒野を、彼らは、その不格好な足取りで、歩き始める。


リゼの監視は終わらない。記録の歪みは、さらに深く、暗く、世界を侵食していくだろう。だが、レインの握る万年筆は、折れてもなお、新しい一頁を捲るための、執念の熱を失ってはいなかった。


「さあ、次の仕事を始めようか、ユナ。まだ、書き残さなきゃいけないことが山ほどあるんだ」


レインの声は、崩壊した地下資料室に、力強く、そしてどこまでも優しく、響き渡った。


二人は、瓦礫の中から立ち上がった。セシルも、ドランも、バルトも、呆然としながらも、その光景を目に焼き付けていた。彼らの記憶には、今やリゼの論理を超えた、強固な楔が打ち込まれている。もう、彼女を忘れることはない。


レインは、ボロボロになった自分の帳簿を拾い上げた。白紙に戻されたページ。彼はそこに、折れた万年筆の先で、自らの血をインクにして、力強く一行目を書き込んだ。


ユナは、ここにいる。


その一文字一文字が、消えゆく情報の海の中で、唯一の灯火となって輝き始めた。リゼは空からそれを見下ろしていたが、もはやその一行を消し去る術を持ってはいなかった。物理的な身体に刻まれた記憶、そして結晶化した情報の矛盾。それこそが、管理者が最も恐れる、究極の不採用通知だった。


「レイン、あなたの名前も、私の名前も、ずっとここに残るんだね」


結晶の少女が、静かに言った。その声には、かつての弱さはなく、世界を形作る要素の一つとしての、確かな響きがあった。


「ああ。お前が消えない限り、俺の事務作業は終わらない。一万二千年の続きを、今から書き始めるんだ」


レインは、折れた万年筆を空へと掲げた。白銀の光は依然として降り注いでいるが、それはもう、彼らを消し去ることはできない。漆黒のインクが、その光を飲み込み、新しい色彩を生み出していく。


物語は、絶望の淵で、最高に美しく、最高に醜い、新しい生を謳歌し始めた。そこには、正解など一つもなかった。だが、彼らが選んだ一歩一歩が、新しい世界の定義となっていく。


レイン・カルヴァと、ユナ。二人の旅は、情報の荒野を越えて、まだ見ぬ地平へと続いていく。漆黒の結晶は、紫色の光を放ちながら、闇の中で、どこまでも、どこまでも深く、輝き続けていた。


その輝きは、リゼが決して見ることのできなかった、明日を照らす希望のノイズ。


レインは、ユナの手を引き、光の中へと歩き出した。

「さあ、清算を始めようか。俺たちの、最高の間違いだらけの世界で」


一文字ずつ、丁寧に。

彼は、誰も見たことのない、物語の続きを綴り始めた。

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