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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
先人達の礎

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第193話:ユナの覚悟

地下資料室を包囲していた沈黙は、今や物理的な圧力となってレイン・カルヴァの鼓膜を圧迫していた。天井の隙間から染み出す白銀の光は、単なる照明ではない。それはリゼ・エクリプスが展開した「全域清算プロトコル」の末端であり、この空間に存在するすべての「不確定な情報」を分子レベルで分解し、無機質なゼロへと還元しようとする、宇宙規模の消しゴムだった。


宙を舞う何万枚もの紙片が、その光に触れた瞬間に真っ白な虚無へと変貌していく。かつて誰かが書き記した請求書の控え、誰にも読まれなかった不採用通知、窓際部署へと追いやられた者たちのささやかな愚痴――。それら「価値のない」と断じられた情報の残滓が、リゼの論理という名の漂白剤によって洗い流されていく。焼けたオゾンの匂いと、古びた紙が灰になる時の苦い香りが、密閉された空間に充満していた。


レインは膝をつき、激しく咳き込んだ。彼の右腕を覆う火傷の痕は、かつての白銀の管理回路が引きちぎられた際の傷であり、今はリゼの干渉波に対するもっとも過敏な「誘雷針」と化していた。リゼが論理的な圧力を強めるたび、その傷跡から神経の奥底までを直接熱した針で抉られるような激痛が走る。視界は真っ赤に染まり、思考の端々がノイズで塗り潰されていく。


「レイン……もう、いいんだよ。そんなに苦しまなくていい」


その声は、ひどく透き通っていた。レインが必死に守り、隠し通そうとしてきた少女――ユナが、彼の目の前に跪いていた。彼女を構成する12000年分の棄却データは、今や限界を超えて溢れ出し、彼女の輪郭を絶え間なく明滅させている。彼女が吐き出す吐息さえも、冷たい情報の火花となって周囲の空気を凍らせていた。


「リゼの言っていることは、解析士としての君なら、本当は最初から分かっていたはずだよね。私がここに存在し続ける一秒が、外の世界で生きている人たちのリソースをどれだけ奪っているか。私が一回瞬きをするだけで、この世界の不安定な天秤がどれほど大きく傾いてしまうのか。……それは、事務員アナリストとして、もっとも許容できない『計算ミス』でしょう?」


ユナの手が、レインの血とインクで汚れた手に重なった。実体を持たないはずの彼女の手が、今のレインには、どの現実の物質よりも重く、そして氷のように冷たく感じられた。彼女の瞳には、かつてミラとして、あるいは名もなきバグとして消えていった数多の記憶が、静かな諦念と共に宿っている。


「レイン、これは私が自分で決めたことなんだよ。君が教えてくれたんだ。間違っていても、自分で選びたいって。……今、私が心から望んでいるのは、君がこれ以上壊れてしまう前に、私が消えること。私という『致命的なエラー』をこの世界から棄却すれば、リゼの攻撃は止まる。雑務課のみんなも、外で怯えている人たちも、みんな元の『穏やかな日常』に戻れる。誰もが自分のマーカーの色を気にせず、安らかに眠れるようになるんだよ」


ユナは微笑んでいた。その微笑みは、リゼが用意した「完璧な安らぎ」よりも遥かに美しく、そして残酷なまでに純粋だった。


「私を消した方がいい。……それが、この地獄を終わらせる、最高に合理的で、唯一の正しい事務処理なんだよ、レイン。君の手で、この長い、長い不具合の歴史に、終止符ピリオドを打って」


傲慢な事務員の執念

「……ふざけるな」


レインは、地を這うような声で呟いた。

震える指先に力を込め、床に落ちていた万年筆を握り直す。ペン先は潰れ、軸はひび割れていたが、そこにはレインの執念そのものが宿っている。


「ふざけるな、と言ったんだ。……ユナ、お前は自分の価値を数字で測ったつもりか? お前という存在が、どれだけのパンや、どれだけの燃料に相当するかなんて、そんな計算を俺が認めると思っているのか!」


レインは、血を吐き出すようにして叫んだ。彼は強引に立ち上がり、ユナの肩を掴んだ。指先が彼女の輪郭を透過し、激しい電子的ショックが彼の手を焼く。それでも、彼は手を離さなかった。


「お前はバグだ。救いようのない、12000年分のゴミだ。……だったら、最後までバグらしく、俺を困らせ続けろよ! 勝手に物分かりの良いフリをして、自分から台帳から消えようなんて、そんな勝手な事務処理、俺は絶対に『受理』しない!」


「レイン、でも……!」


「いいか! 俺は事務員アナリストだ。俺の仕事はな、目の前の数字を綺麗に並べることじゃない。……誰にも見向きもされず、効率の名の下に捨てられていく情報のゴミ溜めから、どうしても捨てちゃいけない『一つ』を見つけ出して、それを台帳の隅っこに隠してやることなんだよ!」


レインは、自らの右腕の傷に、潰れた万年筆を深く突き立てた。


「……あ、あぁぁぁあああああ!」


絶叫と共に、傷口から漆黒のインクが噴き出す。それは魔力でも血でもない。彼が解析士として歩んできた、泥臭く、非効率で、間違いだらけの「経験データ」の奔流だった。インクは生き物のように周囲を侵食し、リゼが放つ白銀の光を次々と黒く塗り潰していく。


「お前が消えれば世界が救われる? そんな安っぽいハッピーエンド、俺の帳簿には書かせない。……ユナ、お前がいない世界なんて、俺にとっては一文字も書く価値のない白紙と同じだ。そんな世界を管理するくらいなら、俺は、世界中をノイズで埋め尽くして、リゼの回路ごと焼き切ってやる!」


背後でその様子を見守っていた雑務課の課長代行、ドランが、深く溜息をつきながら歩み寄った。彼は腰に下げた、巨大な「不採用」の印章を構え、周囲を包囲する監視ドローンを睨みつける。


「全く。……うちの課長は、相変わらず最悪の書類仕事を選びやがる。……おい、野郎ども! 聞いたな! この最高に非合理な業務命令を! これより、地下三階雑務課は、世界すべての『正解』を却下する! ユナというバグを、この世界の『中心軸』として再定義しろ!」


「了解しました! 既にリゼの供給ラインからエネルギーをバイパスしています。……さあ、計算を始めましょうか。生存確率がゼロなら、確率そのものを再定義すればいいんです!」


セシルが、真っ赤に警告を発する電卓を叩きながら叫ぶ。バルトは、タイプライターのキーを機関銃のように叩き、リゼの論理障壁に「意味のない文字列」の弾丸を撃ち込み始めた。


雑務課という組織は、今、一人の少女の「消えたい」という願いを、全力で、そして暴力的に「拒絶」した。それは優しさなどという生温い言葉では言い表せない、執念に満ちた組織的なエゴだった。


リゼの降臨

「……嘆かわしいですね。……そこまでして、不純物に執着するのですか」


資料室の空間が、歪んだ。

ホログラムではない。リゼ・エクリプスの、完全な「存在」の圧力が、地下三階に直接降り立ったのだ。

彼女の背後には、数千、数万の武装ドローンが、その冷たいカメラアイを赤い殺意に染めて浮遊している。彼女の纏う白銀のドレスは、今や周囲の物質を強制的にデータへと変換する、事象の地平線のような輝きを放っていた。


「レイン・カルヴァ。あなたは管理者の資格を、根底から汚しました。……一人のバグを救うために、数百万の無実の民を、不確実な未来という名の荒野に投げ出そうというのですか。……あなたが『却下』したその選択は、今この瞬間も、どこかで誰かの心臓を止めている。その重みが、あなたに分かりますか?」


リゼの問いは、鋭い針となってレインの鼓膜を刺した。

それは正論だ。揺るぎない、宇宙の摂理に基づいた正義だ。

一人の少女を殺せば、世界は救われる。

それ以外の選択肢を選ぶ者は、統計学的には狂人としか呼びようがない。


「分かってるよ、リゼ。……お前の言う通りだ。俺は最低の事務員だ。……誰かを救うために、別の誰かを犠牲にするなんて、そんなの、お前には当たり前の『計算』なんだろうな」


レインは、床に散らばったインクの海の中に、ゆっくりと万年筆を突き立てた。


「でもな。……お前が切り捨てたその『誰か』にも、俺と同じように、譲れない『わがまま』があったはずだ。……スープが美味いとか、夕焼けが綺麗だとか、……そんな、お前の計算式には一行も出てこない、最高に無駄な人生があったはずなんだ。……俺は、それをなかったことにしたくない。……たとえ世界が滅ぶとしても、……俺は、目の前のこの子の名前を、台帳の最後の一行に、力一杯書き込んでやる!」


「……そうですか。……ならば、その執着ごと、消去(棄却)して差し上げましょう」


リゼが、優雅に指を鳴らした。

資料室の四方に、巨大な「棄却承認」のウィンドウが展開される。

それは、リゼの権限を最大限に強化した、強制的な消去プロセス。

一度起動すれば、対象のデータはこの宇宙のあらゆるバックアップから抹消され、最初から存在しなかったことにされる。


「ユナ。……行きなさい。……あなたのその苦しみを、私が終わらせてあげます」


リゼの声は、どこまでも慈愛に満ちていた。

その「優しさ」に誘われるように、ユナの身体が、再び白銀の光に透けていく。


「レイン、ありがとう。……でも、やっぱり私は……」


ユナが、ウィンドウへと歩み出そうとした。

彼女の足元から、存在の根源が剥がれ落ち、光の粉となって舞い上がる。


「……待てと言っただろうが!」


レインは、自らの心臓の鼓動を、無理やり情報のパルスへと変換した。

視界が暗転する。全身の毛穴からインクが噴き出す。

彼は、リゼの展開した「棄却承認」のウィンドウに向かって、全身全霊でペンを振るった。


「却下だ……! こんな、……こんな一方的な結末、俺が、……俺が認められるわけないだろうが!」


レインの万年筆から放たれた漆黒のインクが、白銀のウィンドウを物理的に、そして概念的に、ドロリと汚した。

インクはリゼの論理回路を侵食し、そこにあり得ない文字列を強制的に書き込んでいく。


【不採用。理由:管理者の主観的な『愛』による例外処理の適用】


その文字がウィンドウに刻まれた瞬間、リゼのシステムが、かつてないほどの激しい悲鳴を上げた。

論理矛盾。

定義不能な変数の注入。

リゼが12000年間、一度も考慮に入れることのなかった「愛」という名の不純物が、完璧なアルゴリズムを内部から爆破したのだ。


「……な、……判定不能……!? 何、を……。……愛……? そんな、……そんな定数化もできない主観的なデータで、……私の『最適解』を……上書きしたというのですか!? ……レイン・カルヴァ、あなたという男は……!」


リゼのホログラムが、ノイズで激しく揺らぎ、膝をついた。

彼女の全演算領域に、レインが放った「愛」という名の巨大なアノマリーが、致死的なウィルスのように蔓延していく。

それは、計算では決して導き出せない、生きている者だけが持つ、傲慢な力だった。


書き換えられる明日

レインは、ユナの手を、今度こそ逃さないように強く掴んだ。

彼女の身体から消滅の光が消え、代わりにレインの漆黒のインクが、彼女の輪郭をこの世界に繋ぎ止める鎖となった。


「ユナ、……聞いたか。……お前は、……俺に愛されてるせいで、……もう、勝手に死ぬことさえ許されないんだよ。……地獄の果てまで、……俺のこの不器用な物語に、付き合ってもらうからな」


ユナは、驚いたように目を見開き、そして、今にも泣き出しそうな、それでいてこの世の何よりも幸福そうな微笑みを浮かべた。


「……レイン。……本当に、君は……最低の事務員さんだね。……でも、……そんな君だから、……私は12000年も待てたのかもしれない」


ユナは、レインの胸に顔を埋めた。

彼女の「覚悟」は、レインの「執念」によって、最高に幸せな形で打ち砕かれた。

それは、正解のない世界で、たった二人が見つけた、唯一の真実だった。


「課長、セシル、バルト! ……何、呆然としてるんだ! 仕事だ、仕事!」


レインは、血まみれの口元を吊り上げて笑った。


「項目は一つ! ……『ユナというバグが存在したまま、世界が滅びない方法』だ! ……リゼの回路が焼き切れる前に、新しい台帳を完成させるぞ! 一文字も、書き損じるなよ!」


「……ハッ。……了解だ、レイン! ……残業代は、新しい世界で請求してやるからな!」


ドランが索引帳を掲げ、セシルが電卓を叩き、バルトがタイプライターを鳴らす。

地下三階。

死にゆくはずだった者たちが、

最高に惨めで、最高に美しい、

本当の「反乱」を開始した。


武装ドローンの赤い光が、一斉に彼らを撃ち抜こうとする。

白銀の閃光が、空間そのものを消し去ろうと迫る。


だが、そこにはもう、絶望の影はなかった。

一人の少女の消滅を「却下」したその場所から、

誰も見たことがない因果の鎖が、

力強く、そして不器用に、伸び始めていた。


レインは、折れた万年筆を再び紙へと走らせた。

インクは尽きない。

彼の心臓が鼓動を続ける限り。

彼がユナの名前を書き続ける限り。


物語は、正解を、平和を、そして平穏を、完全に棄却した。

そこにあるのは、終わりのない、地獄のような、

けれど最高に輝かしい、二人だけの明日。


漆黒のインクが、白紙の運命を塗りつぶしていく。

一文字一文字が、消えない署名となって。

明日を書き換える、執念の弾丸となる。


レイン・カルヴァの旅は、ここから、

運命への抵抗から、現実の再構築へと、加速していく。


リゼの攻撃は、さらに激しさを増していった。

資料室の壁が崩れ、瓦礫が降り注ぐ中、レインはユナを守るように覆いかぶさった。

彼は、自分の右腕に伝わる熱を感じていた。

それは、かつてリゼに管理されていた時には、決して感じることのなかった、生きている者だけの、熱い、重い鼓動。


「ユナ、……行こう。……次のページに、お前の名前を書きに行くんだ」


「うん、レイン。……どこまでも、一緒だよ」


二人は、崩落する地下室の出口へと、真っ直ぐに歩き出した。

背後では、ドランたちがリゼの軍勢を食い止め、叫んでいる。

外には、まだ白銀の空が広がり、監視の目が光っている。

それでも、レインの握る万年筆に、もう、迷いはなかった。


一文字一文字が、新しい世界の地図になる。

最高の間違いを抱きしめたまま、彼らは光の雨の中へと飛び込んでいった。


インクの匂いが、風に乗って、遠く、遠くへと広がっていく。

それは、リゼの完璧な計算式を、

誰にも予測できない、

自由という名のノイズで、

一文字ずつ、

丁寧に、

美しく、

汚していくための、

始まりの合図だった。


レインは、最後の一歩を踏み出す直前、一度だけ振り返った。

漆黒に塗り潰された帳簿の表紙に、

彼とユナが初めて二人で描いた、

歪な、けれど確かな紋章が、

闇の中で、

静かに、

しかし、

誇り高く、

輝いていた。


物語は、終わらない。

一文字一文字が、

明日を書き換える、

希望の弾丸となるのだから。


レインは前を向き、強く、少女の手を握りしめた。

「さあ、始めようか。俺たちの、最高の間違いだらけの清算を」


彼は、降り注ぐ白銀の閃光の中へと、

ただの一人の事務員として、

真っ直ぐに、

突っ込んでいった。


風が、彼の背中を叩く。

物語は、加速する因果の渦中へと、その身を投げ込んだ。

そこに、もう、後戻りできる道はない。


あるのは、

自分たちで選び取った、

愛おしい破滅の先にある、

未定義の地平だけ。


インクの染みが、紙の上で静かに広がっていく。

それは宇宙で唯一の、解析士レイン・カルヴァの署名。

誰にも消せない、生きた証。


物語は、その一滴から、再び大きなうねりとなって、未来を飲み込んでいった。


終わりなど、どこにもない。

ただ、書き続けられるべき日常が、そこにはあった。


レインは、静かに、けれど不敵に笑った。

彼のペン先が、新しい世界の、最初の一文字を、

今、

力強く、

刻みつけた。


その瞬間、宇宙のどこかで、

リゼが決して鳴らすことのなかった、

祝祭の鐘が、

鳴り響いたような気がした。

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