第73話 “救いの契約”
声が。
声が―――聞こえる。
「百代目、お前は面白いヤツだよ、本当に。面白くて面白くて―――私は、お前が愛おしくて仕方がないよ」
それが、神様の声だとわかったのは、その声が聞こえてからたっぷり数秒後の事だった。
守哉は、目を閉じている。何度開こうとしても開く事ができない―――開けてはいけないと、心の奥底で誰かが囁いている。
まだ、見る時ではないと。そう神様が、守哉の心に囁きかけている。
「こんなにも人を好きになったのは、生まれて初めて―――いや、生まれ堕ちて初めてだ。まったく、どうしてくれる?お前は、神様を惚れさせたのだぞ。その責任は重大だと思わないか?」
どこまでも面白そうに、神様は言う。
くすくす、くすくすと、楽しげに笑いながら。
「だから、百代目。私は、お前にする事にしたよ。今までずいぶん考えていた事なのだが―――やはり、お前以外にはありえないな。うん、どう考えてもお前に奪われるのが一番いいと思う。お前に使われるのなら、私は後悔しないよ。―――破瓜の虚途魂を、な」
不意に、神様は笑うのをやめた。
しばらくの間、静寂が訪れる。見られている、と思った。強い、熱い視線を感じると。
「……だが、まだそれには早い。百代目よ、どうか最後まで戦い抜いておくれ。私は、お前以外の者に奪われたくはない。私はお前がいいのだ。お前以外の者に奪われるというのなら、いっそ共に消えてやろう」
そっ、と。頬に柔らかいものが触れた。
それは、ひとしきり守哉の頬を優しく撫でると―――唐突に、消えた。
「そのためならば、お前が望まぬものも与えよう。お前が再び、戦えるようにしてやろう。さぁ、契約しようじゃないか。二人共、最後のお別れを言いたまえ―――」
声が止んだ。
気づけば、目を開けれるようになっている。ゆっくりと目を開けた先には、何もない真っ白な世界が広がっていた。その中心に、自分はだらしなく座り込んでいる。
「ここは……」
「高天原だ、未鏡守哉ぁ」
ぎょっとして振り向くと、そこには鯨田栄一郎がいた。
自分が殺したはずの人間が。生前と変わらぬ姿で、そこにいた。
「ど、どうして……!?お前は、俺が―――!」
「殺したはず、かぁ?ま、そう思うのも仕方ねぇだろうさぁ。どうせ何も知らねぇだけなんだろうし―――いいぜ、少しだけ説明してやらぁ。……ここは、現世でありながら常世の法則で成り立つ世界。天照大神の神力の泉―――高天原。神の力を奪い、己がものにせんと画策したある男が考案し、騙された天照大神が創造した神域だぁ。そして、神奈備島という異界に囚われた魂が、その身を神へと変換する場所でもある」
「ちょ……ちょっと待ってくれ。なんで、そんな場所に俺は……」
「呼ばれたからだよぉ。ここに来れるのは、俺のような荒霊か、和魂―――そして、お前のような、天照大神に気に入られたヤツだけだぁ。あと一つだけ例外はあるがなぁ」
「呼ばれたって、神様にか?なんで?」
「さぁなぁ。ただ、お前は天照大神にとって特別な存在なんだろぉなぁ。かつて、死にもせずに高天原に至った神和ぎは一人もいねぇ。生きてここにたどり着けるヤツは、天照大神に呼ばれて引っ張られたヤツか、百一代目の神和ぎだけだからなぁ」
「……鯨田……お前は一体、どこまで知ってるんだ?い、いや、その前に、俺はお前に謝らなきゃいけない事が―――」
「おっと、待ちなぁ。俺は今、お前のくだらねぇ懺悔なんか聞いてる暇はねぇんだよぉ。なぁ、三毛猫よぉ?」
栄一郎の視線が自らの足元に向けられる。その視線の先には、非常に珍しいオスの三毛猫―――藤丸の姿があった。
「藤丸……!?」
「守哉、悪いが説明している暇はニャいニャ。高天原に来た以上、俺達にはもう時間がニャいのニャ」
「時間って、どういう事だよ?」
「荒霊と和魂には常にある選択肢があるのニャ。それは、高天原へ行くか否か―――つまり、成仏するかしニャいか、という事ニャ」
「成仏って……いなくなっちまうのか!?何で急にそんな事……!」
「今まで話をしニャくてごめんニャ。でも、俺は嫌だったんだニャ。お前が、これ以上戦えニャくニャるのを見るのが。お前が、生きる希望を見失っていくのが……見るに堪えニャかったんだニャ」
きつく、拳を握り締める。
その言葉が意味する事は、つまり。
「……俺を、見捨てるのか」
「違うニャ!勘違いすんニャ、馬鹿守哉!誰がお前ニャんか見捨てるかってんだニャ!」
「意味わかんねぇよ……だったらどういう意味なんだよ」
「それは今から教えてやるニャ。俺と同じで、お前の事を心から心配していた、この男と一緒にニャ」
藤丸と栄一郎の視線が交錯する。二人は無言で頷きあうと、目をつむって呟いた。
『―――契約しよう』
呟きは、白い空間全体へ響き渡る。
『―――神よ。あなたが望む、全ての代償はここに』
守哉はただ、呆然として見つめていた。
『―――この代償に見合う対価を―――我の願いを、叶えたまえ』
瞬間。
守哉は、自らの身体に違和感を覚えた。
「な……」
眼球のない、空洞と化した右目が。膝から先を切り取られ、未だ痛む右足のふとももの断面が―――熱を帯びている。
「何を……したんだ」
呆然とした呟きに答えはない。
ただ、右目とふとももに帯びた熱は、守哉の意志に関係なく、少しずつ形を成していく。
感覚が―――戻ってくる!
「何をしたんだよ、お前ら!?」
しかし同時に、藤丸と栄一郎の身体は光に包まれ、その色は薄くなっていく。
まるで、二人の存在を代償に、守哉の身体を復元しているかのように。
「答えろよ、藤丸!鯨田!」
「焦るなよぉ、未鏡守哉ぁ。俺は……いや、俺達はただ、お前の力になりたいだけなんだからなぁ」
「ふざけんな!そんな事、誰も頼んじゃいねぇよ!大体、そんな事してお前らに何の得があるってんだよ!?」
「何の得もニャいニャ。でも、俺達はお前に救われたのニャ。だから、そのお礼がしたいだけニャんだニャ」
「お礼なんて、そんな!藤丸は俺の事助けてくれたじゃねぇか!鯨田は、むしろ恨まれてもいいような事を、俺はしちまったじゃねぇか……!」
「……それは違うぜぇ。お前は、俺を救ってくれたのさぁ。白馬の……服従の言魂の呪縛からなぁ」
「服従の言魂……!?」
「鯨田栄一郎って名前はよぉ、白馬が俺にかけた縛名なのさぁ。本当の名前は、未鏡宗二朗ってんだ。だから俺は死ぬまで白馬の野郎に逆らえなかった。……野郎の理想に加担して、何人もの人間を見捨てて……その挙句、自分の孫まで犠牲にするところだった。だから、それを止めてくれたお前に、俺は感謝してるんだぜぇ?」
もう、わけがわからなかった。ただ、藤丸と鯨田の身体が光に包まれていくのを、守哉はぽろぽろと涙をこぼしながら見つめていた。
「お、おれは……。俺は……!今まで、ずっと……お前を殺した事を、後悔して……!」
「それこそ余計なお世話ってヤツさぁ。……あのなぁ、所詮罪のあるなしなんて他人が決めるもんなんだぜぇ?殺し合いってもんはなぁ、自然の摂理なんだよ。そう言ってられないのが社会ってもんなのかもしれねぇが、神奈備島じゃ神和ぎが法律みたいなもんだ。そして、今の神和ぎはお前だ。自分で自分を裁くってんなら、それこそ罪ってもんさぁ。なにせ、お前が死ねばお前を慕う連中が悲しむからなぁ」
「そんなの、お前にだって言える事じゃないか!」
「俺はいいんだよぉ。実はなぁ、俺は神奈備島じゃ死んだ事になってんだぁ。色々あってなぁ―――惚れてた女を泣かせてまで、俺は磐座機関に来ちまった。だからよぉ、俺こそ罪人なのさぁ。裁判官が罪人を死刑にして何が悪いってんだよぉ」
「でも、俺は……!」
「俺はお前を恨んでねぇ。むしろ感謝してる。だったら、今お前のやる事は一つだ。黙って俺達のお礼を受け取る事。ただ、そうしてくれさえすりゃあ、俺達は満足なんだよぉ」
二人の姿はほとんど残ってはいない。そして対照的に、守哉の右目と右足はほぼ復元が完了している。
もしや、これが契約なのだろうか。代償を払い、願いを叶えるという―――天照大神の契約なのか。
「神様、やめさせてくれ!俺は、こんな事望んじゃいない!」
「守哉、そんな事したら俺達はお前を恨むニャよ。そんな事、それこそ俺達自身が望んじゃいニャい」
「お前らこそ、何考えてんだよ!?消滅覚悟してまで人助けなんて……!」
「俺達は元々死んだ存在ニャ。今までこうして生きてる方がおかしかったのニャ」
「でも、俺は!俺は、お前と友達になれたじゃないか!」
「そうだニャ。そして、これからも友達だニャ。ずっとずっと、友達だニャ。―――だから、友達の最後の願いくらい、快く叶えさせて欲しいのニャ」
もう、言葉は出てこなかった。
これ以上、何を言っても無駄だという事がわかってしまったから。藤丸が、心から守哉の事を友達だと思ってくれていた事を知ってしまったから。栄一郎が、心から守哉に感謝している事を知ってしまったから。
だから守哉は、二人が消える直前に、涙を拭って微笑んだ。
「あの世で会おうぜぇ、未鏡守哉ぁ。それと―――二度目だが、俺の孫達をよろしくなぁ」
「じゃあニャ、守哉。生まれ変わったら、次はお前のペットにニャりたいニャあ」
その言葉を最後に。
二人は、光に包まれて消えた。
「……ああ」
二人がくれたその足で立ち上がり。顔の右半分を覆っていた包帯を解き、二人がくれた目で二人が消えた場所を見つめて。
「また、逢おうぜ。次は、戦わずにすむ世界で」
にひっ、と、少し気持ち悪い笑顔を浮かべながら。
守哉は、そう言ったのだった。