第116話 あたたかい食卓
────ジークリンデが三つ連続で卵をぶちまけるまでは、そう思っていた。
「ジークリンデ、お前……」
「い、言わないでくれ……いや、すまん……悪いとは思ってるんだが力加減がどうにも……」
思い返せばコイツは昔から不器用な奴だった。授業で前転するだけで眼鏡を粉々にし、紙を切る作業で身に付けていたローブまで一緒に切り抜いたという伝説を持っている。
普通は大人になるにつれ上手くやるようになるはずだが、残念な事にあの頃から変わっていないみたいだな。
残りの卵はあと三つ。まだ店は開いてないし待つ時間もない。つまり──これ以上の失敗は許されない。
「ちょっと来い。ここ立て」
「な、なんだ……?」
俺はジークリンデの背後に回り、割れずに残った卵をひとつ手に取ると、そのままジークリンデの手を上から包んだ。
「なっ……ちょっ、な、なんのつもりだ!?」
「こうでもしねぇとまた割るだろ。いいから動くな。俺が力加減教えてやる」
ジークリンデの手の甲を自分の手で覆い、卵をそっと握らせる。
「まずな、お前は一切力を入れなくていい。分かったか? ……おい、なんで握りつぶす気満々なんだよ!」
「あ、あわわわ……ち、違うんだこれは……!」
脱力しろと言ってるのに、ジークリンデは腕どころか肩、背中、足先までガチガチに強張らせて硬直していた。卵を割る前に本人が砕けそうだ。何をやってんだコイツは。
「しっかりしろ。いや、しっかりするな。脱力だ、脱力」
「だ、脱力と言われてもだな……お、お前は何ともないのか!?」
「あ? こっちは毎朝リリィのために目玉焼きを作ってるんだ。目ぇ閉じてても成功するわ」
「そういう意味じゃなくてだな……!」
「いいから手先に集中してろ。ぐだぐだしてたらリリィが起きちまう。お腹をぺっこぺこに空かせたリリィがな」
「~~っ……!」
俺は硬直したジークリンデの手をなんとか持ち上げ、ゆっくりと下に振り下ろした。卵の殻が割れる心地いい音と、フライパンに白身がとろりと落ちる感触が、ジークリンデの手を通して伝わってくる。
「ほら、これくらいでいいんだよ。分かったか?」
「あ、ああ……」
……分かってる奴はそんな眉間に皺を寄せないだろ。こんな簡単なことの一体何が理解出来ないんだ。よく分からないが、俺は突き放す教育を信条としている。リリィにそうしているように、ジークリンデも甘やかしはしない。
「よし。次は一人でやってみろ」
「……あ、ああ」
ジークリンデが卵を手に取る。
その動きはどう見てもガチガチで、力みすぎて指先が異様に白くなっているが──まあ信じてやるしかない。脱力が大事だと、文字通り手取り足取り教えてやったばかりなんだ。そこまで難しいことでもないし失敗はないだろう。
ぐっと息を吸い、なぜか天に祈るように卵を掲げるジークリンデ。俺は半ば成功を確信しながら、その卵を見上げた。
……いや待て、何で天高く掲げてんだコイツ。
不穏な予感がやけに鮮明に胸をよぎった。
◆
「りりー、これだいすき!」
起きてきたリリィは、エッグベーコンサンドを口の中いっぱいに頬張り、ほっぺをぱんぱんに膨らませながら笑った。小さな口で必死に齧りつく姿は微笑ましいにも程がある。
──この笑顔の裏に、どれだけの卵が犠牲になったか。
リリィが知る必要はない。それは大人の領域だ。
「…………」
一方で、ジークリンデはというと、もう見りゃ分かるほど落ち込んでいた。パンをつまんでいる仕草はぎこちなく、背中は小さく丸まり、そこに貴族の面影はない。三人で食べる初めての朝食はどうにもこうにも妙な空気のまま始まってしまった。
「リリィ、ゆっくり食べないと喉に詰まらせるぞ」
言いながらパンを頬張る。俺だけ卵抜きのベーコンサンドだが、これはこれで悪くねえ。「自分の責任は自分で取る」と言い張るジークリンデに「お前は仕事があるんだからちゃんと食っとけ」と説得するのは骨が折れたが、これはこれで当たりだったかもな。
「……?」
パンを半分ほど食べ終えたところで、リリィが心配そうな顔でジークリンデを見た。そして、テーブルの下で俺の服をくいっと引っ張る。
何だと思って顔を近づけると、リリィは両手を筒にして俺の耳にぴとっとくっつけてきた。
「じーくりんでおねーちゃん、げんきないね」
──やっぱ気づくか。
結局、成功した二つの卵はどっちも俺が割った。ジークリンデのは全滅。
大人になると失敗の数は減るからな。久しぶりの惨敗にショックを受けてんだろう。職場では頼られてるらしいし、余計にな。
「朝から色々あってな。リリィが元気付けてやってくれないか?」
「ん! わかった!」
リリィは椅子からぴょんと飛び降り、ジークリンデの隣へ駆け寄ると──ばっと両手を広げた。
「な、なんだ……?」
「抱っこして欲しいってよ」
「だ、抱っこ……だと……?」
リリィは真剣な目でジークリンデを見つめている。
その視線に負けるように、ジークリンデは恐る恐るリリィへ手を伸ばした。
「脇の下からしっかりと抱えるんだ」
「こ、こうか……?」
ふわり、とリリィが宙に浮き、ジークリンデの膝の上にちょこんと乗る。
その直後、リリィは小さな右手を伸ばし、ジークリンデの頭をそっと撫でた。
「よしよし」
「ぷっ」
思わず噴き出してしまう。
リリィはまだ子供で、何をするにも自分を基準にするしかない。リリィにとって元気が出るのがそれなんだろう。自分がされて嬉しいことをそのまま人に返すだけ──なんとも子供らしい、そして優しいやり方だ。
「げんきでた?」
「あ、ああ……ありがとうな、リリィちゃん」
「うん!」
満足したのか、リリィは器用にジークリンデの膝から降り、俺の隣に戻ってくる。俺は迷わずリリィの頭を撫でてやった。よくやったぞ、リリィ。
「えへへぇ」
ぺた、とリリィは自分の手を俺の手の上に重ねてくる。子供の体温が高いのはエルフも同じ。リリィの手は温かくて、どこかホッとする。
「リリィもこう言ってる。そろそろ元気出せよ」
「……そうだな。いつまでも落ち込んでいても仕方ない。また練習に付き合ってくれるか?」
「勿論だ。このままじゃ卵がいくらあっても足りないしな」
「なんのはなし?」
「毎日美味しい朝飯を食べたいなって話だ。リリィもそう思うよな?」
「うん! りりーね、ぱぱのごはんだいすき!」
「ふふん」
リリィの笑顔につい鼻が伸びそうになる。独り身の時は「飯なんて食えりゃいい」と適当にやってたが、リリィを拾ってからは色々試行錯誤を重ねたからな。努力が報われるのは嬉しいもんだ。
「変わったな、ヴァイス」
「そうか?」
「変わったさ。まさかここまで子煩悩になるとは」
「子煩悩? 俺がか?」
「そうだとも。昔は他人に興味の欠片もなかったくせに、今じゃリリィちゃんの一挙一動に目を細めてるじゃないか」
「……そりゃ、子供がパン食って笑ってるだけで癒されるんだ。どうしようもねえだろ」
「ふふ、まったくだ」
ジークリンデの視線がリリィに向く。
リリィはパン屑を指につけて遊びながらケラケラと笑っていた。ほんの数秒のことなのに、それだけでリビングの空気が柔らかくなる。




