18. 人知れずこそ 思ひそめしか
恋焦がれるというのは麻琴のようなことを言うのだろう。
目の前の思いに迷わず時には後先考えず突進していく。自分の気持ちに純粋であるがゆえに、ダメージを受けたときの代償は大きい。それなのにどんなに辛い状況にあっても、自分よりまず相手のことを考える。
そんな彼女のことを柚月は羨ましいと思う。
そんな彼女だから久瀬が惹かれてしまうのもわかる。
私は――自分のことばかりだ。だから想いも伝わらない。
文化祭が終わってから麻琴の様子がおかしいことに気付いていた。原因は十中八九、日下にあるのだろう。
完璧主義の日下の授業も、心なしか精細を欠いている。
*
つくづくお節介だと思う。
「どうにかしろこのヘボ養護教諭」
麻琴たちへの心配と自分自身のモヤモヤをぶつけてやった。ぶつけられた相手は養護教諭らしく優しく笑って返事をする。
その笑顔は仕事向けなんだ。だから胸が疼く。
大人はどうしようもなくなると上手くごまかす術を身に着けている。それに気付かない子どもはまた騙される。
*
「最近居つくようになったね、保健室に」
「準備室を独り占めするわけにも行かないからですよ」
「あの部屋お前しか使ってないじゃん」
二人に何かあっただろうことは大谷にもわかる。
人間観察が元々好きで、それが高じてこの仕事を選んだといっても過言ではない。高校で出会った友人のおかげで。
常に完璧を求める。故にそれに付属するものを徹底的に極めないと気の済まない面倒な性格。それで損をしていることもあることに気付けばいいのだが。
日下の性格から、本人には言わないことにしている。どうせ面倒くさい御託が返ってくるだけだ。
「面倒くせー友人のせいで、俺も責められて仕事になんないんだよ」
これくらいの八つ当たり許されるだろう。
日下は大谷を責めている人物を聞くと雑に謝った。
その言い方に大谷は苛つく。しかし正常に物事を考えられていない人間に何を言っても無駄な気がして言い方をやわらげて返した。なるべく。
「その委員長と何かありましたか?」
珍しく日下が言い当てた。
大谷が棚から出したマグカップに沸いたお湯をドボドボと注ぐ。
ジャンピングさせなくていいんだ、と気付いたときには遅かった。白衣の真ん中に黒い点々がいくつもついている。
「最近紅茶を淹れなくなったようですしね」
洞察力が文章だけに特化していると油断しているとたまに痛い目を見る。
白衣を脱いで椅子に投げ捨てると、コーヒーの入ったカップを机にトンと2つ置いた。
「紅茶に飽きただけ」
「そうですか」
日下がコーヒーを一口飲んだ。
「意識してオレの話にすり替えようとしてるんだろうけど、気になるなら櫻井ちゃんと話すればいいじゃん」
気に掛けた振りをしながら話題を変えた。
日下はそれに上手く乗り居心地が悪くなったようで、そそくさと保健室を出ていった。
「伝染するもんよ、雰囲気って」
そう、彼女は雰囲気に呑まれただけだ。
*
今日深山は日直で保健室へ来るのが少し遅れるらしい。
いつもならどうでもいい話で度々手が止まり、騒いでくるところに深山がやってくる。
それなのに黙々と進めていたから仕事は捗り、彼が来ても仕事はもうないかもしれない。
元々好きで始めた仕事ではないが、保健委員の仕事はやり甲斐があった。仕事が楽しいと、仲間と話すのも楽しくなってきた。
大谷とも深山とも会いたくないと思う日が来ると思わなかった。
その大谷の姿を今日は後ろ姿しか見ていない。
「先生、書類整理終わりました」
「ありがと。ファイルに綴じていつものところに入れておいてくれる?」
大谷は机に向かいながら指示出しをする。
「はい」
ファイルを棚にしまうと柚月が沈黙に耐えられなくなった。
「お茶淹れましょうか?」
「いいよ。自分で淹れる。今日はもう誰も来ないだろうから帰っていいよ委員長。深山にもそう伝えておいて」
一度も振り向かない大谷。あの日のことを拒否されているのだろう。
「あの、先生」
「なに?」
声の調子はいつもと変わらないのに。
「私この間のこと悪いと思っていません。だから謝りませんから」
大谷の動きが止まった。
「……事故だと思ってるって言ったでしょ」
静かに大谷が答えた。
お決まりの手段でかわされては柚月には為す術がない。
「一応です。じゃ、お疲れ様でした。失礼します」
振り返ることのない背中を見つつ鞄を持って立ち上がる。
「委員長は同調しちゃっただけだよ、オレの思い出話に」
ぽつりと聞こえたそれは聞き捨てならなかった。
「違います」
大谷が初めて振り返った。
「何が?」
冷たいひとこと。大谷の目は笑っていない。
「先生が好きだから、です」
長い沈黙。
いつまでも動こうとしない柚月に大谷が深く息を吐いた。その深い溜め息に柚月はビクッとしたが鞄の持ち手をギュッと握り、耐える。
「委員長は間近でたすたちを見ててどんなに大変で、辛いことか知ってるよね?」
ダルそうに大谷が口を開く。
「はい……」
「それでも?」
大谷が柚月に確かめた。今までに見たことのない冷酷な瞳が柚月を見ていた。
「損得勘定なんて考える暇ありませんでした」
「理論で動く委員長が珍しいね。もっと頭のいいコだと思ってた」
愛想を尽かしたように心底がっかりしたという冷めた大谷の声。
「恋愛に知性が必要ですか?」
「さぁ、オレにもわかんない」
ひと呼吸置いた彼の目は少し愁いを帯びていた。
「でも知性があった方が辛い想いをしなくてすむ」
「そうでしょうか」
ギッと椅子が鳴り、大谷が近づいてくる気配がする。
柚月は一歩二歩と後退あとずさりした。
1メートルほどの間隔まで近付くと大谷が立ち止まった。
「賭けをしようか、オレと」
冷ややかな視線はそのままに、大谷が柚月にそんな話を持ち掛けた。
“恋すちょうわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか”
――バラすつもりなんてなかったのに。最近この気持ちに気づいたばかりで自分もよくわかってないまま。




