第二章:十七話 助けるために
地面に落ちたとき、一騎は内臓へのダメージを認識した。魔法の持つ威力をまさに目の前で、身をもって体験したわけだ。宗兵衛から骨の装備を借りていてよかったと思う。なければ最悪、死んでいたかもしれないほどの威力だった。
「滅茶苦茶しやがるな、あのフクロウ。大丈夫か、宗兵……ぇ?」
粉々になった研究室には真っ白な、骨の壁ができていた。数秒の後に骨壁は砕け、内側から無傷の宗兵衛が出てくる。一騎が問いかけるまでもなく無事だった。
安堵する間もなく、瓦礫が吹き飛ぶ。瓦礫の底から現れたのはソウルイーターだ。全身がズタズタに引き裂かれていても、旺盛な戦闘意欲は微塵も衰えていない。三つの口腔のそれぞれに火が生まれ、次の瞬間には吐き出される。威力は十分以上だ。並のゴブリンなら骨も残らない炎を、一騎は骨の具足で防ぎ切った。
だが反撃には移れない。踏み込もうとはしたものの、ソウルイーターの肉体に浮かび上がったブラウニーの顔に、全身がマヒしたかのように動けなくなる。ソウルイーターを憎々しげに睨み付けるだけで、手にした骨刀を振るうことができない。
自己の有利と優位を認識したわけでもないだろうが、ソウルイーターは三つの口からどす黒い瘴気めいた呼気を吐き出した。炎を吐き、毒を撒き、噛みつきを敢行し、一騎が構えると、これ見よがしにブラウニーを一騎に向ける。
「ちぃっ! 宗兵衛、なにか手」
「あります。『導き手』に確認済です」
《ブラウニーとソウルイーターを分離させます》
「そんなことができんのか!?」
もちろん『導き手』の返事は肯定だった。
本来のソウルイーターは長い年月を経て自我が薄まり、逆に生者への執着や未練だけが肥大化した無数の怨念が寄り集まって溶け合い、重なり合って生まれる魔物だ。目の前にいるのは、魔法により無理矢理合成された魔物で、転生者であることからそれぞれの自我も強い。加えて生きているブラウニーまで取り込んでいるのだ。術で強引に縛り付けてはいても、互いに反発しあっている状態で、外側からの圧力で分解することも可能だろうとのことだ。
『それだと、前提条件として接近する必要がありますよー』
「危険は高いですね」
「やるしかねえのなら、やるだけだ!」
一騎は骨刀を、宗兵衛は骨杖を構えなおす。ラビニアは宗兵衛の頭の上で愉快気に小さな笑みを浮かべている。『導き手』を通じて手順を頭に叩き込む。人間時代から出来の良くない――はっきりと悪い――一騎の頭も、今回ばかりは酷使に耐えてくれるだろう。
ソウルイーターの全身から生えている無数の腕が振るわれる。腕の一本が倒れているゴブリンの死体を掴む。瞬く間にゴブリンの死体から血を含むあらゆる体液が失われ、カラカラに乾いて朽ちていった。
ゾッとする一騎に生気のない腕が迫る。骨刀が閃く。一回、二回、三回。ソウルイーターの腕が五本、宙に舞って床に落ち、のたうち回ってからボロボロに崩れ落ちた。痛覚のないアンデッドは叫び声を上げたりはしない。だがそれでも、三つの、赤木たちの顔が呻くように口を開いた。
「た、助けて……くれぇ」「頼むぅ、こんなんじゃ」「助けて助けタスケ」
惨めな声が一騎の戦意をわずかに削ぎ、無数の腕が敵意を持って動く。横っ飛びで避け、尚も迫る数本の腕を骨刀で斬り落とす。
「言ってることと行動が滅茶苦茶じゃねえか!」
「そのあたりはもう、コントロールできていないのでしょうね」
「な、んでぇ……お前」「生きてんだよ」「苦しぃ、たしゅけ」
命乞いめいたセリフを吐きながら、ソウルイーターの無数の腕は蠢き、一騎を狙う。三つの顔のいずれにも、理性も知性も自我さえも薄くなっていることがわかる。他の怨霊の顔は口を無意味に開閉させるだけで、怨嗟の言葉を吐き出すことさえできない。代わりに強くなっているもの、前景に出ているものは生者への敵意と執着だ。
「ああぁぁ渇く渇くかわぁく……」「血ぃが足りない、肉も」「足りないいぃいぃぃぃいいぃ」
無数の腕が伸びる。宗兵衛は骨弾で迎撃しつつ、一騎から距離をとるように離れていく。ブラウニーを助けるための準備だ。一騎は身を捩り、体を引き、四本までは躱すことに成功した。五本目に腕を掴まれる。掴む力は大きく、一騎はその場から動けなくなった。
一騎の腕をつかんだまま、ソウルイーターが迫る。下卑た笑みが顔中に広がっているのは、間近で一騎が干からびる様でも見たいからだろうか。
仮にそうだとしても、望みは叶いそうにない。ソウルイーターが掴んだのは一騎の手甲、宗兵衛の骨で作られた手甲だ。赤木単独では骨角から脱出はできず、黄瀬の攻撃はブラウニーを守る骨檻を突破できなかった。宗兵衛の骨の防御を、ソウルイーターでは突破できない。
骨刀が下から上へと移動し、ソウルイーターの腕を斬る。一騎は迫るソウルイーター目掛けて踏み込んだ。骨刀で斬るのでも拳で殴るのでもない。腕の一本を掴んで大きく振り回し、投げ飛ばす。威力のない、間合いをあけるためだけの投げだ。ブラウニーの救出ができていない以上、ソウルイーターを迂闊に攻撃することもできない。
ソウルイーターは無様な声を上げて地面に転がり、すぐに浮き上がった。膨れ上がった体に張り付いている無数の顔には、もはや敵意も殺意もない。ひたすら怨念と執着だけが前に出てきている。理性と知性も失っているから、周囲の状況も見えていない。
「宗兵衛、準備は!?」
「万端、滞りなく」
ソウルイーターの前に立つ一騎は、ソウルイーターの後ろに立つ宗兵衛に呼び掛ける。挟み撃ちになるような位置関係を、一騎と宗兵衛は作っていた。準備は終わり。接近によるリスクを伴っても、行動を止めるつもりはない。一騎は声に出さず、『導き手』を通じて行動開始を宣言した。一騎と宗兵衛がソウルイーターに向かって走り出す。
「「「ああああぁぁぁぁぁっぁぁぁああぁぁあぁっぁあぁ!」」」
ソウルイーターが気付いたのは少し遅かった。自分の体を裂いて、裂け目から十本二十本と腕を生やし、手当たり次第に振り回す。無数の口からは炎や毒を吐き散らす。
自分たちを近付けまいとしての行動なのは明らかだ、と一騎は見切る。迎撃ではなく、どうにかして近付けないようにと必死になっているだけだ。伸びる腕を斬り飛ばし、具足で防ぐ。触れれば干からびるのだから、一騎としても余裕は持てない。
宗兵衛の骨弾がソウルイーターの腕を次々に吹き飛ばす。着弾音と肉が千切れ飛ぶ音が重なり合う様は、声にできない悲鳴のようだ。撒き散らす毒をスケルトンは意にも介さず突き進む。数本の腕を巻き取った骨杖を地面に突き立てると、一瞬だけソウルイーターの動きが止まる。宗兵衛の骨の両腕がソウルイーターを掴む。
一際鋭い咆哮が響き渡り、ソウルイーターが一騎に向けて炎を吐き出す。成人男子の頭部よりも巨大な火球、を一騎は骨の左手甲で受け止め、右手の骨刀で真っ二つに斬り飛ばした。目を剥くソウルイーターとの間合いを詰める。左手――骨刀を握っていないほうの手を伸ばす。ここまでくればもう一息。残り数センチで助けられる。
そんな、まだ助けてもいないのに緩んだ願望を抱いたのがまずかったのか、一騎の足元から数十に及ぶ腕が生えてきた。いつの間にかソウルイーターが地面に仕込んでいたものだ。
「!」
おぞましい光景に反射的に一騎の動きが止まりかけ、具足が盾のように広がる。あの腕に触れられると一瞬で干からびてしまう。飛び退こうと腰を少しだけ落とす。本能の強いソウルイーターが見逃すはずもなく、一騎は弾き飛ばされた。失敗を悟った宗兵衛も大きく飛び退く。
「なにをしているのですか、このたわけ!」
「すまん、しくじった! もう一度、頼む!」
「そうそう機会はありませんよ。次が最後だと思いなさい」
一騎は返事をしなかった。返事をしている暇があるのなら、集中力を高めることに使うべきだ。さっきのような失敗はしない。なにがあろうと、今度こそ必ず、辿り着いてみせる。声に出さない代わりに、目と纏う空気で答える。
一騎の意気を腐り落ちた神経ででも感じ取ったのか、ソウルイーターが吠えた。いくつもの口から吐き出される声は、大きな振動となって洞窟を揺るがす。断じて接近させまい、と何十本もの腕をさながら嵐のように振り回す。生える爪は毒に濡れているだけでなく異形の鋭さと大きさで、体にも無数の毒棘や毒角が生まれる。不用意に近付けばどうなるかわかっているな。全身でソウルイーターは主張していた。
が、今度こそ一騎は躊躇わない。掻い潜るしかないのなら掻い潜るのみ。斬り払い、踏み潰し、ひたすら目的に向かって突き進む。ソウルイーターの攻撃はおぞましく、恐ろしい。爪も棘も尋常ではない鋭さで、毒も炎も致命的なダメージをもたらしかねない。腕に触れればそれだけで体から血液が奪われる。
ソウルイーターの目標は二つだけ。一騎と宗兵衛だけだ。菫の魔法で破壊されたとはいえ狭い洞窟の中、ソウルイーターの攻撃は部屋のすべての範囲にまで及ぶ。アンデッドの無尽蔵に近い体力の一切を、ひたすら攻撃に、手当たり次第に振り回すことに割いている。さながら死霊の嵐だ。
この不利な状況下、ソウルイーターの、目標を定めず周辺すべてを吹き飛ばそうとしているかの攻撃は、命中を度外視しているだけあって厄介極まりない。白刃が上下に流れる。次いで踏み込みから放たれた左下段からの斬り上げ。右から左への斬撃。
悪意と怨念と未練と執着に満ち満ちた醜悪な嵐を、正に斬り開いて中心、ソウルイーターへと進む一騎。一振り毎に嵐が弱まり、一歩毎にソウルイーターの顔がはっきりとしてくる。
近付くな近付くな近付くな近付くな近付くな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
怨念だけを全力で一騎に叩きつけてくる。ソウルイーターの無数の腕が寄り束ねられ、一本の巨大で太い腕になる。巨腕は大きく振り回され、遠心力に乗って持ち上げられ、異音を伴って振り下ろされた。ソウルイーターは肉塊になったゴブリンを夢想していたかもしれない。現実は、
一騎の猛烈な斬り上げが巨腕を斬り飛ばしていた。巨腕は回転しながら宙を飛び、非音楽的な地響きを立てて落下する。ソウルイーターの動きが硬直し、一騎は自身の短い腕が届く範囲にまで辿り着く。骨刀を放り捨て、両手でソウルイーターの毒と粘液に塗れた体に手を伸ばす。
触れる、その直前。
一騎の目の前にブラウニーの顔が浮き上がった。
効果は絶大だった。
一騎の躊躇いを期待したのだろう相手の一手は、むしろ一騎の心を掻き立てる。目の前のこの小さな妖精を、なにがなんでも、断じて助け出す。決意と共に一騎の緑色の両手がソウルイーターの体に触れる。
逆方向では宗兵衛の骨の手もソウルイーターに触れていた。