第24話 “神和ぎの資格”
その日は、豪雨だった事を覚えている。
降りしきる雨の中、日諸木学園の校庭を駆け回った。異形と化した、夫を殺すために。
ズタズタに引き裂かれたウェディングドレスを翻し、手にした槍で何度も何度も貫き、切り裂いた。
涙と雨で顔はぐしゃぐしゃで、血だらけの身体を引きずって、痛みに顔を歪ませる夫を殺すために、ただひたすらに槍を振るった。
でも、最後の最後で躊躇してしまった。覚悟はしていたはずなのに、この手で殺すと決めたはずなのに、悲しげな夫の顔を直視して、突きたてようと振りかぶった槍を止めてしまった。
結婚式の最中に、式場を出て行く夫が最期に言った言葉を思い出した。死んだら、幽霊になって会いに来ると。夫はそう言った。
しかし、夫は幽霊にさえなれなかった。それが異形の力を持った者の宿命なのだ。
異形と化したとしても、その男は夫―――人生の伴侶だ。誰もが自分を蔑む仲、ただ一人優しい声をかけてくれた、島一番のお人好し。最初はむこうが勝手に好きだ好きだと言っていただけだったけれど、いつの間にか自分も彼に惹かれていた。
頭の中をよぎる思い出の数々が、瞳に溜まった涙を溢れさせていく。槍を持つ手が震えた。本当に、殺して良いのかと。
そうやって迷っているうちに、夫は死んでしまった。私の手ではない、別の誰かの手で。
夫を殺したヤツがその時に言った言葉を、今でも覚えている。
「女を捨てられないお前に、その神さびは殺せまい」
だから、代わりに殺してやったというのか。私の夫を。この島で、ただ一人私を愛していると言ってくれた男を。この島で最も慕われているお前が、この島で最も嫌われている私の唯一の幸せを奪うのか。
そう思うと、心の暗い闇の部分から湧き出る憎しみを止められなかった。今すぐこの女を殺したい。手にした槍で肉を引き裂いて、その頭から脳みそを引きずりだしてこいつの家族に見せつけてやりたい。
そして、私は駆け出した。今しがた殺された夫の仇を討つために。
仇に向かって槍を振り上げた瞬間、優衣子は目を覚ました。
☆ ☆ ☆
月がかわった。今日から7月である。
朝、磐境寮のテーブルで守哉はその事に気づいた。切欠は特にない。唐突に気づいたのだ。
この島にも夏がやってくる。だからと言ってどう変わるわけでもないだろうが、とりあえずもう少ししたらセミが鳴き始めるんだろうなあと、守哉はぼんやりと思った。
「夏だなぁ」
ぼんやりとしていたら、無意識のうちに口に出してしまった。どうも最近気が緩みがちだ。忠幸のおかげで学校でいじめられる事がなくなったせいだろうか。
「そうね」
不機嫌そうな声で守哉の向かい側に座った優衣子が答えた。なにやらご機嫌ななめのようである。朝っぱらから何かあったのだろうか。他に話す事もないので、聞いてみる事にした。
「機嫌悪そうだな」
「まぁね」
「何かあったのか?」
「別に。嫌な夢見ちゃっただけよ」
目の前に置かれたカップラーメンにも手をつけず、優衣子はテーブルに突っ伏したまま答えた。どうもよっぽど悪い夢だったらしい。
「そんなに悪い夢だったのか?」
「そうよ。そんなに悪い夢だったのよ」
「どんな夢だったんだ?」
「あなたが出てきたのよ。もう最悪。気分悪いにもほどがあるわ」
「どういう意味だよ、おい」
普通に傷ついた守哉だった。
「冗談よ。それより、早く学校行きなさいな。あの子もう来てるみたいよ」
そう言うと、優衣子はのっそりと身体を起こしてカップラーメンを食べ始めた。守哉はぽりぽりと頭をかきながら空になったカップラーメンをゴミ箱に捨てると、自室に戻って手早く準備をすませ、寮を出た。すると、そこには見慣れた少女の姿があった。水色で癖っ毛のあるツインテールに、清楚な白いワンピース。神代七瀬である。
「……かみや」
守哉を見てぱぁっ、と顔を輝かせた七瀬は、小走りで駆け寄ってきた。飼い主を見つけたチワワみたいだ、と守哉は思った。理由は七瀬の髪型がチワワっぽいから。
「……はい、お弁当」
そう言って、七瀬は水色の包みに包まれた弁当を差し出してきた。礼を言って受け取ると、二人は並んで歩き出した。少し早い時間のためか、周囲に人はいない。
前回の神さび戦から3日が経った。既にトヨの傷は回復したらしく、訓練が再開している。
あの日から守哉の周りにいくつか変化が起こった。その一つが七瀬の態度である。神さび戦の翌日、つまり2日前に突然告白されて以来、七瀬は守哉によく甘えてくるようになったのだ。おまけに、弁当がないので昼飯はいつも抜いている事を教えたら、次の日には弁当を作ってきてくれた。優しい子だなぁと思う反面、なぜ突然こんなに優しくしてくれるようになったのかが気にかかる。他人から蔑まれるのが当たり前、というなんとも悲しい人生を送ってきた守哉は、他人に好意を寄せられる事に慣れていないのだ。
どうしても疑ってしまう。相手の気持ちを。
「なぁ、ホントのところどうなんだ?」
「……何が?」
きょとん、とした顔で首をかしげて七瀬は答えた。いちいち可愛らしいその仕草に、気が緩みそうになるのを堪えて守哉は質問する。
「誰かに言われて俺の事を、その……」
「……違うよ。わたしはわたしの意思でかみやの事を好きになったの」
そう言って、照れくさそうに七瀬は笑った。その笑みには後ろめたいものは何も感じられない。
それほど自分は好かれているのかと思うと心が暖かくなる守哉だったが、心の奥底ではどうしても相手の気持ちを疑ってしまう。
守哉は七瀬の顔をじーーーーっ、と見ながら言った。
「ホントか?」
「……ホントだよ?」
七瀬は笑っている。頬をほんのりと赤くして、守哉の顔を真っ直ぐに見つめて笑っている。その言葉は嘘とは思えない。というか、そもそも七瀬は平気で嘘をつくような子ではない。たぶん。
しかし、七瀬の気持ちが本物だとすれば、守哉にはこの子の気持ちに応えなければならない義務が生じてくる。いや、正確には答えなければならない、か。ようするに守哉側の気持ちである。今まで七瀬は一度も守哉の気持ちを聞いてはこなかったが、本当は聞きたくてしょうがないんじゃなかろうか。
自分の気持ち。自分は七瀬の事が好きなのだろうか?
「ウーン……」
腕を組んで考えてみる。神代七瀬。この島で数少ない、自分に優しくしてくれる少女。髪型は癖っ毛のある水色のツインテール。着ている服はいつも純白のワンピース。顔立ちは幼く、たれ目でよく見たらいつも口がほんのちょこっと開いている。気性はおとなしく、いつもワンテンポずれて返事をする。趣味は呪法に使う道具作りと家事全般。人に説明するのが好きで、解説を始めると止まらない。
まぁそんなわけで、七瀬はなかなか可愛らしい女の子である。島の外なら普通にモテるだろう。
「……どうしたの?」
急に守哉が黙り込んで考え事を始めたので、七瀬は少し不安になったようだ。心配そうに守哉の顔を覗き込んでくる。もうその仕草だけで守哉は昇天しそうだった。この子の小動物的な仕草は守哉の脳天を激しく刺激するのである。もう今にも抱きしめたくなる。キスしたくなる。いや、それはこの前されたんだけど。
混乱して守哉は頭を押さえた。頭痛がする。七瀬が可愛すぎて頭痛がする。
「……かみや、大丈夫?」
七瀬はより一層心配そうな顔になってそう言った。ヤバい、と守哉は思った。何か答えなければ、本当に魂が昇天する。慌てて守哉は答えた。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
慌てすぎて小島よ〇おみたいになってしまった。これは恥ずかしい。何が恥ずかしいかって、面白くないところがである。しかし七瀬はそれでほっとしたのか、にこりと微笑んだ。
「……よかった。でも、何かあったらすぐに言ってね?わたし、かみやのためならなんでもするから」
ホントにもーーーっっ!!!と守哉は心の中で叫んだ。なんでもするから。なんでも。なんでもですよ!?そんな事言われたら、もう妄想が止まらなくなるではないか。男の子が可愛い女の子にそんなこと言われたら、野獣に進化するぞ。いや退化か?まぁいいけど。
だんだん守哉のキャラが崩壊し始めた頃、ようやく二人は日諸木学園に到着した。正確には第一校舎の昇降口に。
「……ここでお別れだね」
「そうだな。まぁ、どうせ放課後に会うけど」
不意に、七瀬は守哉の肩に両手を添えると、背伸びをして守哉の頬にキスをした。守哉の身体が固まる。七瀬は素早く身体を離すと、顔を真っ赤にして言った。
「……じゃあ、またね。お弁当の箱は訓練の時に返してくれればいいから」
茫然と突っ立っている守哉を残して七瀬は駆け出していった。その背を見つめて、守哉はぼそりと呟いた。
「……俺、この島に骨を埋めようかなぁ」
だらしなくにやつきながら呟くその姿は、まんま不審者のそれだった。
☆ ☆ ☆
昼時。
トヨは、自室にこもって座禅を組んでいた。精神を集中し、雑念を振り払う。五感が研ぎ澄まされ、暗い自室の空間を完全に掌握する。今ならこの部屋で起きる全ての事象を意のままに操れる気がした。
不意に、トヨは閉じていた両目を開いた。突然自分の背後に異質な気配が出現したからだ。
「……天照大神か」
トヨが呟くと同時にそれは顕現した。この島に眠る唯一神。この島で起きる、全ての事象の根源。神力の源―――天照大神。
「やあ、ご機嫌いかがかな?今日はとても良い天気のようだ。こんな暗くてじめじめした部屋に閉じこもっていないで散歩にでも出かけたらどうだい?」
歌手のように両手を広げながら神様は言う。トヨは仏頂面で神様の方に振り向いた。
「わしへの罰はどうなった。わしは何を失った」
「何の話だ?よくわからないな」
「とぼけるな。継承の儀を早めるための条件を、七瀬は満たせなかった。わしはその罰を受ける必要があるのじゃろう」
「そんな約束をした覚えはないな」
神様は障子を開け放った。それまで薄暗かった空間に日差しが差し込む。
「お前がペナルティーを負うとしたら、それは継承の儀を行った場合の話だ。お前は継承の儀を行うための条件を満たせなかった。だからお前はペナルティーを負う必要はない」
「ずいぶんと甘いのだな」
「別に、甘くした覚えはないさ。ただ、お前がペナルティーを負う条件を満たさなかっただけだ。それとも、お前はペナルティーを負いたかったのか?」
トヨは押し黙った。しばらく目を瞑ると、不意に顔を上げて言った。
「つまり、わしの計画は全て水泡に帰したというわけか」
「そうでもないぞ。お前の孫は確かに継承の儀を早める条件を満たせなかったが、代わりに神和ぎになるための条件を満たしている」
「なんじゃと?」
「よかったな。全て百代目のおかげだぞ。お前の孫が死なずにすんだのも、神和ぎになるための資格を得たのも」
トヨはいぶかしむように神様を見つめた。
「どういう事じゃ。神和ぎになるための条件とはなんなのじゃ」
「なんだ、お前ともあろう者が知らなかったのか。これは意外だなぁ」
「真面目に答えろ」
「ヤダね。私はふざける。そういう性格なのだから仕方がない」
そう言うと、神様は両手を広げて独楽のように回りだした。くるくると回って踊っていると、小指が障子にぶつかった。あだっ、と間抜けな悲鳴を上げて神様はうずくまる。
「痛た……こりゃ痛い。不便だなぁ人間の身体は……」
「だったら人の身体を真似するのをやめればよかろうが」
「私はこの身体を気に入っているのだ。やめてたまるか」
ふー、ふー、とぶつけた小指に息を吹きかけながら神様は言った。トヨは呆れて神様を見つめながらため息をつく。
「……それで、神和ぎになるための条件とやらはなんなのじゃ。はよぅ教えんか」
「そうだなぁ……まぁ、今更お前が知ったところでどうなるというわけでもないが、ヒントだけは教えてやろう」
「ヒントじゃと?」
「そう。ヒントは、お前の孫。最近、お前の孫に変化があっただろう?」
「……まぁ、の」
トヨはしかめっ面で七瀬の事を思い出した。前回の神さび戦以来、七瀬に大きく変化があった事はトヨもよく知っている。以前よりも自分の意思をはっきりと伝えてくるようになったのだ。七美にトヨの看病のためという名目でこの家の出入りの許可を与えたのも、七瀬に説得されたからだった。それに、七瀬は最近よく守哉の話をするようになった。以前まではたまに食卓で守哉の話題が出る程度だったが、最近は毎日のように守哉の話をする。その度にトヨはしかめっ面をしていたのだが、七瀬は気にせずに話を続けていた。まるで、恋する乙女のように。
というか、まさしくそうなんだろう。
「まさか、恋心が神和ぎになるための条件なのではあるまいな」
「まぁ間違ってはいないが、必ずしもそうである必要はない。頭の固いお前には教えられなければ一生わからんだろうがな」
「なんじゃと?」
「というか、お前恋愛した事あるのか?」
そう言われて、トヨは押し黙った。実を言うと、今まで恋愛にうつつを抜かした事などない。ないはず。いや、あったかもしれない。もしかしたら。
「……恋愛など、この島を守るためには必要ないじゃろう」
「お前はな。だが、お前の孫は違った。お前の孫は、百代目に恋する事で神和ぎとなるための条件を満たしたのさ。少々いきすぎのような気もするがな」
「いきすぎ……。あの子はどれだけ醜態を晒しとるのじゃ。仕方ない、あの子にはその辺の事について厳しく言っておかねば―――」
「やめておけ。そんな事をしても今のあの娘には通用しないぞ」
「あの子がわしの命令を無視するというのか?ありえんな」
「それがありえるのだよ。あの子にかけられた言魂は解けつつあるのだから」
「なんじゃと!?」
トヨは驚愕した。七瀬にかけられた言魂―――それは、限定的な服従の言魂なのである。トヨが罰を受けてまでかけたその言魂によって、七瀬は3年前の事件の真相を忘れている。そして、トヨの命令に絶対服従するようになっているのだ。もし言魂が解ければ、七瀬は3年前の事件の真相、即ち両親の死を思い出し、下手をすれば精神崩壊を起こす可能性もある。なにより、自分の命令に従わなくなってしまう。
それだけは避けねばならなかった。七瀬を失う事だけは。
「わしは罰を受けてまで服従の言魂をあの子にかけた。なのに、それが解けてはわしが受けた罰はどうなるのじゃ」
「どうにもならんよ。支払った対価は戻ってこない。当たり前だ」
「それでは契約違反ではないか!永続的に言魂の影響が残るというからあそこまでしたというのに!」
「仕方ないだろう。あの子が恋心を抱いた……正確には心の奥底にあった百代目への恋心に気づいた事により、あの子の持つ精神力が倍増したのだ。確かにあの娘にかけられた服従の言魂は強力だが、それ以上にあの子の精神力は強力だ。もうあの娘を縛る事はできん。縛れるとすれば、それは百代目の存在だけだ」
「もう一度、服従の言魂をかけられんのか」
「言っただろう、あの娘は縛れないと。第一、私も賛成できんな。服従の言魂を使えるのは神和ぎだけであればいい。何人も使えたら、それは神和ぎの存在を脅かす事に繋がるのだから」
「ふん。つまり、百代目さえいなければこんな事にはならなかったという事じゃろう」
「おいおい、ずいぶんな言い草だな。前にも言ったが、百代目は私のお気に入りなんだ。あまりあの小僧を悪く言うのはやめてくれないか?虫唾が走るんだよ」
瞬間、神様の異質な気配が膨れ上がった。狭い部屋の中を埋め尽くすほどの存在の圧力に、トヨの額を冷や汗が流れる。
妙な後ろ盾をつけたものだ、とトヨは呟いた。
「……ふん、まぁいい。七瀬が神和ぎになるための資格を得たというのなら、ノルマを達成するまで百代目を守ればいい事じゃ」
「そうそう。それでいいんだよ。ようやく理解したか、この石頭め」
そう言うと、神様は姿を消してしまった。異質な気配が消え去り、トヨは安堵の息を漏らした。
「……不本意じゃが、あの小僧が生き残るためには魔刃剣の使い方を教えるしかあるまいて」
トヨは仏頂面でそう呟くと、腰に手を当てて立ち上がった。