第五章:三十一話 靄
(かなり遅ればせながら)新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
風は雑魚など掻き消してくれるとばかりに大きく渦巻き、一騎の魔力は風を押し返さんと咆哮を上げる。ぶつかり合って生じた衝撃が、両者を強かに叩く。一騎は思い切り歯を食いしばり、一方のカインは逆上の声を吐き出した。
「こっの亜人如きがあああああぁぁぁぁっっ!」
刺突。竜巻をまとう剣による刺突が繰り出される。砲弾を後押しするどころではない。先に放たれた風の砲弾ごと、一騎を一息に飲み込む。
「ちくしょうがぁっ」
カインに対して毒づいたのではない。状況に対して毒づいたのだ。状況をなぞると考えはしたものの、手順を考える時間も、覚悟を決める時間すら与えてもらえない。
一騎には痛覚もあるし、恐怖を感じるまともな感性もある。いくら魔法で跡形なく治療してもらえるとはいっても、現時点でのケガやダメージから救ってくれるわけではない。しかも並のゴブリンよりも体力があることから、耐えられるダメージ量も多い、つまりは辛く厳しい時間が長く続く。
痛いのも苦しいのも、一騎の望むものではない。リズのときは無我夢中でできたことでも、冷静な頭で、なぞる、ことにはどうしても躊躇いが生まれてしまう。
そして覚悟を決める時間がないということは、一騎の躊躇いを斟酌してくれるはずもないということだ。
「ホント、俺のゴブ生ってこんなのばっかだなぁっ!」
人生よりはマシでしょう、と骨の声で幻聴が聞こえた気がした。
なぞるしかないならなぞるまで。一騎は両手にありったけの魔力を込めて突き出す。状況すらもなぞるのか、一騎の腕は魔力ごとズタズタにされていく。流れ飛ぶ血を無視して、ズタズタになった両手をさらに風の中に突き入れる。
「おおおおおおおぉぉぉっ!」
血と肉片が飛び散る一騎の両手に、一騎自身も見たことがない魔力光が生じる。これがリズの魔法を吹き飛ばしたときと同じものであることを、一騎は知っている。
知っていて、無我夢中の一騎は気付かない。金切り声にも似た破裂音を上げて、カインの風魔法は吹き飛んだ。カインの風の内側に別の風を生み出して、ぶつけて破裂させたのだ。
「がは!」
桁違いの衝撃でカインは大木の幹に叩き付けられ、一騎も宙高く舞い上がり、「やってやったぜ」とニヒルに見えなくもない笑みを浮かべて硬い地面に落下する。いい加減、地面に叩きつけられる日々にうんざりしてきた一騎だ。できるなら風の魔法でフワリ、と華麗に着地してみたい。
肘をついて体を起こす。一騎の両腕は酷い有様になっていた。単なる風ではなく、魔力の込められた魔風に手を突っ込んだのだ。幸運の天秤の傾きが少し違えば、一騎の肩から先は随分とさっぱりしていたに違いない。
「っ……な、んだ……今のはっ?」
口角から血を流しながらカインが睨みつけてくる。ぶつかったときのダメージの多くは風の鎧で消したにせよ、両目の敵意は些かも衰えていない。凄まじささえ感じる執念に背筋に冷たさを覚える一騎。
反対にカインの内外両面には膨大な熱が渦巻いている。
――――弱い。
不愉快極まりない自覚がカインの神経を掻き回す。
四大貴族の跡取りとして勉学にも魔法の特訓に励んできた。父からの期待、周囲からの期待に応えるため、努力を欠かしたことは一日たりとてない。努力は正しく報われ、風の派閥筆頭の才能は正しく開花した。学院においては最優秀の部類に入る成績を修め続け、未来において帝国を担うことを確実視されている。
なのに、どうしてこんなことになる? どうして、周囲に期待に応え続けてきたこの身が、大木に身を預けるなどという無様を晒している?
「っっ」
すべては! こいつのせいだ!
この亜人種が学院に来た瞬間から、あらゆることが変質していった。
魔物なのか人なのかわからないような下賤な生き物が、帝国や貴族が長年かけて築き上げてきた由緒ある学院に侵入してきたときから。黒いシミのように汚れが広がっていったのだ。
この亜人は貴族の言葉を聞かない。平民が貴族に対して当然に採る言行を何一つ見せないだけでなく、平気で逆らってくる。風の派閥筆頭の跡取りである自分に逆らうということは、貴族社会を真っ向から否定するようなものだ。
分際を弁えない亜人の行動は、帝国貴族の筆頭たる自分が正さなければならない。普通なら、学院に詰めている衛兵に一言命令を下せばそれだけで、醜い亜人は捕らえられ、学院から追い出される。
だがそれはできなかった。亜人の傍には大精霊がいたのだ。
貴族の血を誇り、礼を尽くし、数多の財を約束して尚、大精霊はカインを選ばなかった。どころか、見向きもしなかったのだ。亜人のような劣等種を心から慕う一方で、貴い血を受け継ぐ自分には軽侮と敵意を向けてくる。
正しいと信じる行動を採り続けてきたのに、どうしてこんなことになっているのか。
口の中に鉄の味が広がる。口の中を切ったのか、体内のどこかからか血液が逆流してきたのか。全身を駆け巡る熱にものを言わせて立ち上がろうとして、前のめりに倒れてしまう。
「ぐぁっ」
全身打撲で筋肉と骨を痛めたせいで、頭の命令通りに体が動いてくれない。奥歯という奥歯を噛みしめ、膝をついて体を起こす。
カインの目には、少し前にいるゴブリンの向こう側に、美しい大精霊の姿が見えた。過去、大精霊と契約ができたものは例外なく歴史に名を残す。あれほどまでに強力で、見目麗しい大精霊なら、過去のどの英雄よりも高く優れた名声を得ることができるだろう。
「大精霊様を……あれ、を手に入れる。あれは! おれのだ!」
カインは気付かなかった。カインの内側から、黒い靄が汗のように滲み出てきていた。
――――まだやる気か? お前じゃ何度やったって結果は変わらない。
「!」
嘲笑の声はカインの前方、つまりは一騎からぶつけられた。ように聞こえるだけで、実際には内側から届いてきた。
カインの目に浮かぶ一騎の表情は嘲りそのものだ。
――――本当にバカな奴だ。お前程度が大精霊様と契約できるだなんて本気で思ってるのか?
「貴様ぁっ!」
――――貴族だ天才だのと持ち上げられただけの、ゴブリン以下の雑魚野郎。さっさと負けを認めて跪け。靴でも舐めさせてやるよ。
「っっ!」
風刃を放つカイン。だが風刃はゴブリンの腕の一振りで無残に砕かれた。
「なっ」
これが幻覚でしかないことにカインは気付けない。怒りと、怒りをズタズタにする無力感が精神を急激に蝕んでいく。
「ぐっ……!」
カインの口から漏れる短い呻き声。
「この、亜人如きが……」
カインの目には、一騎が自分をいたぶっているように見える。魔法士試験に相応しくない、それはみっともない暴力だ。一騎にしてきたことは暴力ではなく正当な行為であると信じるカインにしてみれば、神聖な試験に醜い暴力を持ち込む一騎は許せるものではない。
同時に、暴力を掣肘することができない己の無力も許せないでいた。
――――無力だな。それ以上に無様だ。ゴブリンに負けた史上初めての四大貴族として永遠に歴史に名を残せるぞ。おめでとう、転落人生の始まりだ。
「うるさい、黙れっ!」
――――はは、所詮は口先だけか。黙れ? バカか貴様は。ゴブリン程度の口を塞ぐ程度の実力もないから、口で喚くしかできないんだろ? 静かにしてください、お願いします、とでも言ってみろ。頭を地面にこすりつけてな。無様に惨めに懇願してみろよ。
固く握り込んだ拳に魔力が満ちていく。黒い靄が餌を前にはしゃぐ獣のように蠢く。カインの全身をこれまでに感じたことのない、怖気や寒気が走る。
――――四大貴族に弱者はいらないだろ? 弱者には国を守れず、国を守れない四大貴族に何の価値がある? 無価値だ。つまり、お前が無価値なんだよ。口先だけで実力のない、負け犬が。
「おれは違う! おれは! おれは――――っっ!」
カインから蒸気のような黒い靄が噴き上がる。世界を侵食するように黒い靄が急速に広がっていく。炎や風ではなく、毒や病のようにじわじわと広がっていく様は、不吉の一語に尽きる。
「これが、これがおれの本当の力だ。おれの、おれのぉぉおおっ!」
森の木々を越えて高く噴き上がり続ける黒い靄は、今度は雨のように地上に降り落ちてきた。黒い雨はさながらタールのように、ドロドロとして粘ついている。一度、付着すれば引きはがすことは困難だと容易に納得させる、そんな性状だ。黒い靄は容赦なく地上に降り注ぎ、大地を、木々を蹂躙し、
「え?」
一瞬でカインをも飲み込んだ。




