第84話 “少しだけ、素直に”
神奈備島の港に、一つの影があった。
ゆらり、ゆらりと不規則に揺れるその影は、一見すると少女のようだった―――だが、その体は極めて異質だった。
髪の毛がなく、左手がなく―――そして、身体に無数の穴が開いている。穴からは血が大量に流れ出ていたが、その血は地面に触れた瞬間に蒸発し、周囲の空気を歪ませていた。
「……あぐぅあ……」
以前は鈴の鳴るような美しい声だったであろうその声は、今となっては意味不明な文字の羅列を棒読みしているようにしか聞こえない。のどに、巨大な穴が開いているからだ。
それでも、少女は喋ろうとする。呟こうとする。自らの目的を確認するために、喋れないはずの口を無理やり開いて。
「……ふひゅう……あぐぐあ……」
「おいおい、あまり無理をするなよ。せっかく外に出てこれたというのに」
少女の呟きに、誰かが答えた。
驚いて少女が顔を上げると―――そこには、男装の少女がいた。自分以上に異質な気配を周囲に放つ、謎の存在。紛れもなく、天照大神だ。
「随分面白い事をされたようだが……安定していないところを見ると、心の輪廻が身体から離れただけか。早く戻らないと、器の輪廻が死ぬぞ?現世の理では、二つ以上の輪廻に縛られなければ存在できなくなってしまうからな」
そんな事はわかっている、と言いたげに少女は天照大神を睨み付けた。
「そうか、知っていたか。ふふふ、賢い子供は嫌いではないぞ。では、何故お前はここにいる?消える事を覚悟してまで、何故ここに来た」
会いたい人がいるから。そう、少女は答えた。いや、答えたつもりだった。
その言葉は言葉にはならない―――当然だ。しかし、天照大神には理解できた。記録を喰うという能力を応用すれば、人の心を読むなど容易いのだ。
「そうか……会いたかったからか。人は馴れ合うのが好きだな。それは愛故にか?」
少女は否定した。だが、その否定は正確ではない。自分でもよくわからないのだ。
「まだ感情を御しきれていないようだな。否定する必要などないだろうに……百代目は、お前のような幼子でも受け入れてくれる男だぞ?たぶん」
少女の瞳が輝く―――が、少女は気づいた。このような姿では、人を怖がらせてしまう。このままでは、あの人に会いになど行けない。
おろおろし始めた少女に、天照大神は不敵に笑いかけた。
「なに、心配するな。私とて、お前の残された時間を無駄に浪費させるために来たわけではない。お膳立てをしてやろう」
瞬間、少女の周囲が光り輝いた。光は、少女の輪郭をなぞるようにきらめき―――少女の異質な姿を、極めて正常な状態へと戻していく。
光が消えた後には、白いワンピースに身を包んだ青い髪の少女が残されていた。
「そら、できた。後は、百代目を呼ぶだけだが……そうだな、メッセンジャーの仕事は私に任せてもらおうか」
そう言うと、天照大神はその身をかき消した。
少女は、そっと目を閉じて祈りを捧げるように胸の前で手を組み、
「……ありがとう、神様」
感謝の気持ちと、期待をのせて―――少女はそう呟いた。
☆ ☆ ☆
「……はぁ」
二橋家の二階、そのベランダで守哉は一人黄昏れていた。
思い出すのは、文江の言葉。栄一郎が、七瀬達の祖父だったという事実。
そして、その七瀬達の祖父を殺したのが、他ならぬ自分だという現実。
複雑な心境で、守哉はもう一度ため息をついた。
「……はぁ」
「何黄昏れてんのよ、守哉」
その声に振り向くと、後ろにいたのは七美であった。風呂上りなのか、頭が僅かに濡れていて首にタオルをかけている。
七美は守哉の隣に来ると、手すりに手をのせて言った。
「今日は驚いたわよ。帰ってきたらあんたがいるんだもん」
「俺も驚いたよ、ここが七美の居候先だったなんてさ」
「まったく……事前に言ってくれたら私が連れてきたのに。とんだサプライズだわ」
「別にそこまで驚きでもないだろ?それに知らなかったんだから仕方ないじゃないか」
「そうだけどさ……やっぱりその、心の準備とかがあるわけだし……」
後の方は聞き取れなかった。守哉は聞き返そうかとも思ったが、やめておく事にする。なんとなく、その方がいいような気がしたからだ。
「ねぇ、守哉。守哉はさ、好きな人、いる?」
「なんだよ、唐突に」
「いいから、教えてよ」
真っ直ぐな視線。七美の瞳から真剣さを感じ取り、守哉は真面目に考える事にした。
好きな人がいるか、と言われれば―――答えは、イエスだ。その中には七瀬や優衣子、それに七美も含まれている。
でも、七美が聞いているのはそういう意味の好きな人じゃないだろう。男として、愛している女性がいるか―――そう、聞いているのだ。
だから守哉は、こう答えた。
「いるよ。好きな人」
その言葉に、七美はほんの少し目を見開いて―――何かを察したのか、寂しそうに微笑んだ。
「そっか。それもそうだよね……いるよね、守哉にも……」
「そういう七美にはいるのかよ、好きな人?」
「……それ、あんたが言う?」
じとー、っと七美に見つめられ、守哉は僅かにたじろぐ。
「な、なんだよ」
「別に。素直になれなかった私も悪いかなーって、そう思っただけ」
「……もしかして、怒ってる?」
「怒ってないわよ。むしろ上機嫌かな」
クスッ、と七美は微笑んだ。今まで見た事のない七美の優しげな笑みに、思わず守哉は顔を逸らした。
「あ、もしかして照れてる?」
「別に照れてねーよ」
「照れてるじゃん。意識してくれてるんだ?」
「だから照れてないって!」
顔を逸らし続ける守哉に、七美は悪戯っぽく笑って寄り添ってくる。
七美から漂うシャンプーの香りと、密着する柔らかな身体の感触に、守哉は赤面した。
「あはは、やっぱり照れてるじゃん。かわいーんだ」
「うっせーな、照れてないって言ってるだろ」
「うそ。隠せてないよ、ばーか」
「うそじゃねぇよ、ばーか」
「守哉のうそつき。顔、真っ赤だよ」
そっと、七美の手が胸に触れる。
その手をどけようとして―――二人の手が、重なる。
「ドキドキしてるね。こうやってると、伝わってくるよ」
「し、仕方ないだろ。お前は、どうなんだよ……」
「私もドキドキしてるよ。何でかな……」
いつの間にか、二人は手を握っていた。
指と指を絡めて、お互いを離さないように。
「……守哉、さっきからずっと照れっぱなしだね」
「だから、照れてないって……」
「だったら、こっち向いてよ」
「別にいいだろ、向かなくても」
「意気地なし」
「酷い言いようだな」
「ホントの事じゃん。違うならこっち向いてよ」
「……わかったよ。向きゃいいんだろ、向きゃ―――」
照れを押し隠し、意を決して七美の方を向く。
瞬間―――柔らかい何かが、唇に押し当てられた。
「ほら、やっぱり。照れてるじゃない」
守哉から離れて悪戯っぽく笑う七美。守哉は、何が起こったのかわからず、ただぽかんと口を開けて突っ立っていた。
「私、もう寝るね。お休み、守哉」
そう言うと、七美はベランダから立ち去った。
「あ、ああ……お休み」
遅れて、守哉は返事をした。頭の中が混乱して、ずっと手を振り続けている。
しばらくして、ようやく気づいた。何が起きたのか―――何をされたのか。
「……あのバカ、冗談キツイぜ……」
七美が何の意図があってあんな事をしたのかわからない。
あんな―――あんな事を。具体的には、キスを。
何で、いきなり―――
「おい、百代目」
突然の声。その声に驚いて、守哉の身体が跳ねた。
振り向くと、いつの間にか神様が手すりに腰をかけていた。膝の上で肘をつき、半眼でこちらを睨み付けている。
「か、かかか神様!何でここに……!」
「お前が一人になるのを待っていたのさ。そしたら、こう……ねぇ?」
「も、もしかして、ずっと見てたのか!?」
「別にー、ずっとじゃないけどー、途中からだけどー。お前らが手を握ってちゅ―してるとこからだけどー」
「のわあああああああああーーー!!!一番肝心なところだけ見てんじゃねー!!」
「いやね?私としても、最初から見てもよかったんだよ。でもさぁ、私ってほら、エッチなビデオ見る時も途中は飛ばして断片的に見るタイプだからさぁー。ビデオ見た事ないけど」
「知ってるの単語だけかよ!つーか何でここにいんだよ!?」
「お前の赤裸々な一瞬を愛のメモリーに刻もうと思って」
「うそつけ!今考えただろ、その言い訳!」
「いや、ホントホント。青春最高。青春キッス最高。見てるこっちも興奮するわ」
「興奮すんな!神様だろお前!」
守哉がつっこむと、神様は仕切りなおすようにこほん、と咳をした。
「……まぁ、それはともかく、本当のところはそうじゃない。いや興奮はしたけど、そうじゃない」
「もう忘れてくれ……。んで、何しに来たんだ?」
「ちょっとな、メッセンジャーの仕事をしに来たのさ。お前に会いたがってるヤツからの伝言がある……まぁ、正確には伝言というか、私が勝手に心を読んだだけなんだけどね」
「俺に会いたいヤツ……。それって、まさか雪穂って人じゃないだろうな」
「違うよバーカ。股間強打して悶えてろアホー」
「………。なんかお前、今日は口悪いな」
「べっっっっっっつにぃー。私はいつもこんな感じだよん」
「……まぁいいけどさ。んで、その俺に会いたいヤツからの伝言ってなんだ?」
「ああ、そうだった。えっと……確か、私はあんまり動けないから、あの人の方から港に来てくれないかなー、だったかな。ちなみにあの人ってのはお前の事ね」
「変な伝言だな……」
「だから私が勝手に心読んだだけだって言っただろう。何聞いてたんだ、このアホ。お前なんか耳掻きで鼓膜破られておうっおうっとか言って悶えてろ」
「………。とにかく、港に行けばいいんだな。今からか?」
「今からだ。他言は許さん、一人で行けよ」
わかってるよ、とだけ答え、脱いでいたパーカーを羽織って一階へ降りる。
仏壇で手を合わせていた文江に適当に言い訳すると、すぐに戻ってくると言って守哉は家の外に出た。