1話 海のない相模湾は相模湾か
1日目 午前8時43分
ぬらぬらと苔むした甲羅を持った一角獣だ。一角ウサギが雑に苔むした甲羅を背負っていると言ってもいい。ウサギの毛はたぶん白いはずだが、カビなのか甲羅の色に引きずられているのかすこし緑がかって見える。
そしてその巨大なカメウサギは異臭を放っている。臭い。カビ臭い。
これが|シャウロ=フロン=マタタ《空の上でカビたカメウサギ》だ。
江の島の裏側にある家の2階から、のんびりと泳ぐように歩く巨大なウサギのようなカメのようななにかが見えている。
しかし、この江の島のまわりには海がない。ずっと荒野だ。つまり、江の島ではない。江の山だ。
相模湾ではなく相模荒野あるいは相模砂漠をぬるぬるとカメのようなウサギのようなバカデカいなにかが進んでいる。どこに行くのか? 相模湾のさきにはなにがあるのか? 太平洋?
俺は、生まれて19年海を見たことがない。太平洋には海があるのかもしれないが、俺はそこまでは行けない。モンスターがいて危ないというのがタテマエで、過保護な保護者がいるというのが主な理由だ。
ん? あれ、その過保護な保護者どこ行った?
モンスター相模湾歩いてるけど、呼びにも来ねえな?
「コオロギし——」
師匠を呼びながら立ち上がろうとベッドに手をついたら、ずむ、と。
筋肉質ではあるが多少なりとも柔らかい感触が右手に残る。
なるほど。過保護な保護者? それならいま俺のとなりで寝てるけど?
「コオロギ師匠」と俺はそのままとなりで寝ている腹を出したおっさんのようなイキモノに声をかける。
「んごわー」
この小さいがそれなりにビジュアルはいいハーフドワーフ、名前は……長すぎて省略するけど、コオロギ師匠と俺は呼んでいる。母であり、姉であり、幼馴染みたいなものだ。
4、5年前までは完全に子ども扱いだったが、俺のアレがナニで朝がコンニチハしたのを完全に目撃してから寝室を分けた。
昨日は評議会からの大事な呼び出しとやらで藤沢に行って、適当に野外で飲んで帰ると言ったのでさきに寝た。
そしたらこの惨劇だ。
ふにふに。いや、これはオカンか姉か、そういうものだ。やめたほうがいい。
でもビジュアルは好きなんだよ。血は繋がってるわけもないし、いやそも俺は転生者なので前世の記憶がおぼろではあるけど、まあまああるので、主観としては母という感じはとても薄いんだけれど、でもそうは言っても、これはよくないんだけど、いや、やっぱりダメだ、俺の19歳の肉体にこれは不可抗力とは言え、この刺激は抗いがたい。
かわいいだけでいいよ、充分だよ。江の島には俺と師匠とたまに出てくるモンスターしかいないんだから。かわいい以外に理由なんていらないんだよ。
だいたい潜り込んだのはコオロギ師匠だし、ある程度わかってるだろ。俺のナニがアレでコンニチハし始めてからベッドわけたんだし、そうなるよ、これはそうなるよ。
でも育ててもらった恩はあるし、そもそもこの世界がギリギリで維持できてるのがたぶんコオロギ師匠のおかげだし、ああ、くそ、なんで見た目はぜんぜんないというか、見た目だけじゃなくて実際にぜんぜんないんだけど、それでもなお柔らかいのなんでだ、くそ、抗えない。
という葛藤を1分くらいつづけて、窓の外からモンスターの鳴き声がしたので手をようやく離した。
ぬぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
まあまあ大きな音だ。
だが、師匠は相変わらず、起きない。
だいたいこのひとがかわいいのがよくないんだよな。師匠にはほぼ胸がないので俺はだいじょうぶです、みたいな態度はとれはするんだけど、同時に師匠は俺の世界のだいたいすべてなので、世界が終わるまではいっしょにいるのだとは漠然と思っているわけで、これが家族愛か性愛かどうかというのはナイーブで高度に政治的判断を要求される。
そう、つまり俺から見た俺と師匠は統治行為論的関係だ。
ぬぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
またシャウロ=フロン=マタタが鳴く。
この近辺で出てくるモンスターにしては出現頻度は低く、年1くらいで見るかな、くらいのイキモノだ。
ちなみに、強い魔法がいっさい使えない俺でも倒せるくらい弱い。
ただ世界を雑に滅ぼすカメ(いや、ウサギか、カメとウサギかなんかそんなもん)らしいとも聞く。発情していたら世界の危機だが、通常はタダのでかくて珍しめのザコモンスター。
そして、鳴く声がデカ——あれ?
いや、待て。
まずくないかこれ、シャウロ=フロン=マタタが鳴いている。




