第五章:三十二話 靄の使い方
靄に飲み込まれたカインに、靄の外にいる一騎は嫌悪の強い驚きに両目を見開いた。
雑魚魔物に相応しく、一騎の魔力感知に関する能力――魔力感知以外の多くの分野でもそうだが――は低い。その低い能力でもわかることがある。あの靄はカインの力ではない。断じて違うものだ。
良好ではない関係ながらも、学友として接してきたのだ。カインの魔力がどんなものであるか、一騎はよく知っている。カインを飲み込んだ靄は強化魔法などではなく、蠢く靄からはカインの魔力を感じ取ることもできない。外部の力を借りたことは明らかで、問題は、「外部」がどんな存在であるかという点だ。
これが公爵家の秘伝の魔具かなにかを引っ張り出してきたというのなら、公爵家内部の問題でしかない。一騎がエストの力を借りたのと同じようなものだと扱われるだろう。
だがその「外部」が公爵家と何の関係もない、あるいはあったとしても、悪意や敵意が混じり込んでいるような関係だとしたら、試験の範疇に収まらない問題になるかもしれない。
「どう見てもこれは」
一騎が観察する限り、カインを飲み込んだ黒い靄からは強い敵意が感じ取れる。カインに力を与えるだけで済むとは、とてもではないが思えなかった。
黒い靄がボコン、と音を鳴らす。まるでヘドロの沼でメタンが湧いたような、見るだけで汚れていることがわかるほどの、周囲に汚染をばら撒くと確信できるほどの、それは雄弁な音だった。
――――ゥ、ァァアア…………ェァア、……ゥ
ボコンボコンと連続する音に混じって、呻き声のような、別の音が空気中に響く。一騎は、黒い靄の中から響いてきたのだからこそカインのものだと推測し、同時にカインが力を制御できていないことを悟った。
同時に、
――――ルアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァッッ!
森の各所でありえない咆哮が轟いた。森が大きく揺らぐ。
魔法士試験の会場である森には不審者が侵入できないよう、探知用の結界魔法が張り巡らされている。優れた性能を持つ魔法だが、試験を監督する立場の人間たちには結界魔法から例外とされる鍵を受け取っていた。
だから学院の職員であるベルカンプが森の中にいても、不審者として結界が反応することはないのも当然のことであった。
薄い髪を撫で付けた頭に浮き出る血管は、今にも破裂しそうなほどに激しく脈打っている。ベルカンプは計画実行に先んじて、何人もの同志を処分した。口が軽そうな奴、使命の熱に浮かれるまま軽はずみな行動を起こしそうな奴、組織の金を使い込んでいた奴などだ。
同志たちの行動は厳しく戒めてきたベルカンプだが、計画達成が近付くに伴う奇妙な高揚感が枷を緩くしていったのだろうか。細かな綻びがあちこちに現れていた。綻びを一つずつ丁寧に修正していくつもりはベルカンプにも、
「大筋の流れは順調のようだな」
「ダガーか。死体の始末は済んだのか」
「始末というほど丁寧ではないが、この試験中にバレることはないだろうよ」
裏通りにある食糧庫に放り込んだとしゃあしゃあと言い放つこの男の名を、ベルカンプは知らない。一騎やエストは知っている。オーソン通信社のオーソン記者だ。
首から下げているパスは、学園が支給している報道関係者専用のものである。本来ならオーソン通信社のような三流どころに支給されることはなく、ベルカンプが手を回して用意したのだ。おかげで部外者のオーソンも不審者扱いされないというわけだ。
「計画が露呈することを危惧していたが、どうやら致命的な情報流出は防げたかな?」
「君のおかげだ、ダガー。おかげで計画をつつがなく続行できる。必要な道具は全て用意し終えており、最上級のターゲットが手の届く位置にいる状況ともなると、今後、再び巡ってくるとは限らないからな」
ベルカンプの分厚いレンズの丸眼鏡に情念の光が反射する。計画を立案したのはベルカンプ、計画に必要な物品を揃えるのがダガー=オーソンの役目だ。両者とも表の仕事を持ち、裏面があることを悟られないよう慎重にも慎重を期して、普段の行動パターンを少しも変えずに動いていた。
変えない中で準備を整えるのはかなり骨の折れる作業だったが、強い充実感もあった。危険を覚悟して現金のやり取りをし、結果的にリスクを冒しただけの成果も得られた。封印獣の情報を手に入れ、コンディート市内各地に目立たずに配置した。同志たちの隠れ家も用意でき、極めつけとして、封印獣を試験場内に搬入する作業も成功した。
今回の騒ぎの大きさを考えると、もはや今回のように上手くことを運ぶなど不可能となるだろう。計画を実行し、成功させられるのは今日だけなのだ。
頭上を飛び去った鳥の羽音よりも腕時計の針の音が大きかったのか、ベルカンプは腕時計に視線を落とした。計画実行開始時刻まで残り僅か。他の同志たちはいずれも所定の位置についていることだろう。今度はオーソンが足元に視線を落とした。
黒い棺が置かれている。大人用にしても大きなサイズをしている。鎖が幾重にも巻きつけられ、いたるところに呪紋処理が施された、一目見るだけで寒気を覚えそうな棺だ。棺の隙間からは黒い靄が少しずつ漏れており、封印が解けかかっていることが分かる。ベルカンプらが呪紋を削り、鎖を千切ってきた結果だ。
時間が来れば棺の蓋を一息に破壊する。そうすれば封印獣がこの場に出現し、魔法士候補たちに多大なる損害を与えることだろう。
封印獣の力はある程度把握できている。ぶっつけ本番でことを起こすほど、ベルカンプとて豪胆ではない。複数手に入れた封印獣のうち、比較的、小さなものを用いて、何度となく実働実験を積み重ねている。いくつかは市民に目撃されて噂になっているようだが、所詮は噂の域を出ない与太話として一笑に付されているので問題はない。そのためにオーソン通信社も全力を尽くしたのだ。
封印獣の体から漏れだす魔力は空気に触れると霧状となり、吸い込んだ生き物の身体能力を強化する。強化の程度は強化魔法よりも低く、持続時間も短いときている。
特筆すべき効果として、理性や常識といった鎖の強さを著しく緩めることだ。ただしこれも、酒精の力と比べると明らかに優れているわけではない。
要するに大して使えない、というのが封印獣の魔力だった。
ようやく見つけた封印獣がこの程度であることを拒絶したベルカンプは、どうにかして封印獣を百パーセント使い切ることに頭を使い続け、その集大成ともいうべき成果が、カインに渡した靄だ。
周囲に垂れ流されるだけだった封印獣の魔力を、濃度を高め続けることで一定の場所に留め続けることに成功したのだ。身体強化も、外せる理性のタガの数も、飛躍的に上昇させることに成功した。だがもっとも重要なのは強化でも理性解除でもない。
それが何なのか、すぐに帝国中の人間が思い知ることになる。
ベルカンプはにやりと笑う。オーソンは歯茎を剥き出しにして笑う。いくつか予想外の出来事を乗り越えて、ようやく彼らの積年の目的が叶うところまで来ているのだ。表情筋が歓喜に突き動かされても仕方のないことではある。
ただ、感じているのは歓喜だけではない。心中に歓喜が湧きあがるほどに、熱を帯びた怒りと憎しみも膨れ上がる。膨れ上がったそれらは既に限界を突破していた。
ならばどうなるか? 決まっている。周囲を巻き込んで大きく破裂するだけだ。
森の向こうから人が歩く音が聞こえてきた。複数の足音は、魔法士候補のものであることは疑いようがない。好戦的で嗜虐的な笑みが吹き上がる。腕時計の針が予定された時刻を指す。
ベルカンプは笑い顔のままで斧を振り上げ、黒い棺に向けて勢いよく振り下ろした。ベルカンプの人生における助走は、今ようやく終わり、ゼーリッシュ教徒の悲願を達成するべく、
「ルアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァッッ!」
封印獣が解き放たれた。




