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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生/大場 雷怒
雑務課 業務日誌総括

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第129話:雑務課の定義

砦の最深部、外界の凍てつく咆哮すら届かない雑務課の執務室は、今日という1日を消費し尽くした死の静寂に包まれていた。

壁に埋め込まれた古い魔導ランプが、残された魔力を絞り出すように弱々しく明滅し、石造りの床に長い、歪な影を落としている。

サニアは、990-0001から始まる膨大な識別番号の海に溺れるようにして、机に突っ伏したまま深い眠りに落ちていた。彼女の吐息は浅く、時折、名前を失った者たちの夢を見ているのか、その眉間に深い皺が刻まれる。彼女の指先は、眠りの中でもペンを握る形を崩しておらず、その献身が痛々しい。


トウマは、部屋の隅で、もはや原型を留めていない魔導演算機の心臓部に手を突っ込んだまま、動かなかった。彼の周囲には、剥ぎ取られたコードや、過負荷で焼き切れた基板が、機械の死骸のように散乱している。

彼の背中は、かつての王宮主席魔導技師としてのプライドが、物理的な重みとなってのしかかっているかのように丸まっていた。


「……アルス。1つ、聞いてもいいか」


トウマの声は、乾燥した砂が擦れ合うような、ひどく掠れた響きを帯びていた。

彼は顔を上げない。その視線は、虚空に浮かぶ、3000人分の生存リソースを最適化し続ける青白いホログラムの数式に向けられていた。その数式は、1人あたりの食料を0.01グラム単位で削り、全体の生存日数をわずか3時間延ばすための、残酷な「延命」の計算式だった。


「何だ」


俺はペンを置かずに答えた。漆黒の記録媒体――『焼けないデータ』は、俺の精神から吸い上げた現場の記録と、冷徹に割り振られた識別番号を融合させ、不気味なほど安定した真実を構築していた。


「我々は何だ? この、雑務課という場所で、俺たちがやっていることには、どんな意味があるんだ」


トウマがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、かつて最新鋭の魔導回路を設計していた頃の知的な好奇心など微塵もなく、ただ出口のない絶望と、己の存在意義に対する根源的な疑念だけが澱のように溜まっていた。


「俺は、かつて王宮の主席魔導技師だった。世界を脅かす魔王軍の結界を破るための理論を構築し、伝説の聖具をメンテナンスすることが、俺の誇りだった。……だが、今はどうだ。俺が作っているのは、人を番号で管理し、配給されるスープの量を0.1グラム単位で削り、誰をどの順番で『被害』としてリソースから切り離すかを効率的に算出するためのプログラムだ。これが、超一流を自負していた俺のやるべき仕事か?」


トウマの手が、震えながら演算機を叩いた。乾いた金属音が虚しく響く。


「サニアを見てみろ。彼女は聖職者の家系に生まれ、誰よりも慈悲深く、傷ついた者の心を癒すためにその生涯を捧げると誓ったはずだ。それが今はどうだ。死にゆく者の最期の思考を盗み、それを冷徹な事実としてアーカイブし、名前の消えた亡霊たちに番号を振る、地獄の事務員だ。……アルス、お前だってそうだ。伝説の勇者として魔王の首を真っ先に狙っていた男が、今は死骸の山を検分し、現場の凄惨さをデータ化して、1文字のミスもなく記録することに執着している。……俺たちは、もう完全に壊れているんじゃないのか?」


トウマの問いは、執務室の凍てついた空気を切り裂き、俺の心臓の鼓動を1つ飛ばした。

壊れている。

それは、否定できない事実だった。

この、世界が緩やかに、しかし確実に崩壊していく時間の中で、俺たちは正気を保つために、人間であることを自ら捨て去ったのだ。


「俺たちがやっていることは、ただの死体掃除だ。救世主の末路が、この暗い地下室での事務作業だなんて、魔王も笑っているだろうな。……救えなかった世界で、誰の役にも立たない番号を振り続ける。俺たち『雑務課』に、誇れる何かがあるのか?」


トウマは、自嘲的な笑いを漏らした。

俺は、ペンを動かしていた右手を止めた。

漆黒の結晶から放たれる微かな、しかし力強い拍動が、俺の指先を通じて全身へと伝わってくる。

俺はゆっくりと椅子を回し、トウマの絶望に満ちた瞳を、真っ向から、寸分の逃げ道も与えずに見据えた。


「誇りか。そんなものは、アイゼンと一緒に燃えて消えたよ、トウマ。今の俺たちにそんな贅沢なものは似合わない」


俺の声は、自分でも驚くほど冷徹で、かつてないほどの確信に満ちていた。


「だが、お前は大きな勘違いをしている。雑務課が、ただの掃き溜めだと思っているのなら、それはお前がまだ『古い世界の物差し』で物事を見ている証拠だ。王だの騎士だの、聖職者だの……そんな肩書きが通用する時代は、もう終わったんだよ」


俺は立ち上がり、壁一面に貼られた、かつての世界の地図を見た。そこには、消された都市アイゼンの位置に、俺が血文字で書き込んだ地名だけが、不自然なまでの存在感を放って残っている。


「王宮? 騎士団? 教会? ……そんなものは、もうどこにも存在しない。機能していないんだよ。王は自らの玉座を守るために民を真っ先に見捨て、騎士団は敵への恐怖から身内の裏切り者探しに明け暮れ、教会は救いのない神に祈ることをとっくにやめた。……表舞台にあった華々しい組織は、世界が崩壊し始めた瞬間に、その役目を終えて自壊したんだ。俺が勇者になれなかったのも、配属先がここだったのも、すべては必然だったんだよ」


俺はトウマの前に歩み寄り、彼が直していた、過負荷でボロボロになった演算機を指差した。


「だが、雑務課はどうだ? 食料を正確に配分し、死者を1人残らず記録し、インフラの些細な綻びを埋め、生き残るための最低限の計算を、1秒も休まずに続けている。……華やかな『メインストーリー』が終わった後も、この世界が存続するために必要な『雑務』は、無限に増え続けている。世界を救う派手な一撃はもう必要ないが、明日1日の呼吸を繋ぐための事務処理は、絶対に欠かせない」


俺は執務室の重い扉を、その先にある絶望的な世界を指差すようにして言った。


「世界最強の部署だよ、ここは」


トウマが、呆然とした顔で俺を見上げた。


「……何だって?」


「雑務課は、世界最強の組織だ。なぜなら、ここは『世界が終わるまで機能し続ける唯一の組織』だからな。他の誰もが匙を投げ、逃げ出し、死に絶えた後でも、俺たちだけはここに残ってペンを動かし、在庫を数え、事実を固定し続けなければならない。最後の1人が消えるまで、雑務は終わらないんだよ」


俺は、漆黒の結晶を手に取り、その深淵をトウマの目前に突きつけた。


「英雄が死んでも、魔王が勝っても、因果律がどれほど歪んで世界が書き換えられようとしても、そこには必ず『結果』が残る。その結果を拾い上げ、整理し、誰にも消せない事実として確定させる仕事は、俺たちが最後までやらなければならない。……他のすべての部署が消滅し、世界という巨大なシステムが完全な停止を迎えるその1秒前まで、俺たちは職務を放棄することができない。それが、雑務課という場所の定義だ」


俺の言葉に、トウマの喉が激しく震えた。


「世界が終わるまで、機能し続ける……」


「そうだ。俺たちは救世主じゃない。だが、救われなかったすべての命の、最後の『管理者』だ。お前が算出する0.1グラムのスープの差が、明日1日の生存を繋ぐ。サニアが刻む涙の脚注が、その者の生きた証を宇宙の記憶に刻印する。俺が現場で確認する死の座標が、世界が修正しようとする空白を埋める楔になる。……これ以上の価値がある仕事が、今のこの壊れた世界に他にあるか? 聖剣を振るうことより、在庫表を完成させることの方が、今の世界にとっては遥かに重い意味を持っているんだ」


俺はトウマの肩に、冷え切った、しかし力強い手を置いた。


「トウマ、お前は技術者の誇りを失ったと言うが、逆だ。お前は今、この世界の最後のエンジニアとして、崩壊していく現実の歯車を、己の知性だけで無理やり回し続けているんだ。それは、魔導戦艦を設計するよりも遥かに高度で、残酷で、そして何よりも尊い仕事だ。お前が止まれば、この砦の3000人は、明日には存在しない番号になるんだぞ」


トウマは、しばらくの間、俺の手の感触と、俺の放った言葉の重みを咀嚼するようにして黙り込んでいた。

やがて、彼は震える手で、演算機の基板を再び、今度は慈しむように掴んだ。


「……世界最強、か。皮肉だな。一番地味で、一番誰からも蔑まれていた場所が、一番最後まで残って世界を支えるなんて。勇者になれなかったお前が、勇者がいなくなった後の世界を、事務作業で守っているんだからな」


トウマは、少しだけ、本当に僅かだけだが、自嘲ではない笑みを浮かべた。


「わかったよ、アルス。やってやる。……俺は、世界が完全に停止するその瞬間まで、このクソッタレな計算を完璧に終わらせてやる。それが、世界最強の部署のエンジニアの意地だ」


トウマの瞳の奥に、絶望とは違う、もっと暗く、しかし決して消えることのない「覚悟」が灯った。


サニアが、演算機の駆動音の変化に気づいて、ゆっくりと目を覚ました。

彼女は机の上の帳簿を真っ先に確認し、俺たちの姿を見て、少しだけ困ったように、しかしどこか安心したように微笑んだ。


「……また、難しい話をしていたのね、2人とも。トウマ、顔色が少し良くなったわ。その演算機、機嫌は直りそう?」


「ああ。……明日までには、全区画の最新の配給計画を完成させてみせるよ、サニア。それが、俺たちの『職務』だからな」


トウマの声には、先ほどまでの迷いはなかった。

サニアは不思議そうな顔をしたが、深くは追求せず、再び愛おしそうにペンを取った。


「そう。……アルス、990-0043番の人の横に、さっきの脚注を書き加えておいたわ。……彼が最後に呼んでいた名前は、誰にも届かなかったけれど、この番号と一緒に、私がずっと見守り続けるから」


「……ああ、頼む。それが、お前にしかできない『雑務』だ」


俺は再び、自分の席へと戻った。

机の上に置かれた、ドロリとした黒いインク。

指に馴染んだ、冷たいペン。

そして、世界中の絶望を飲み込み続けている漆黒の結晶。


雑務課。

そこは、歴史の表舞台から引きずり下ろされた、無名の者たちが集う、最後の砦。

そこは、希望という名の毒を捨て去り、冷徹な観測者となることを選んだ者たちの避難所。

だが、この地下室で交わされる沈黙は、どの戦場の勇ましい勝ち名乗りよりも重く、どの聖堂の敬虔な祈りよりも、剥き出しの真実に近い。


俺たちは、英雄であることを辞めた。

世界を救うという、甘美な幻想を自らの手で引き裂いた。

だが、その代償として、俺たちはこの世界の最後の1ページを、自らのインクで書き込み、閉じる権利を手に入れた。


1秒。また1秒。

漆黒の結晶が、砦の住民たちの鼓動を1つずつ吸い込み、規則正しいリズムを刻む。

外部の魔導汚染がどれほど進もうと、世界がどれほどアイゼンを、東部拠点を、種族の記憶を、人々の名前を消し去ろうとしても。

この部屋で刻まれる「990」から始まる識別番号と、その横に添えられた事実にだけは、世界はその修正の手を伸ばすことができない。


「世界が終わるまで、機能し続ける組織……」


俺は心の中で、その定義を、自分自身の魂に刻み込んだ。

それは、呪いでもあり、唯一の誇りでもあった。

俺たちが生きている限り、この地獄のような空白期間には、「記録される」という名の救いが与えられる。

俺たちが事務処理を続ける限り、この世界の崩壊は、ただの消滅ではなく、1つの「歴史」として永遠に固定される。


俺は再び、結晶の界面にペンを突き立てた。


14時00分。砦内の酸素循環システム、トウマの調整により正常稼働。

14時05分。備蓄食料、残量報告あり。サニアの配分案に基づき配給開始。

14時10分。識別番号990-1002番、老衰により心停止。死の間際の思考を回収。

……そのすべてを、0.1秒の狂いもなく記録する。


雑務課。

かつて誰もが目を背け、蔑んだその名前が、今、俺たちの中ですべてを統括する「新世界の中心」の名に等しい響きを持ち始めていた。

勇者になれなかった俺は、今、この地下室で、世界で最も強固な組織を運営している。


俺たちは、世界最強の部署だ。

なぜなら、俺たちが止まったとき、それはこの世界の存在そのものが、完全に消え去り、最初からなかったことにされることを意味するのだから。


トウマが新しい回路を接続し、演算機が力強い、しかし静かな唸りを上げた。

サニアが、新しいページに鮮やかな黒のインクを落とした。

ミラが、壁の向こう側、因果の歪みの最前線から、さらなる情報の激流を送り込んでくる。


俺は、漆黒の結晶の奥底に、自分自身の瞳が映っているのを見た。

そこには、かつての勇者のような輝きなど、1欠片も残っていない。

ただ、すべてを数え、すべてを記録し、すべてを固定しようとする、冷酷な管理者の目があるだけだ。


「……それでいい」


俺は、小さく呟いた。

空白期間の真実が、また1つ、俺の手によって鎖で繋がれていく。

逃げ場のない真実。

改ざん不能な地獄。

それを完成させ、後世に残すことが、俺たちの、そして「雑務課」の誇りなのだ。


窓の外、鉛色の空から、また新しい雪が、すべてを覆い隠そうとして降り始めていた。

それは、生き残った者たちの足跡さえも白く塗りつぶし、無へと帰そうとする世界の修正力の現れだ。

だが、この地下室で灯る一本の蝋燭の火と、絶え間なく響くペンの音、そして演算機の駆動音だけは、その意志に公然と反旗を翻し、事実を地面に叩きつけ続けていた。


俺たちは、自分たちの居場所を、完全に再定義した。

もう、迷いも、後悔もない。

ただ、ペンを動かし、事実を固定し、世界が終わるその瞬間を、誰よりも近くで、誰よりも精密に見届けるだけだ。


漆黒の結晶が、3000人の命の重みを飲み込み、より深く、より静かに脈動した。

物語は、終わりに向かって加速していく。

だが、その最後の1ページまで、俺たちは「雑務課」として、この世界に残り続ける。

勇者がいなくなった後の世界を、俺たちが、このペンだけで支え切ってみせる。


「……次だ。識別番号990-1003番、記録開始。――彼の瞳が閉じたその瞬間のバイタルデータを、1ミリの誤差もなく固定しろ」


俺の声は、誰にも届くことなく、しかし世界の根源へと刻み込まれるように、静かに、そしてあまりにも重く響いた。

トウマの計算が走り、サニアのペンが走る。

雑務課という名の「世界最強」の歯車が、今日という地獄を噛み締めながら、再び回り始めた。

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