第12話 “暗闇の中で”
「……かみや、来なかったね」
窓から夜空を見上げながら、寂しそうな顔で七瀬は呟いた。その手にはおたまが握られている。
ここは神代家の台所である。神代家の人間は、本来なら皆ここで食事をとる。神代家の家事は全て七瀬の仕事であった。
時刻は7時30分。日は既に暮れていた。
「ふん。大方、昨日の失態で自分は神和ぎに相応しくないという事にようやく気づいたんじゃろうて」
不機嫌そうな顔でトヨが言った。
「……大丈夫かな」
「あやつの心配なぞするでない。それよりも、一日も早く神和ぎとなるために精進するのじゃ」
「……でも……」
「七瀬」
強い口調でトヨは言った。顔をうつむかせ、七瀬は力なく答える。
「……はい」
「それでよい。それよりも、早く飯を作ってくれんかの。さっきから手が止まっておるぞ。一体何時になったらできるんじゃ」
トヨに急かされて、七瀬は慌てて料理を再開した。しかし、しばらくすると上を見上げて不安そうにため息をつき、料理をする手を止めてしまう。
そんな七瀬を見て、トヨは大きくため息をついた。
「……どうやら、あの小僧をこの家に招くのも、考え直さなければならんかもしれんな」
険しい表情でテーブルを睨みつけながら、トヨは呟いた。
☆ ☆ ☆
「いてて……どこだ、ここ」
痛む腰を抑えながら守哉は立ち上がった。
どうやら、穴に落ちてしばらく気を失っていたらしい。周囲を見回しながら、ここが穴の中である事を認識する。上から僅かに差し込む月の光が、守哉の周囲をうっすらと照らしていた。
周囲を見回しているうちに、少し離れた場所に誰かがうつぶせになって倒れている事に気づいた。近づいてみると、それは忠幸だった。
「おい、起きろ」
ゆさゆさと揺さぶってみる。しかし、起きる気配はない。少し考えた守哉は、不意に両手を握って人差し指を突き出し、勢いよく忠幸の尻の穴目掛けて突き刺した。
「っ!!ってぇ!!だ、誰だ!?」
勢いよく背を反らせて忠幸は飛び起きた。仰向けになって守哉の方へ顔を向ける。
「お前か!何しやがるんだ!」
「いや、揺さぶっても起きなかったから。仕方なく」
悪びれた風もなく守哉は答えた。
「てめぇ……どうやら、てめぇとは決着を着けなきゃいけないようだな」
「その前に、この状況を抜け出す方法を考えなきゃな」
「なに?」
「周りを見ろ、ここは穴の中だ。俺達、大穴に落ちて気を失ってたんだよ」
守哉にそう言われ、忠幸は周囲を見渡した。それで現在の状況を把握したのか、蒼白な顔になって慌てだした。
「ど、どうすんだよ!これから!」
「さあ?どうしようか」
「なんとかしろよ!お前、神和ぎなんだろ!?」
「いやぁ……いきなり頼られてもね」
皮肉そうに笑うと、守哉は両手を広げて頭を左右に振った。お手上げ、というわけだ。
「じゃあ……じゃあ、俺達ずっと穴の中なのか!?死ぬまで!」
「それはこれからの行動次第だな。まあ、なんとかなるだろ」
そう言うと、守哉は穴の中を調べ始めた。忠幸は、そんな守哉を見て口をかみ締めると、あぐらをかいて座り込んだ。
「くそっ!なんでこんな事になっちまったんだ!」
「そりゃ、お前が突然走り出したからだろ」
「こんなところまで来る気はなかったんだ!お前が追いかけてきたせいだぞ!」
「そりゃ悪かったな。でも、お前なんで突然走り出したんだ?」
穴の壁を両手で触りながら問いかけると、忠幸は黙りこくった。守哉は一度忠幸の方に視線を向けると、すぐに壁の方へ視線を戻す。
「……まあ、言いたくないなら言わなくていいさ。誰だって話したくない事ぐらいあるもんな」
「さっきは詰め寄ってきたくせに、いきなり態度変えやがって」
「こんな状況になっちまったのは俺のせいでもあるわけだし、反省ぐらいするさ……っと、おや」
壁をまさぐっていると、壁に穴が空いている事に気づいた。奥には道が続いているようだった。
「ここに道があるぜ。もしかしたら、出られるかもしれない」
「本当か!?」
「ああ。奥は真っ暗だけど……まあ、こんな時の言魂だよな」
そう言うと、守哉は一瞬でイメージし、発声した。守哉の声に呼応して、守哉の手の平に球状の光が出現する。
「行こうぜ。外に通じてるかはわからないけど、何もしないよりはマシだ」
「……お前の言う通りにするのは癪だけど、仕方ないか」
心底嫌そうにそう言うと、忠幸は立ち上がった。
守哉を先頭に、二人は穴の奥へと進む。
穴は大人一人が立ったまま進めるほど大きかった。分岐点もなく、一直線に繋がっている。二人は話す事なく無言で歩き続けた。
ふと、守哉の手の平の上の光が弱まり始める。それに気づいた忠幸は、後ろから文句を言った。
「おい、光が消えかけてるぞ。しっかりしろよ」
「ああ……わかってる」
力なく守哉は答えた。
手の平に意識を集中させる。長い時間言魂を発動しているため、守哉の精神力は限界に近づきつつあった。頭痛も酷い。しばらく休めば回復するのだろうが、忠幸が一緒である事を考えて、休まずに歩き続ける。
しかし、すぐに精神力は底を尽きた。凄まじい頭痛が頭を襲う。思わず守哉は頭を抑えてうずくまってしまった。
「ぐ……う」
「お、おい……どうしたんだよ」
守哉のただならぬ様子に、忠幸は不安そうな顔で言った。守哉はか細い声で、大丈夫だ、と言うと、のろのろと立ち上がる。再び言魂を発動するが、手の平が一瞬小さな光を発しただけですぐに効力が切れた。
「すまない……しばらく休ませてくれ」
「な、なんだよ、だらしないな。お前、神和ぎなんだろ。もっといけるんじゃないのか」
「神和ぎは神様じゃない……出来る事にも限界があるんだ」
そう答えると、守哉は壁に寄りかかって地面に座り込んだ。立ったままの忠幸を見上げて、守哉は弱弱しく告げる。
「お前だけでも先に進めよ。光がなくても一本道みたいだから大丈夫だろ」
しかし、忠幸は動かない。しばらく逡巡した後、守哉の向かい側に座り込んだ。
「どうしたんだよ。俺の事はいいから……」
「お前の事なんて心配してねぇよ。ただ、光がないとつまずくかもしれないだろ。それが嫌なだけだ」
しかめっ面でそっぽを向きながら忠幸は答える。そんな忠幸に、つい守哉は笑ってしまった。
「な、なんだよ。何がおかしいんだよ」
「いや、なんとなく。お前さ、いいヤツだな。なんか、好感持てそうだよ」
微笑みながら守哉がそう言うと、忠幸は顔を赤くして怒鳴った。
「お、俺はお前の事なんか嫌いだからな!」
「そりゃ残念だな。俺はお前の事、嫌いじゃないんだけど」
そう言うと、守哉は目を瞑った。忠幸も腕を組んで黙りこむ。
暗闇に静寂が訪れる。お互いの小さな息遣いだけが聞こえた。
しばらくして、ぽつりと忠幸が言った。
「暇だな」
目を瞑ったまま、守哉は答える。
「そうだな」
「お前、なんか話せよ」
「何を?」
「なんでもいいから」
忠幸の声には若干の不安が入り混じっていた。
守哉は微笑んで答える。
「不安なのか?」
「……当たり前だろ。こんな真っ暗な空間で、不安にならないほうがどうかしてるぜ」
忠幸が素直に心情を告げたのに守哉は少し驚いていた。この状況が忠幸の心を弱くしているのだろう、と守哉は思った。
忠幸とは対照的に平然としている守哉に、忠幸は言った。
「お前、不安じゃないのかよ。怖くないのかよ」
「少しばかり不安かなあ。怖くはないけど」
「どうかしてる。なんでそんなに平然としてるんだよ」
「真っ暗な場所に閉じ込められたのはこれが初めてじゃないからな。慣れっこなんだよ」
昔を思い出しながら、守哉は懐かしむように答えた。
「慣れっこって……お前、どういう人生送ってきたんだよ」
「あんまり、聞いてて面白い話じゃないぜ」
「話せよ。是非、こういう状況からどうやって脱出したのかを教えてもらいたいね」
茶化すように忠幸は言った。いつの間にか、忠幸の言葉からは刺々しい感じがしなくなっていた。その事に気づいた守哉は、暗闇の中で小さく微笑むと、昔を思い出しながら語りだした。
「そうだな……閉じ込められたのは一度や二度じゃなかったけど、その中でも一番酷かった話をしてやるよ。俺が小学校四年生の頃、放課後に体育倉庫に閉じ込められた時の話だ」
「なんだ、真っ暗な場所って体育倉庫なのかよ。今より全然いいじゃん」
「そうかもな。でも、その時の季節は冬だった。体育倉庫に空調なんてあるわけないから、寒くてしょうがなかったな」
「マットにくるまればいいじゃん」
「まあな。でもさ、その日は体育祭の日だったんだ。体操服だったから、とにかく寒かったよ。汗もかいてたし、本当に死ぬかと思った」
そう言って、守哉は笑った。昔を懐かしむように、決して楽しくない思い出を、楽しそうに語る。
自然、忠幸もつられて笑ってしまう。
「それで、いつ出してもらえたんだ?」
「二日後の昼」
その言葉で、忠幸の表情が凍った。
「体育祭は日曜日で、次の日は振り替え休日だったんだ。俺を体育倉庫に閉じ込めたやつらは、俺の事なんて忘れて帰っちゃったらしくてさ。あの時は餓死するかと思ったなぁ」
「親は?普通、子供が丸一日帰ってこなかったら心配するだろ」
「俺、親に虐待されてたんだよ」
忠幸は真顔になって守哉の話に聞き入っていた。
守哉は、楽しそうに語り続ける。―――楽しいわけがない昔話を。
「そんな親が俺の事なんか心配するわけなかった。むしろ家に帰ってきた時には、二度と帰ってこなければよかったのにって、笑いながら言われたよ」
「………」
「俺を体育倉庫から助け出した教師は、何悪戯してるんだって言って俺を叱った。俺の話なんて聞いてもらえなかった。何度も頬を引っ叩いて、職員室に連行した。いつの間にか、俺は体育倉庫の備品を隠して困らせようとしてたって事になってた。それが問題になって、親が学校に呼び出された。その後はもう、地獄だったな」
「なにがどう地獄だったんだよ」
「聞きたい?」
「……いや、やめとく」
再び暗闇に静寂が訪れる。しばらくして、守哉は立ち上がると、言魂を発動した。手の平に球状の光が出現し、周囲を照らす。
「ようやく回復したみたいだ。行こうぜ、早くこんな場所から脱出しよう」
「……そうだな」
再び歩き出す二人。横穴は相変わらず一本道だった。静まり返った暗闇に、二人の地面を踏む小さな足音が響く。
どれほど歩いたのかわからない。果てのない暗闇に、次第に二人の心に暗雲が立ちこみ始める。
そこで、守哉は気づいた。
「……行き止まりだ」
守哉は手の平の光を奥にかざし、目の前の突き当たりを照らした。それを見て、忠幸は地面にへたり込む。絶望しきった顔で、力なく呟いた。
「……終わりだ。俺達は、ここでのたれ死ぬんだ」
「諦めるのはまだ早いぜ。よく見ろ、こりゃ岩が崩れて道を塞いでるだけだ。取り除けば道があるかもしれない」
「簡単に言うなよ!完全に岩で塞がってるじゃないか!それに、岩が崩れたって事はこの辺の壁はもろいって事だろ!?取り除いてる最中に壁が崩れて、生き埋めになったらどうするんだよ!」
ヒステリックに忠幸は叫んだ。目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「だからって諦めるのはごめんだね。それに、いざとなったら引き返して落ちてきた穴を登ればいいだろ」
「あの穴、どれだけ深いと思ってるんだよ!それだけじゃねぇ、あの辺の地層はかなりもろい!よじ登ろうとしたら壁が崩れちまうよ!」
「じゃあ、尚更この岩をどけねぇとな」
そう言うと、守哉は岩を取り除き始めた。手の平の光が消え、漆黒の闇が訪れる。
「なんでだよ」
忠幸の声が闇に響く。焦燥に駆られた忠幸は、守哉に向かって叫んだ。
「なんで、そんなに平然としてられるんだよ!!お前、頭おかしいよ!!」
「叫ぶ体力があるのなら、手伝えよ」
「わけわかんねぇよ!普通、こんな状況になったら怖がったりするだろ!!怖くねぇのかよ!!俺達、ここで死ぬんだぞ!!」
「死なねぇよ」
取り乱す忠幸を睨みつけ、守哉は答えた。
「死ぬわけねぇさ。信じろよ、生きるって。死ぬわけないって、信じてみろよ。そうすりゃ、自然とやるべき事が見えてくるもんさ」
そう言って、守哉はにひっと笑った。端正な顔立ちに不釣合いな、気持ち悪い笑顔だった。
「なんでだよ」
忠幸の疑問を無視して、守哉は岩を取り除き続ける。暗闇の岩を手探りで探し当て、持ち上げて後ろへ放る。放った際に岩に付着した泥が飛んで忠幸の顔を汚したが、守哉は構わずに続けた。
「なんで、そんなに自分を信じられるんだよ!」
忠幸の悲痛な叫びが響く。絶望に包まれて、忠幸は大粒の涙を流していた。
守哉は、作業を続けながら答えた。
「本当の事言うとさ、俺、逃げてきたんだ。昨日、大失態やらかしちゃって、ババアや七瀬に迷惑かけちまってさ。……本当は今日、神代家に行かなきゃいけなかったんだけど、家の前で躊躇しちまって。それで、お前の事見つけて……適当に理由つけて追いかけて、逃げちまったんだよ」
少しずつ、守哉の手の動きが速くなっていく。守哉の頭の中で、この状況から抜け出すためのイメージが構築され、自然と守哉の言葉が言魂となる。
「でもさ、俺は思うんだ。逃げたっていい。辛いと思ったら逃げてもいいんだ。でも、だからって何もかも諦めちゃダメだ。辛い事から逃げても、全部放り出して死のうとするのはダメなんだよ」
守哉の声に呼応して、守哉の両手がぼんやりと光りを発し始める。守哉は、持ち上げられないような岩を易々と砕き、後ろへ放った。
「俺は生きる。生きて、俺の存在を否定したヤツらを見返してやるんだ。どんなにお前らが俺の事を嫌っても、どんなにお前らが俺の存在を否定しても、俺は消えない。だから、ずっと嫌ってろ。そうやって不毛な事を続けてろってな」
「そんな理由で……」
「そうさ。でもな、どんなに小さな理由でも、自分を信じれば強くなれる。身体じゃない、心が強くなるんだ。そして、それが―――」
岩を取り除いていくと、目の前に一際大きな岩が現れた。守哉は思い切り両腕を振りかぶった。
「生きる事を諦めない、理由なんだよ!!」
守哉の叫びに呼応して、振りかぶった守哉の両腕が勢いよく光りだす。守哉は、そのまま岩目掛けて両腕を振り下ろした。自分の背丈よりも大きい岩にヒビが入り、勢いよく砕け散る。
光が差し込む。泥だらけになった守哉を、朝の日差しが照らしていた。
「ほら、死なずに済んだだろ?」
そう言って守哉は笑った。
「ウソだろ……」
眩しい光を手で遮りながら、呆然として忠幸は呟いた。
暗闇の中で積もり積もった絶望が、朝日を受けて溶け出していくのを感じる。
地面にへたり込んだままの忠幸に、手を伸ばしながら守哉は言った。
「さあ、行こうぜ。まだ生き残れるか決まったわけじゃないんだ」
「……ああ」
ぎこちない笑みを浮かべて答えると、忠幸は差し出された手を握り、立ち上がった。
希望が二人の心を満たす。いつの間にか、夜が明けていた事に驚きながらも、二人は共に歩き出した。