第62話 “力になりたくて”
目の前に、大きな岩がある。
直径約30cmほどの岩だ。白い砂利が広がる神代家の庭園の中で、その岩は一際異彩を放っている。それもそのはず、この岩はトヨが庭の隅から持ってきたものなのだ。
そして、今度はその岩を自分が元の場所へ戻さなければならない。それが、本日の訓練内容だった。
(上がれ……)
目の前の岩が持ち上がるイメージを脳内に描く。強く、強くイメージし―――そして、発声する。
「―――上がれっ!」
身体の内側から湧き出てくる見えない力が形となり、思い描いたイメージを言魂に変換する。
しかし、現実はイメージ通りにはいかなかった。
「うっ……!」
僅かに岩が浮いた瞬間、強い頭痛が襲った。集中力が乱れ、岩は地面へと落下する。
「また失敗しおったか」
後ろから、呆れたようなトヨの声が聞こえてきた。縁側に座っていたトヨは、立ち上がってこちらに近づくと頭を軽く小突いた。
「痛っ……何するんだ」
「たわけが。一体いつになったら成功するんじゃ。もう4日以上は続けておるというのに」
「そんな事言われても、難しいから仕方ないじゃないか。それに、発動するようになっただけまだマシだろ」
「馬鹿者、発動してこの結果では発動したとは言わん。まさかお主、遊び気分でやっておるのではなかろうな」
「そ、そんな事ないって!俺は真剣にやってるよ」
「ならばよいがのぅ。次失敗したら、何かペナルティをつけるからの、覚悟してやれよ」
そう言うと、トヨは再び縁側に戻った。どうやら何のアドバイスもしてくれないらしい。トヨに怒られた少年―――忠幸は、小さくため息をついて再び集中した。
訓練が始まって4日が過ぎた。最初は神力のコントロールをするために始めたこの訓練だが、それができるようになってからは言魂の訓練をする事になってしまった。強引なトヨのせいで、今日は学校を早退してまで訓練をさせられている。午後の授業は得意科目ばかりだったので、あまり休みたくなかったのだが仕方が無い。断るとうるさいのだ、トヨは。
守哉はどうしているだろうか。自分の存在がいじめっ子を抑制している事はわかっている。自分がいなくなれば、いじめっ子―――恐らく高槻慎吾―――が、守哉をいじめるかもしれない。もしそうなれば、守哉は言魂で報復するだろう。自分の立場が悪くなる事などお構いなしに。
(早く戻れるようにならなきゃな、学校に。自分のためにも、守哉のためにも)
雑念を振り払い、忠幸は集中力を高めた。再び岩を持ち上げるイメージを構成し、言魂に変換する。
(守哉のために―――)
言魂を発動する直前、強く想った。そしてその想いは、言魂を強くする要因となる。
「―――上がれっ!」
再び目の前の岩が持ち上がる。今度は30cmほど浮いた。
「や、やった……!」
「ようやく発動したか。まぁ、最初はこんなもんかのう」
「も、もういいか?下ろしても」
「よかろう。まだこのくらいが限界じゃろうしな」
トヨの許可を得て、忠幸は集中力を途切れさせた。途端に言魂の効力を失い、岩が砂利の上に落ちる。
軽くため息をつき、忠幸は額の汗をぬぐった。
「ふぅ……。なぁ、もうしんどいよ。帰ってもいいか?」
「何を言っとる。まだ始まったばかりじゃろうが」
「始まったばかりって……もう3時間以上経ってるじゃないか。いい加減疲れたよ」
「情けないヤツじゃのう。まぁ、多少は進歩したようじゃし……仕方ない、今日はこのくらいにしておいてやるわい」
「やったぜ!んじゃ帰ろ」
すたすたと荷物を置いた客室へと向かう忠幸を、トヨは神妙な顔で呼び止めた。
「待てい」
「待たないよ。もう帰っていいんだろ?」
「構わぬが、少し待てと言っておる。ちょいと話がしたい」
縁側に座り、靴を脱ぎながら忠幸は答えた。
「話って何だよ」
「お主の進歩は認めるがのう、将来的にはどうするつもりか聞いておきたい」
「将来的にって……どういう意味だよ」
「言魂を使えるようになったとして、お主はその力をどう使うかが知りたいのじゃ。母親が神和ぎじゃったお前ならわかるじゃろうが、神和ぎには責任と使命が伴う。じゃが、お主は神和ぎではない。責任もなく、使命もない……どうするかはお主の自由じゃ。その上で、これからどうする気なんじゃ」
「それは……」
何も考えていなかったと言えば嘘になる。最初に守哉と同じ力を使えると知った時、自分は内心喜んでいた。何故なら、この力があれば守哉の隣に立ち、戦えると思ったからだ。
もちろん、神さびがどれほど強大な存在か知らないわけではない。以前、母親の仕事がどんなものか知りたくて、天津罪の掟を破って修祓を見に行った事があるのだ。神さびの姿こそ見る事はできなかったものの、その強大で異質な気配を感じて、当時の自分は恐怖のあまり泣き出してしまった。そのせいで自分が逢う魔ヶ時に外へ出ていた事がばれ、後でかなり怒られてしまったものだったが、今となってはいい経験になったと思っている。
だからこそ、こう答える事ができるのだ。
「……俺は、守哉を手伝いたい。守哉の修祓を少しでも楽にしてあげたいんだ」
「正気か」
「正気さ。というか、他に使い道なんてないだろ、こんな力。まぁ、逢う魔ヶ時の恩恵を受けられない俺ができる事なんて、相当限られているとは思うけど……」
自分がなってしまった拠り代という存在は、自力で神力を生産できる代わりに逢う魔ヶ時の恩恵を一切受けられないらしい。更に、一生島の外に出られないのだという。といっても、今まで一般人だった自分にとってはあまり関係のない話ではあったが。
トヨは忠幸の言葉にしばし考え事をした後、小さくうなずいて言った。
「……うむ、お主の言いたい事はわかった。しかし、このままではあの小僧の助けになどならぬぞ」
「何でだよ。確かに俺の言魂は貧弱かもしれないけど、いつかは……」
「それでは遅いじゃろ。あやつで神和ぎは既に百代目、倒された神さびは800……最早時間は残されておらんのじゃぞ」
「!あと8体だけじゃないか!?な、何でそんな事わかるんだ?」
「この前百代目から聞いたんじゃ。百代目は天照大神から聞いたと言っておったし、百代目を信じるわけではないが……嘘とも思えんしのう」
「そんな……じゃあ、下手をしたら、今週も数えてあと8週間しかないじゃないか」
「そして、お主が言魂を使いこなす頃にはもう全て終わっておるじゃろうて」
忠幸は愕然とした。守哉の力になれないのなら、こんな力があっても仕方がないではないか。
「ど、どうすればいんだ、俺は!?」
「どうもこうも、お主のやるべき事は一つ、言魂の訓練しかあるまいて。今のままで不満じゃと言うのなら、もっと訓練に励む事じゃな」
「それじゃ遅いから焦ってるんだよ!なぁ、なんかないのか?すぐに強くなれるような方法は!」
「たわけ―――と、言いたいところじゃが……」
トヨは少し悩むように目を閉じた後、真顔で忠幸を見上げ、言った。
「もし、あると言えばどうするかの?すぐに強くなれるような方法が」
「あるのか!?だったら教えてくれ、どうすればいいんだ!?」
「そのためには、神奈裸備島へ行く必要があるが……それでもか?」
神奈裸備島。先週、そこで起きた事を思い出し、忠幸は一瞬尻込みした。
しかし、忠幸は迷いを振り払うように頭を振った後、真顔でトヨの顔を見た。
「ああ。行ってやるさ、強くなるためならどこへだって」
決意を込めて、答える。守哉の力になりたいという想いが、忠幸の心の中に溢れていた。
「そうか。では、後日内容を伝えるとしよう。今日は帰って身体を休めておくがよい」
「別に、今すぐ行っても問題ないぜ?」
「たわけ、こっちにもそれなりの準備というものがあるんじゃ。とにかく今日は帰るがよい」
そう言うと、トヨはさっさと家の中に入っていった。
残された忠幸は、強く両手を握り締め、
「……守哉、待ってろよ。俺、お前のために強くなるからな!」
自らの決意を改めて確認するように、そう呟いた。
神奈裸備島へ行く事。それが何を意味しているのか、その時の忠幸にはまだ、知るよしも無かった。
☆ ☆ ☆
廊下の電話に向かったトヨは、8桁の番号を押した。すぐに目的の場所へと繋がり、自然とトヨの表情が強張る。
『何だ』
相変わらずの淡々とした声。感情というものが一切伺えないその声の主は、未鏡白馬のものである。
「お主の希望通り、例の小僧をそちらへ送る事にしたわい。本人も承諾済みじゃ」
『本当に理解しているのだろうな?また逃げ出されたら、今度はあんたの責任になるが』
「それはないじゃろう。あの小僧は、どうも百代目に執着しておるようでな」
『あれは顔だけはいいからな。知らぬ内に篭絡されたか』
「それはわからん。服従の言魂を使ったのかもしれぬが、百代目は服従の言魂を使わぬと言っておったからそれもないじゃろうしのう」
『信じているのか?その言葉を』
「まさか。ただ、平気で嘘をつくような人間が、言魂の天才であるわけがあるまいて」
『だろうな。所詮はただの子供か』
「その子供が百代目になったのは、お主のせいではあるまいな?」
『まだ恨んでいるのか。恨む相手が違うのではないか?』
「小僧を送り込んだのはお主じゃろう。余計な事をしおって」
『余計ではない。必要だからしたまでだ』
その必要な事で、何人もの人間が現世から姿を消した事を、トヨは知っている。
神奈備島沖の開闢門。あれは、現世と常世を繋ぐ門。それは、神奈備島もまた、異質な世界である事を意味する。
そして、門の案内人であった人間も失われた。今となっては、島と外を行き来できるのは白馬だけ。
「必要とは言うが、もう鯨田はおらん。これからどうする気じゃ」
『知れた事。その小僧を案内人に仕立て上げるまでだ』
「そのための人材か。なるほどのう」
『もちろん、それだけではないがな。とにかく、あんたはさっさと旧神奈備島古事録を見つける事だ』
「言われんでもわかっておる」
そう言うと、トヨは通話を切った。
「……ふん、いけ好かん男じゃ。所詮はただの復讐鬼か」
呟き、その場を後にする。
その少し後、忠幸が神代家の玄関から出て行く音がした。