第102話:言葉
スラムの空気は、物理的な汚れ以上に、目に見えない「毒」で濁り始めていた。
かつては空腹や寒さが敵だったその場所で、今、人々を突き動かしているのは、実体のない「言葉」という名の刃だった。
執務室のモニターには、ミラがスラム全域から収集した音声データとSNSのログを解析した、新しい「言語汚染マップ」が映し出されている。
特定のキーワードが頻出するエリアが、赤黒いシミのように地図を侵食していた。
「報告します。スラム内におけるヘイトスピーチの発生率が、先週比で四百パーセント増加。主なフレーズは固定化されており、標的は種族ごとに明確に分断されています」
ミラの指が空中でデータを弾くと、スラムの路地裏で交わされている生々しい「言葉」がテキストとして羅列された。
『人族は俺たちの仕事を奪う。あいつらは紙切れ一枚で俺たちの生活を支配し、甘い汁を吸っている』
『魔族の残党はやはり危険だ。平和を装っているが、いつかまた俺たちを襲うに違いない。今のうちに排除すべきだ』
『エルフは特権階級だ。綺麗な森に引きこもり、我々の苦しみを見下している』
「……ひどすぎる。昨日まで同じ炊き出しの列に並んでいた連中が、どうしてこんなことを言えるんだ」
カイルが、モニターに並ぶ罵詈雑言に目を背けながら呟いた。
彼の手元にあるのは、雑務課が発行している「相互理解ガイドライン」のパンフレットだ。平和を説くその小冊子は、スラムのあちこちで焚き付けの材料にされているという報告が入っている。
「理由は簡単だ、カイル。人は自分たちの不幸に、分かりやすい『原因』を求めたがる。平和になったのに生活が苦しい。その不満を自分たちの不備だと認めるより、隣にいる異種族のせいにする方が、精神的なコストが圧倒的に低いんだ」
失業率と、噂が広まる速度に比例し、政府への信頼度に反比例する。
今、この大陸で最も加速しているのは、この分子の部分だった。
「係長、公序良俗維持法に基づき、これらの発言を『社会的不備』として検閲し、削除しますか? 我々の情報網を使えば、スラム内の通信を完全に遮断することも可能です」
サニアの提案は、事務屋としては極めて効率的だった。
だが、俺は首を横に振った。
「無駄だ。言葉は一度放たれれば、人の心というオフラインのストレージに保存される。通信を止めれば、今度はそれが『雑務課による真実の隠蔽』という新しい火種になるだけだ。そして何より、誰もこの言葉を止めようとしていないのが最大の問題なんだよ」
「止めない……? 警備隊は何をしているんですか」
「警備隊自身が、その言葉を信じ始めているんだ。人族の警備兵は獣人を不気味がり、獣人の自警団は人族を憎んでいる。彼らにとって、この言葉は『真実』になりつつある。誰も止めないんじゃない。止める動機が、もう誰の中にも残っていないんだ」
俺はペンを回し、白紙のページに「言語汚染の不可逆性」と書き込んだ。
予算の過不足や、資材の枯渇なら、俺のペン一本で調整ができる。
だが、一度腐り始めた人の心という「生データ」を修復するプロトコルを、俺は持っていなかった。
「平和の歪みっていうのは、物理的な壁ができることじゃない。言葉という名の透明な壁が、一人ひとりの心の周りに築かれることだったんだな」
部屋の隅で、ずっと沈黙を守っていた勇者が、低く唸るような声を出した。
「……事務屋。俺は魔王を倒したとき、言葉は手を取り合うためにあると信じていた。でも、今の世界じゃ、言葉は隣人を刺すためのナイフだな。俺の聖剣じゃ、空中に舞う悪意を切り裂くことはできねえよ」
「ああ、聖剣の出番じゃない。これは、最も地味で、最も救いのない事務作業だ」
俺は立ち上がり、コートを羽織った。
「どこへ行くんですか、係長」
「スラムだ。言葉を止めることはできなくても、言葉の『重み』を分散させることはできるかもしれない。ミラ、各種族のリーダーたちが一番『信じたくない真実』のリストを作れ。不満の矛先が隣人に向いているなら、それを一時的にでも『共通の不備』……つまり、俺たち雑務課に向けさせてやる」
「……それは、係長自身がヘイトの標的になるということですか?」
サニアの問いに、俺は皮肉な笑みを浮かべた。
「世界最強の部署だろ。世界中の不満を一手に引き受けるくらい、業務範囲内だ。管理者が憎まれているうちは、まだ組織は破綻しない。本当の終わりは、管理者が存在すら忘れられたときだ」
窓の外では、今日も平和な空が広がっている。
だが、その下で渦巻く「言葉」の嵐は、着実に、しかし確実に、平和という名の脆いシステムを削り取っていた。




