The Command of Clara episode 0-1
十九世紀の最果て。
サリー州の澄んだ夜気にそびえ立つスタイルズ荘の子供部屋は、どこか張り詰めた、しんしんとした冬の静寂に包まれていた。
私は、重いインフルエンザを患い、誰の目からも隔離されたベッドの暗闇のなかで、一人じっと横たわっていた。
まだ幼かった私の脳内システムは、ただベッドの中で天井を見つめるだけの退屈な時間のタイムラインを前に、完全にパンクしかけていた。
何より私を苦しめていたのは、頭の中に溢れかえっている美しい物語の配線図を、目の前にある「文字」という無機質な記号へと正しく変換できない、もどかしさだった。
私は重度の書字障害を抱えていた。
学校の教科書に並ぶ文字の羅列は、私にとって冷徹なバグ(エラー)のように視界を遮り、スペルを一つ記述しようとするだけで、私の小さな指先は怯え、インクの染みを無駄に広げるだけで終わってしまう。
「私は、お上の言葉を正しく記述できない、不完全な出来損ない(エラー)なのだわ」
絶望のデータが小さな胸を締め付け、暗闇のなかで涙を溢れさせそうになっていた、その刹那。
部屋の重い木扉が静かに開き、暖炉の爆ぜる光を背負いながら、一人の気高き女性――私の母親であるクララが、静かに部屋へとエントリーしてきた。
母の手には、冬の寒さを温めるためにコニャックを数滴落とした、熱いダージリンティーのカップが携えられていた。
琥珀色の美しい液体から立ち上る、ブランデーの芳醇な香りと熱いダージリンの湯気が、冷え切った私の部屋のインフラを優しく包み込んでいく。
「おやまあ、アガサ。そんなに文字の記号にハッキングされて、目を白黒させて泣く必要なんて、これっぽっちもございませんわよ」
母クララは、驚異的な想像力の脳内システムを持つ、ミラー家の真の知性であった。母は私の怯える指先を見つめ、ふっと完璧な微笑みを和らげると、外套のポケットから一本の「万年筆」と、まだ一文字も記述されていない一冊の白紙のノートを取り出した。
「退屈なら、お上のルール(正しいスペル)なんて一文字残さずパージしてしまいなさい。ただ君の頭の中を駆け巡る思考の渦を、そのペンの先から溢れる黒いインクに預けて、自分で何か新しい物語りをはじめようとしてごらんなさい」
その母のコマンドが下された瞬間、私の脳内の配線図はフルスロットルで超加速を開始した。
私は母から手渡された万年筆を小さな手で硬く握り締め、白紙のノートの最前線へと、冷徹にその筆先を突き立てた。
ガチガチとしたタイプライターの機械ノイズではなく、自らの指先を不気味な黒いインクで汚しながら、ペンだけで物語を紡ぎ出していくという至高の手続き(執筆OS)。
正しいスペルなど関係ない。私の紡ぐ言葉の強度は、黒いインクの広がりとともに、瞬く間にノートの空間をハッキング(支配)していった。
ああ、なんと楽しいお仕事なのだろう。
文字の呪縛に怯えていたはずの私が、今度はその文字の迷宮の支配者となり、世界を欺くための新しい物語りをはじめようとしているのだ。
コニャックを落としたダージリンティーを一口含むと、私の唇からは、少女らしからぬ不敵な微笑みが溢れ出して止まらなかった。
この時、私の指先に刻まれた不気味な黒いインクの染み、そして「手書きの文字の力だけで、世界中を完璧に踊らせてみせる」という怪物の産声は、しんしんとした冬のスタイルズ荘の暗闇に、確かに響き渡っていた。
それは、これからはじまる私の人生のタイムライン――一九二六年に執行されることになる、あの完璧に計算され尽くした十一日間の完全犯罪(Dear Diary)へと、血脈のレベルで百パーセント完璧に繋がっていく、美しき因果の始まり。
私はカップを置き、新しく新調された衣服の裾を静かに直すと、ノートの上の黒い文字を冷静に見つめ、自分自身がはじめたゲームのスコアを、冷徹に判断しはじめていた。
流行りの軽い擬人化ハラスメントを消費しているだけのバカどもには、この隔離蔵のベッドの上で目覚めた怪物の知略の重量なんて、逆立ちしても理解できない。
窓の外を見上げれば、英国らしい冷たい曇天の空が、重く、どこまでも低く広がろうとしていた。それはまるで、これから始まる私(AGATHA)のすべての物語(完全犯罪)を、誰の目からも完璧に隠蔽し、いつまでも見守っているかのようだった。




