最終歌 君がため
――卒業おめでとう。君たちの未来には様々なことが待っています。この3年間を有意義に過ごしてきた君たちならどんな辛いことも乗り越えていけるはずです。
少し早い春の訪れに校門の両端に並ぶ桜はまだつぼみのままだ。
学校に来なくなるとこの辺を通ることはもう滅多にないだろう。だからこそ最後にもう一度見ておきたかった。
「どうした?」
式が終わり、HRも終わった放課後。
渡り廊下から桜を眺めていると声をかけられた。
さすがに卒業式にトレードマークのヘッドフォンは身につけていない。代わりに胸ポケットに麻琴と同じ卒業生の証の赤い花が差し込まれていた。
久瀬もここへ最後に来たかったのか、単なる習慣なのかはわからない。
そこは久瀬と初めて話した場所だった。
× × ×
あのクリスマスイヴの日。
カフェテラスで顔に手を添えられて見つめられて。麻琴は動けないでいた。
「久瀬くん、人が見てるよ」
久瀬の揺れた瞳を見ながら麻琴が周りを気にする。
「この位置、ちょうど木の影になってるから見えないよ」
久瀬の指が麻琴の髪を掻き揚げて少しだけ取っては梳く。彼の揺れていた瞳が止まったかと思うと大きな手のひらで引き寄せられた。
久瀬の顔が影になって見えなくなる寸前――
ギュッと強く目を閉じた。
「それが、本音だな」
ひっそりと斬りつけるような久瀬の声が聞こえて肩をすくめる。
ギュッと閉じていた目をゆっくり開けると、久瀬は元の場所に戻っていた。
ドンッとテーブルに頬杖をついた久瀬は「お前警戒心なさすぎ」と麻琴に悪態をついた。
「出よっか」
久瀬は言うと同時に席を立つと伝票を持ってレジへ向かう。
麻琴も慌てて後を追ったが久瀬が店を出るまで追いつけなかった。
店を出てからずっと足が重い。二人の間に流れる空気も重い。
それでも久瀬は麻琴の歩く速度に合わせて歩いてくれている。
「俺、櫻井の泣き顔ばっか見てるな」
――そんなことない。
そう言おうとして麻琴が少しだけ顔を上げた。でもそれが言葉になることはなかった。
そのままただひたすら歩いて着いた先は臨海公園。潮の香りと冬の匂いが辺りを包んでいた。
海に臨む手すりに久瀬がもたれかかる。麻琴も少し離れて隣に立つ。
「今だから言うけど櫻井の泣いてる顔だめなんだ、俺」
「え?」
涙を流したとき、いつだって傍で優しく頭を撫でてくれたのは久瀬だ。
一生分泣けば泣かなくて済むと笑わせてくれたのも。
「どう見たってそんな苦しいことやめた方がいいと思うのに、櫻井はいつも一生懸命あがいて。日下のために泣いた櫻井見て、俺もこんな風に想われたいって思った」
顔だけ麻琴の方を向いて久瀬は寂しそうに笑って手を伸ばす。
「今泣いてるのは俺のため? それともあいつのため?」
麻琴の目元にたまる涙を久瀬の親指がなぞる。
「久瀬くん」
拭ってくれたはずなのに麻琴には世界が滲んで見える。
「それ聞けただけでもいいか。あとはこれでチャラにしてやるよ」
空いていた二人の距離が一気に縮まったかと思うと頬に柔らかい感触が残って離れた。
× × ×
ずっと子ども扱いされるのが嫌で。
早く追いつきたくて、早く卒業したくてたまらなかった。
それなのに。
卒業したら、教師と生徒でなくなる。学校で先生に会えなくなる。
その事実が麻琴を不安にさせた。
「晴れて生徒じゃなくなる日だろ。笑顔でいればいいじゃん」
卒業証書を小脇に抱えた久瀬はポケットに両手を突っ込んだ。
「でもどうしていいかわかんない」
もう甘えてはいけないと思いながらも麻琴が弱音を吐く。
「今まで乗り越えてきてんじゃん。あの日下がムキになる人間なんて櫻井くらいだよ。ずっと見てた俺が言うんだから間違いねぇよ」
「そうだね」
最後のHRが終わったというのに校内は多くの生徒が残っているようだ。麻琴と久瀬をチラチラと気にしながら何度か目の前を通り過ぎていく。
「前に羨ましいって言ったの覚えてるか? 櫻井みたいに泣けるほど人のこと思ったことなんてなかったんだ。そんな櫻井が好きだった。今でも羨ましいと思うよ」
麻琴が久瀬を見た。
「そんな櫻井に想われてる日下が」
ニヤリと笑って久瀬が付け足した。
ポケットに入れていた右手を出すと麻琴に向かって差し出す。
「櫻井に会えて良かった。ありがとう」
「私も久瀬くんにいっぱい助けてもらった。ありがとう」
右手を添えるとギュッと力がこめられる。
「やっぱ、櫻井にはその匂いが似合ってるよ」
少しの沈黙。
握ったその手を麻琴はなかなか離すことができなかった。スルッと先に手を離したのは久瀬だ。
最後まで久瀬には全て見透かされている。
「じゃあまたな」
「うん、またね」
*
「せーんぱい」
明るく弾んだ声に呼ばれて柚月が振り返った。
「卒業おめでとうございます」
「ありがと」
「とうとういなくなっちゃうんですね」
柚月の持つ卒業証書の入った筒を見ながら深山が寂しそうに言った。
「私がいなくても深山なら大丈夫。保健委員長頑張ってね」
「俺まだ来年も入るって決めてませんよ」
「でも決めてるんでしょ?」
「大谷先生が顧問じゃなければもっといいんですけどね」
不満そうに深山が言う。否定しないところを見るとこのまま続けるのだろう。
「カフェのオープン日決まったんで来てくださいね。約束」
深山の念押しに柚月が微笑みを向ける。
「もちろん」
その答えに満足したのか深山の口角が少し上がった。
「あともう一つ」
急に真面目な顔をして深山が柚月を見つめた。
何を言われるのだろうと柚月は少し警戒する。深山にはずっと調子を狂わされっぱなしだったからだ。
「笑顔でいてください」
その心配は杞憂だった。
すがるものではなく、ただ幸せを願う約束。
言い終わると深山は顔一杯に笑顔を広げた。
「うん」
この気持ちをくれたあなたのためにも。
笑顔でいられるように。
柚月も負けないように笑顔を返した。
「じゃあ、また店で会いましょう、小薗先輩」
*
「大谷先生、まだここにいたんですか」
保健室の鍵はまだ閉まっていなかった。
思わず見惚れてしまうようなスーツ姿も着崩された白衣で台無しだ。
「卒業式でも何があるかわからないんだから式以外は待機してるの。委員長だってもう仕事しにこなくてもいいのに」
「最後ですから」
毎日のように来ていた保健室も明日から来ないのだと思うと名残惜しい。
かすかに匂う消毒液の匂いも白い壁もこのふざけた養護教諭も。
「委員長」
「はい」
いつになく改まった声に柚月が身構えると大谷は両手を膝に置き頭を下げる。
「二年間保健委員長お疲れ様でした」
「こちらこそいろいろ教えて頂きありがとうございました」
柚月も卒業証書を持った手を前で組み頭を下げた。でも、と言い置く。
「ほんとは一年で終わるはずの責務を延長させた罪は重いですよ、せんせ」
「委員長以外に委員長の器の人間がいなかったからね」
「お世辞を言っても何も出ません」
「委員長には本当に助けられたよ。春からどうしようか悩むくらいにね」
大谷が手放しで柚月を褒めることなんてこれまでになかったことだ。驚きすぎてどう反応していいかわからない。
「さて、卒業したわけだけどどうする?」
沸かしたお湯をティーポットへ勢い良く注ぎながら大谷が尋ねた。
「どうするって言われても」
「オレと委員長はもう教師と生徒じゃない。ってことは?」
差し出されたカップを受け取った。顔の前に近づけると紅茶のいい香りが鼻孔をくすぐる。
「私にその先を言わせるんですか」
「委員長の照れた顔見たいんだもん」
「悪趣味」
「いや? オレは趣味はいいと思ってるけどね」
「怒っていいのか褒められてると喜んでいいのかわかんない」
ぼそっと柚月が呟いた。
そんな柚月に大谷が意地悪そうに笑う。
「とりあえず校門出るまでなんてオレ我慢できないから、ここで喜んでいい?」
大谷は柚月の持つカップを机に置いた。
柚月が何かを察して後退りしようとしたが大谷の手がそれを止めた。そのまま空いた方の手を彼女の右頬に当て顔を傾けた。
*
友達との別れを惜しんだ後、麻琴は社会科準備室へ急いだ。
柚月とは進む大学も同じなので既に別行動だった。
クリスマスイヴ、久瀬と別れた後。
麻琴はすぐに日下に電話をかけた。何度もかけたのに全く繋がらない。それはそうだ。自分から遠ざけたのだから。
すれ違ったまま迎えてしまった卒業の日。
このまま別れるなんて絶対いやだ。
勢い良く社会科準備室の戸を開けるとそこに日下がいた。
日下と初めて話したのは春だ。
歴史の授業なんて嫌いだった。
2年生になって歴史の担当になった教師はいつもピシッとアイロンの掛かったシャツで必ずボタンは一番上まで留めて首にはネクタイ。整った顔に上半分だけ枠の付いたハーフリム。
神経質で堅そうなイメージに麻琴はますます嫌気が差した。
そんな日下の授業はイメージとは全く違った。
要点が簡潔にまとめられていてわかりやすい。それぞれの膨大な量の歴史だけでは頭に入ってこないことを見越してその時代起こったことを日本と世界で対比する徹底ぶり。世界史の流れは比較的身近に思える日本史との対比で頭に入りやすかった。
先生は日本史が特に好きなようで平安時代や鎌倉時代の授業はいつも以上に熱が入っていて笑ってしまった。いつも淡々と話す日下とのギャップにやられた女子は多かったらしい。
社会科準備室に訪れる女子が増えた。でも冷たくあしらう日下に脱落者は増え、最後まで引かなかったのが麻琴だった。
急に部屋に飛び込んできた麻琴に日下は驚いたようだった。
「どうしたんですか、櫻井さん」
「忘れ物があって」
中に入ったもののどう話していいかわからない。静かに戸を閉めながら麻琴は悩んだ。
目線を落として視界に入った光景に目を疑った。日下の鞄に外したはずのストラップがついている。
日下のことだから淡い期待をしてもくずれるだけかもしれない。でも、ここまで来て後悔はしたくない。
そろりそろりと日下の傍まで歩く。
ふいに日下の空気が動いた。
「ずっと後悔していました。あなたを遠ざけてしまったこと」
日下がくるりと椅子を反転させて麻琴へ向き直り、続ける。
日下は麻琴の目をまっすぐ見る。
「割り切ってるつもりでもどうして自分は櫻井さんと同じ立場じゃないんだろうと何度も思った。自分が高校生ならどんなにいいかと何度も」
意表を突かれた。
日下がそんな風に思っていたとは夢にも思わなかった。
どんなことが起こっても勝手に割り切って平然と振る舞う日下。わかっているつもりでも許せなかった。
麻琴を射抜くようにまっすぐな日下の視線は嘘をついているように見えない。
「もし、先生が先生じゃなかったら気になることも出会うこともなかったと思います。数学を教えてくれたり、私のドジを叱ってくれたり、私を守ってくれることもなかった。先生が先生だから好きになったんです。同じ立場だからとか関係ありません」
ふわっと見たこともない微笑みを日下がしたかと思うと麻琴に近づいて抱きしめた。
「卒業おめでとうございます」
耳元で囁かれる。
「ありがとう、ございます」
おそるおそる麻琴も抱きしめ返す。
「本当にあなたには色々振り回されました。明日から僕の仕事ももう少し捗りますかね」
麻琴が回していた両腕を離して、日下の胸を思い切り突き飛ばした。
「先生のバカ」
皮肉を返されると思ったら日下は笑ったままだ。
悔しい。
やっぱり好きだ、この人が。
「私、先生のおかげで歴史が好きになりました。ありがとうございました」
「櫻井さん」
そして日下が少し思案するように黙り込んだ。麻琴は何か変なことをいったのかと少し不安になる。
「明日、空いてますか?」
突然の誘いに調子を狂わされる。外で会う約束なんてしたことがないので戸惑ってしどろもどろになる。
「え? あ、空いてます」
「朝11時に迎えに行きます。寝坊しないでくださいね?」
*
「先生、私野球のルールよく知らないですよ」
「ルールを知らなくても楽しめますよ。テレビは試合の内容しか伝えてくれませんが、実際の生の臨場感を味わったらハマると思いますよ」
「今日の先生、テンション高い」
卒業するまでは先生と外で会うことなんてできなかった。
連れて来られた場所は野球球場。
平日のデイゲームとはいえ人気の選手が出場するとあって人が多かった。
先生といればどこでも楽しい。けれどもう少し雰囲気のあるところに行けると思ったのに。麻琴はひとりごちた。
「楽しかった!」
終わってみると最初の憂鬱な気分なんて吹っ飛んでいた。
我を忘れたようにゲームに夢中になる日下を見るのも新鮮で嬉しかった。
「でしょう? また来られるといいですね」
「はい!」
デイゲームを見終わって、天気が良いのに屋内にいるのは勿体なくて近くの散歩ができる広い庭園まで足を伸ばした。
桜は満開の時期を過ぎており、風が吹くたび枝を揺らしてハラハラと花びらが舞う。
「ねぇ、先生。“目にはさやかに見えねども、風の音にぞ驚かれぬる”ってどういう意味ですか?」
「藤原敏行のうたの一部ですね。“秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる”秋が来たとはっきりと見えないけれど、風の音で、はっと気づいたって意味です。でも、なんで突然?」
「こないだ大谷先生が私を見て呟いてました」
「……ああ。なるほど」
「本来のうたの意味とは違いますけどね。……僕だけではわからなくて、櫻井さんを見て気づいたことがあるってとこでしょうね」
「え? 先生、意味分かんない!」
「“さやかに”って意味、あとで調べてみてください。櫻井さんそのものですよ」
日下が立ち止まると、ふいに麻琴の左手を取ってまじまじと眺める。
何事かと麻琴が日下の顔と自分の手を交互に見つめた。
「7号ってとこですか?」
「え?」
「それまで太らないように」
少し考えて意味がわかった麻琴はその場にペタンと座り込んだ。
なんて破壊力。
「やっぱ先生には勝てない」
「僕に勝とうなんて100年早いですよ」
そう言って一呼吸置くと言葉を繋げる。
「実を言うと僕も平気じゃないんですよ。野球を見てテンション上げなければこんなことできません」
麻琴に片手を差し伸べながら眼鏡のブリッジを抑えた。
照れるとするその癖は変わっていない。
「学校で言ってくれたら嬉しかったのに」
そうすればあの場所がもっと特別になったのに。
「だめです。僕が学校に行きづらくなるので」
すぐに否定されて麻琴は不満気だ。
「どうして?」
「……あの場所でプロポーズめいたことを言ったら、これからあなたがいないことに僕が耐えられなくなりますから」
そんな日下をもっといじめたいと思うのは彼の性格が移ってきているせいだろうか。
差し出された日下の手をギュッと掴むと、日下は立ち上がる麻琴がバランスを崩さないように麻琴を支える。
「先生、私からも一つお願いしていい?」
「なんですか?」
「麻琴って呼んでください」
麻琴を見つめてふんわり日下が笑みを浮かべた。
その笑顔に麻琴はドキドキした。
「ほんとにあなたはいつまで経ってもガキですね」
「そんなにすぐに大人になれません」
「そういうところも好きですよ、麻琴」
麻琴の腕を引き寄せた日下からうたが聞こえてきた。
“君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな”
「命が惜しいとは思ってませんが、櫻井さんと出会ってからはできれば長く一緒にいたいと思うようになりました。僕の方があなたより年上で一緒に過ごせる時間は限られていますから」
「じゃあ、面倒だって言わずにちゃんとご飯食べてください。たまにお弁当作ります」
「お箸もちゃんと入れてくださいね」
「なんでそういうことばっかり覚えてるんですか!」
“かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを”
言葉では言い表せないこの気持ち。戸惑って悩んでることも含めて言葉で伝えるのは難しい。だから私のこんな想いを先生はきっと気づいてない。
「何をニヤついてるんですか、麻琴」
「秘密です」
大好きです。先生。
――そんな恋のうたは先生に教わりました。
さやかに密か fin.
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麻琴と日下先生の前日譚
「ガキじゃあるまいし、何ですかコレ」
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