第71話 “戦慄”
閉じられた校門を前にして、守哉は一人立ち尽くした。
「さすがに開かないよな。どうすっかな、これ……」
手元のノートに目をやる。タイトルにE78―No.3と書かれたそのノートは先日忠幸から預かったものだ。空貴に渡してほしいと頼まれ、かといって直接渡すのは気が引ける。そのため、職員室に置いておこうと思ったのだが……
「包囲結界か。破るのは容易いけど、中には神さびがいるもんな」
そして、七美も。
神さびに取り込まれた七美の事を思うと、胸が張り裂けそうになる。しかし、悔やんでいる暇はない。昨日、七美を取り込んだ神さびは、最初七美を盾にするように戦っていた。何らかの目的で七美を取り込んでいるのだとすれば、人質にするためというのが一番妥当だろう。実際、七美が取り込まれているために自分達は手加減して戦わざるを得なくなった。
魔刃剣が抜ければ、と思う。氷鮫なら、神さびの動きを止める事など容易い。七美を助ける事も容易い……はずだ。強い自信があるわけではないが、そう思う。
(どうして……いや、理由はわかってる。わかってるけど……)
どうしようもなかった。どうすればいいのかもわからなかった。このまま魔刃剣を抜けないままでは、神和ぎの役目も終えられない。修祓は、自分が死ぬまで永遠に続く。
次代の神和ぎは確実に七瀬になるだろう。本当は、七瀬が神和ぎになる前に残り8体の神さびを倒したかった。だが、そのためには自分が神さびにとどめをささなければならない。そして魔刃剣がない今、それは難しい。
「……ここで考えていても仕方ないか。帰ろ」
慣れない松葉杖をつきながら、寮へ戻るために振り向くと。
そこに、赤砂御空貴がいた。
「やあ、未鏡君じゃないかね。奇遇だねぇ、こんなところで会うなんてね」
にっこりと笑う空貴。その姿に、守哉は目を細めて警戒した。
いつの間にいたのか、今までまったく気づかなかった。空貴と自分の間は5mほどだ、気づけない距離ではない。なのにも関わらず、気づけなかった。
「どうしたんだね、難しい顔をして。そんなに僕がここにいてはおかしいかね?僕は教師だよね?」
そうだ、空貴はただの教師だ。何を警戒する必要がある。
しかし、今目の前にいる空貴には異質な何かがある。普段の空貴からは感じられないもの。
「黙りこくって、怖いねぇ。まったく、嫌になるよね。そんなに僕が嫌いかね?」
ピリピリと肌を刺す、この感覚は。
―――殺気だ。
「まぁ、僕も君が嫌いだけどね」
瞬間、空貴の姿が視界から消えた。
咄嗟に飛び退こうとして、松葉杖が滑り尻餅をつく。痛みに顔をしかめた途端、首筋から強烈な電撃が奔り、守哉は気を失った。
☆ ☆ ☆
目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。
綺麗に整頓された部屋。少しずつ回転してきた頭が、ここがどこかを教えてくれる。
ここは、磐境寮。その管理人室だ。
「気がついた?七瀬ちゃん」
正面の椅子にあぐらをかいて、ロボットの顔面が印刷されたコップを片手に優衣子が言った。
ゆっくりと起き上がり、かけられていた毛布を畳む。無意識のうちに寝具を片付ける癖がついてしまっていた。
どうやらソファに寝かされていたようだ。昨夜気を失ってから、今までずっと眠ってしまっていたらしい。
「……そうだ、かみやは!?かみやは助かったの!?」
「そんなに慌てなくても大丈夫よ。守哉ならもうピンピンしてるわ。少し前まであなたの傍にいたのだけれど」
「……じゃあ、今かみやはどこにいるの!?」
「さぁ?ノートを返してくるって言って、松葉杖持ってどこかに行ってしまったわ。私は止めたんだけど、動いていた方が気が紛れるって言うから無理に引き止められなくて」
優衣子は椅子の背もたれに背を預け、テーブルの上に置いてあるバスケットから飴を一つ取り出した。
優衣子は大人だ。守哉があんな目に遭ったというのに、終始冷静に対応していた。自分はみっともなく取り乱すばかりで、しまいには気を失ってしまった。せめて、守哉が起きるまで傍にいてあげたかったのに。自分が情けなくて引きこもりたくなる。
一刻も早く守哉に会いたかった。守哉の顔を見なければ安心できない。守哉が笑いかけてくれなければ、心が折れそうになってしまう。
しかし、今すぐ部屋を飛び出そうとする自分を、姉を気遣う心が戒めていた。
こんなの、フェアじゃない。競うつもりはないけれど、七美の気持ちを思うとどうしても気が引けてしまう。
七美は神さびに取り込まれているというのに、どうして自分だけが守哉に甘えられるというのだ―――
「どうしたの?顔色悪いわよ」
優衣子の自分を気遣う声に、七瀬は我に返った。
心配そうな顔をして、優衣子はこちらを見つめている。そんなに自分は暗い顔をしていたのだろうか。
「……なんでもないです。気にしないで……ください」
「気にしないわけにはいかないわ。何か悩み事でもあるの?」
「………」
「そうなのね。よかったら、聞かせてくれないかしら?」
「……べつに、なにも……」
「うそ。だって、今すぐ守哉のところにすっ飛んでいかない七瀬ちゃんなんて、よっぽど何か気にしてるとしか思えないもの」
そう言って優しく微笑む優衣子は、まるで母のようだった。
優しかったお母さん。今までずっと忘れていたけれど、何故か最近うっすらと思い出してきた。毎日のように泥だらけで帰ってきた自分を、お母さんはいつも優しく微笑んでくれたっけ―――
「……っ!!」
母の顔が脳裏をかすめた瞬間、強く胸が痛んだ。そこから先を思い出してはいけないと、心のどこかが叫んでいる。失われた記憶は、とても辛い記憶だと教えている。
胸を押さえてうずくまる。突然うずくまった七瀬を見て、血相変えて優衣子が近寄ってきた。
「どうしたの、本当に大丈夫?」
「……だいじょうぶ、です。心配おかけしました……」
辛うじて返事はできた。胸の痛みも、気を紛らわせば少しずつ引いてくれる。
思い出せない記憶は3年前のもの。そこから前の事は少しずつ思い出せている。3年前のある時期の記憶だけが、ぽっかりと抜け落ちてしまっている。
守哉に会いたくてたまらなかった。守哉が傍にいてくれたら―――いや、守哉の傍にいられたら、とても心が強くなれる。最近は時々ヘンな気持ちにもなるけれど、それも不快な気持ちではない。むしろ、それはとても気持ちの良い事だ。いつか守哉としたいと願う、その気持ち。純粋な愛情からくる、抱きしめてほしいという気持ち―――
唐突に、甲高い音が部屋中に鳴り響いた。驚いて顔を上げると、優衣子が立ち上がって部屋の隅に向かうのが見える。どうやら、この音は部屋に備え付けられた電話によるものらしい。
電話の主と優衣子の会話がうっすらと聞こえてきた。
「何よババア」
『そこに七瀬がおるじゃろう。代われ』
「嫌よ。じゃあ、切るわね」
『待たんか!まだこちらの用件は済んでおらんのじゃぞ!』
「私の知ったこっちゃないわ。ていうか、私あなたの声なんてあんまり聞きたくないの。それが命令となると尚更ね」
『命令も何も、わしは孫と会話がしたいだけじゃ。わしも好きでお主なんぞに電話をかけておるのではない』
「あらそう。じゃ、切っていいわよね、クソババア」
『ええい、じゃから待たんか!……いや、もういいわい。仕方ない、こちらから出向いてくれるわ』
「やめてくれない?私、動くウンコなんて見たくないわ」
『誰が動くウンコじゃ!とにかく、今すぐそちらに行くからの!待っておれ!』
電話が切れる前に優衣子は受話器を置いた。どうやら、電話してきたのはトヨだったらしい。
「七瀬ちゃん、動く汚物がこっちに向かうそうよ。ファブ○ーズ用意しとかなきゃね」
「……おぶつって……?」
「デジ○ンで言うとスカ○ンよ。必殺技はウンチパラダイス。回転しながらクソを振りまくの」
「……ゆいこさん、お下品……」
そうやってしばらく談笑していると、部屋の扉が乱暴にノックされた。恐らく、トヨが来たのだろう。
「無視していいわよ」
立ち上がりかけた七瀬を制し、優衣子はそ知らぬ顔でコップに口をつける。
しばらくして誰も出ない事に業を煮やしたのか、勢いよく扉が外側から開け放たれた。
「七瀬、やはりここにおったか。さぁ、帰るぞい」
そう言って現れたのは、やはりトヨだった。小脇に何かを包んだ風呂敷を抱え、いつも通りの険しい顔でこちらを睨んでくる。
「うわ、本当に来た。キモッ!ウンコキモッ!」
「お主は黙っておれ!わしは七瀬にしか用はない!」
「喋るウンコほど汚いものはないわね。ああちょっとちょっと臭いが残るから入ってこないでよ!」
「ええいうるさい!もういい、ここでやらせてもらうわい!」
トヨはテーブルの上に風呂敷を広げた。その中身は、デフォルメ猫が描かれたシートと―――輪堂潜御。
「もう遭う魔ヶ時じゃ。日曜日じゃし、神さびが来る確立は低いが、一応しておかねばな」
はっとして壁にかけられた時計を見ると、もうすぐ夕方6時になろうとしていた。
日曜日は週の始まりだ。昨日神さびが来たばかりで、その神さびが今も日諸木学園にいる以上、新たに神さびが来る確立は低い。
ただし、この確立に根拠はない。あるとすれば、それは今までがそうだったからだ。神さびが来た翌日に神さびが来た事は、今までない。
「あまり時間がないからの。すぐに始めるんじゃ」
七瀬はこくりとうなずくと、一度優衣子の方を見た。優衣子は肩をすくめると、再びコップに口をつけた。どうやら、ここで呪法・開闢知法を行っても問題はないらしい。
シートを広げ、その中心に輪堂潜御を持って正座する。目を閉じて、輪堂潜御に精神を集中し―――呟く。
「……開闢知法」
呪法が発動する。傍目からはわからないが、発動した七瀬の脳裏には神奈備島沖合いにある巨大な鳥居が映っている。そして、その中心にある開闢門も、くっきりと。
「久しぶりだわ、これ見るの。相変わらず修行僧みたいね」
「黙っておれ、気が散るじゃろ」
「してるのあんたじゃないでしょ。犬のウンコは黙ってなさいよ」
「誰が犬のウンコじゃ!具体的にするでない―――いや、そもそもわしはウンコじゃないわい!」
「うっさいわね。だったら何のウンコがいいのよ。猫?鳩?像?見た目的にはマントヒヒがお勧めね」
「何のではなく、ウンコ扱いするのをやめいと言っておるのじゃ!下品な女め、ここで殺されたいか!」
「あーあ、喋るウンコって面倒くさいわねー。あとウンコ臭いわねー」
「くっ……!こ、この、黙って聞いておれば調子に乗りよって……!」
トヨの怒りが爆発する寸前、七瀬は目を開いた。
「……開いた。来る」
その言葉に。
この部屋にいる誰もが―――戦慄した。