第一章:十話 雑魚の怒り
川の流れは凄まじい。
一騎のほとんどなかった意識を流し去り、身を切るような水の冷たさは残り少ない生命力すらも容赦なく奪っていく。
(あ、ヤバイわ、これ……ちょっと結構、本気で死にそうなんだけど)
一騎は薄れていく、というよりも押し流されていく意識の中で思う。川の流れがどこに向かっているのかはわからない。運よく洞窟の外に出られたり、どこかの川辺に打ち上げられたりしたとしても、指一本動かす力も残らないだろうことは想像に難くない。
それ以前にこのままだと、川底に屍を晒すことになりかねない。むしろ、この可能性が一番高いとさえ言える。
(ど、すれ……ば……、…………)
ふと気付いたとき、一騎は川の流れを感じていなかった。
つい先程までの、身を切るような激流が完全に止まっている。
周囲は薄暗く、自分以外の生命の気配はなく、気色の悪い浮揚感と奇妙な暖かさが一騎の全身を包む。一騎の全身を包み込むなにかは少しずつ内部に浸み込んでいき、肉体の損傷を癒していく。
潰れていた右目もいつの間にか見えるようになっている。内臓は修復され、砕けた骨も元に戻る。「なにか」がどんどんと体の中に流れ込んできている感覚。
(なんだ、これ……夢?)
例えるなら、真冬の朝の布団の中にいるような、えも言われぬ居心地の良さがある。この場から動きたくない。ずっとこのままでいたい。そんな感覚である。
だからこそか、一騎の意識は急速に覚醒したのだった。冬場の炬燵や布団の心地良さに負けた結果、幾度となく遅刻を経験した身だ。このどうしようもない心地良さに身を任せていたら身を滅ぼすのではないか。人間だった頃の経験が全力でそう叫んでいた。
ごぼ、と息を吐き出す。呼気の泡が左に向かって進んだ。
(水面は左か)
前の世界と同じ法則であることを願って、一騎は全力で腕と足を動かす。ただし犬かきだ。緑色のゴブリンが必死で犬かきをして進むと、ある場所を境に急に激流が戻ってきた。
(ごぼふぉぽっぅ!)
戸惑う間もなく押し流される。流れが緩やかになったのを見計らって岸にたどり着けたときには、疲労困憊の極みに達していた。
「っぜぇ、ぜぇ、っぅはぁ、ふぅ」
よたよたとした足取りで岸に上る。ネットで見た昭和コント番組の泥酔者の千鳥足を連想した一騎だった。
ふらふらする頭を動かして周囲を確認する。間違いなく洞窟の外には出られていない。岩や地面や空気の感触も変わりない。
「ぶふぅ」
大きく息を吐き出して倒れこむ。仰向け、大の字になる。息を整えながら川の上流に顔を向ける。どうにか逃げ切れることができたか、などと考えたのがまずかったのか、獣の咆哮が聞こえてきた。
「……づ、ぅマジで? しつこ、すぎだろ、ほんと」
大きなため息を吐き出し、疲れた体に鞭打って立ち上がる。古木との勝負はまだ終わってなどいなかった。
「うん?」
潰れた目が治っていることには気付いていた一騎も、思わず戸惑った。視力が向上しているのだ。
人間だった頃はゲームのし過ぎで裸眼視力は0.05。転生により視力は多少、回復していたようなのだが、あくまでも多少でしかない。光の射さない暗闇の中を、尋常ではない速度で追ってくる人狼の姿を見ることなどできなかったのに、今ははっきりと見えていた。
「見えたからってなにができるってわけでもないんだよな」
川辺に移動して戦闘中に隙を作り出してから逃げること。これが先の一戦における作戦だ。予想以上にズタボロになりながらも、なんとか作戦は成功した。一騎の頭の中に他の策はない。一度でも逃げ切れれば、もう追跡はないだろうと高をくくっていた。
あにはからんや、ここまでしつこかったとは。
「クソデブ野郎がぁっ!」
一際、大きな跳躍をして古木が迫る。跳躍、拳を作る、落下の速度を合わせて殴りつけてくる。
一騎は両手で頭を保護しつつ全力の横っ飛びで回避した。一瞬前まで一騎のいた地面は非音楽的な悲鳴と共に砕け散った。
「ぃい!?」
回避したのはよかった。一騎が戸惑ったのは自分が考えていたよりも長い距離を跳ぶことができたからだ。視力だけでなく身体能力も向上している。少なくとも跳躍力は二倍にはなっているように思えた。
「つっても元が大したことないんだから、倍になっても知れてるけど」
「なんだ、てめえ。あれだけ痛めつけてやったのに、ケガが治ってるじゃねえか」
舞い上がる砂ぼこりを鼻息で散らす古木。砂埃の向こうから姿を現した古木を見て、一騎は絶句した。やたらと体が大きくなっているのだ。感じる威圧感も段違い、口の周囲には真新しい血の跡が見てとれる。
「お、おま、その姿!」
「ああ? この姿か? 越田の奴を食ったらこうなったんだよ」
「越田って、仲間じゃなかったのか」
「け、知るか、あんなクソ雑魚。追ってった雑魚にぼろ負けした挙句、泣きながら逃げかえってきやがった。助けて助けてうるせえから食い殺してやったさ」
下品な笑い声を上げる古木。一騎は話の流れから宗兵衛が無事らしきことを悟りホッとする。しかし安堵とは別の感情もあった。
「……っ」
急速に頭が血が上っていくを、一騎は自覚した。
「くか、そしたらよお、こんな風に強くなっちまったよ。あのクソ妖精が言ってたよな、殺せば殺すほど強くなるって。雑魚モンスター殺してもあんま変わらなかったからガセかと思っていたがよ、転生者を殺すとここまで強くなれるとは思わなかったぜ! 越田みてえな役立たず、さっさと殺しておくべきだったな! てめえみたいな雑魚でも食い殺せば、ちっとは足しになるのかも……なあっ!」
より強力になった古木の突進からの拳。
一騎の腹にめり込んだ拳だが、一騎はほとんどダメージを受けなかった。呼吸ができなくなるわけでも、内臓や骨に損傷が出るわけでも、吹き飛ばされるわけでもない。ついさっきには対抗しようのなかった拳、それよりも大きさでも威力でも勝る一撃を受けたにもかかわらず、一騎はその場に踏みとどまる。
「んあ? どうなってんだ、クソデブが!」
「……」
怒りを露わにして古木を睨み付ける一騎。
一騎は昔から古木が嫌いだった。力任せな振る舞いも、粗暴な物言いも、なにからなにまで大嫌いだった。嫌悪と隔意の感情を常に持ち、だが今は違った。嫌悪よりも隔意よりも、はるかに強い怒りを感じている。
よほどに不愉快だったのだろう、古木の口から凄まじい歯軋りの音がした。
「んだその目付きはよお。胸糞悪ぃぞクソデブの分際で! てめえは全力で媚びて土下座でもしてろや、あぁん! そしたらすぐにぶち殺してやるからよ!」
激高した古木が拳を振り回す。地元のパンチングマシンでランキング入りしたと、自慢していた拳だ。かつての一騎なら一発殴られただけで立ち上がる気力も奪われていた攻撃を、まさに雨のように打たれている。
だのに一騎は少しも怯まなかった。怯む理由がなかった。古木の拳は、一騎の怒気を微塵も散らすことができない。
古木はさっき、なにを口走ったのか。越田を殺したと言っていた。食い殺したと言っていた。
「ふざけやがって、ふざけやがって! クソデブが生意気な目えしてんじゃねえぞ!」
古木には、なんのために生まれ変わったかを問われた。少なくとも、古木のように憂さ晴らしで暴力を振るい、下卑た笑い声を上げるような奴には屈しないためと返せる。これはこれで微妙に情けないことなのだが、そう思ってしまったのだから仕方ない。
それよりも。そんなことよりも、もっと大事なことがある。
「クソデブがあ! 雑魚が! ゴミカスが! 役立たずの愚図が! さっさと血反吐ぶちまけて死ねやこらあっ!」
仲間を、人間だった頃からつるんでいた友人を殺した古木の残虐さに背筋が冷たくなる。友人を殺したことを嬉々と語る古木が腹立たしい。自身の精神や考え方の変調に気付いていない古木の間抜けさに虫唾が走る。
友人なんて関係に憧れていないと言えば、それははっきりと噓になる。暴力的で短絡的で、間違っても友人になりたいとは思わないが、古木にとって越田は友人ではなかったのか。その友人を、どうして簡単に殺せるのか。食うなんてことができるのか。
「クソがあああぁぁああっ!」
一騎が正面を睨み付ける。
一騎は許せない。家庭でも学校でも、常に冷遇されてきた自分だ。軽く扱われる辛さも、著しく乏しい繋がりがもたらす表現しがたい感覚も、身に染みてよく知っている。
だからこそ許せない。許すことができない。命を軽く扱うことも、せっかく持っている繋がりを魔物の衝動如きで噛み千切ったことも。
殺意と敵意と罵声と唾を撒き散らす、醜悪な化物がいる。肉体だけでなく魂の髄まで化物に成り下がった男が目の前にいる。
一騎は思う。なによりも、こんな奴に負ける自分が許せない。
唐突に、一騎の全身が輝き出した。