第110話 レイン、ピンチ
「スライムキング…………どこにいるのかしら」
濃い緑に包まれた森の中、レインは木々の合間に目を凝らしながら呟いた。高い木々は互いに枝を絡め合わせ太陽の光を遮り、大きな影を地表に落としている。薄暗い視界の中で遠くを見通すことは難しく、レインの心にじわじわと焦りが広がりだす。
お昼までに集合場所に戻らなければならないことを考えると、リミットはすぐそこまで近づいていた。特に目印を残してこなかったレインは分かってはいたがとうの昔に迷子になっていて、帰るのにはそれなりに時間がかかりそうだった。
「流石に少しつかれたわね…………」
もうかれこれ一時間は歩きっぱなしのレインである。深い森の中は苔むした岩や太い木々の根っこが好き放題にうねり合っていて、歩くだけでもかなりの体力を消費した。白い肌にはじんわりと汗が浮かび、顔には疲労の色が見え始める。
(あれは…………何かしら?)
休憩したいが、時間に余裕はない。逸る気持ちに任せて身体を動かしていると、レインは遠くの方にぼんやりと明るい空間があることに気が付いた。どうやらそこだけ太陽の光が降り注いでいて、それで明るくなっているらしい。
レインは吸い寄せられるように光の方へ足を運ぶ。
ぱあっと視界が開け────そこには幻想的な景色が待っていた。
「…………きれい……」
レインの目の前に現れたのは────美しい泉だった。
泉の水は透明でありながら、微かな青みを帯びていた。太陽の光がその水面に反射し、レインの目には煌めく光の粒が舞っているかのように映った。まるで泉自体が生命を宿しているかのような輝きに、レインは知らず知らずのうちに泉のそばに近づいていた。
「…………」
レインはしゃがみ込み、泉に手を触れる。清らかで冷たい感覚が指の間を抜けていく。清涼感が全身に広がり、のしかかっていた疲労がすーっと溶けていくのを感じた。
(…………さっきは言い過ぎたかしら……あの子、迷子になってないわよね)
そよ風を受けゆらゆらと揺れる水面を眺めていると、レインの心中で少しの変化が起こり始めた。心の奥底で燃え燻っていた黒い炎が、段々と小さくなっていくのだ。
どうして私はあんなにムキになっていたんだろうか…………ついさっきまでそうだったのに、他人事のように実感がない。
(…………きっと、先生の所にかえっているはず。私を追ってきてるなんてことないわ)
自分を追いかけて迷子になるリリィの姿が、消しても消しても浮かび上がってくる。リリィは私より一回りは背が低い。もし追いかけてきていたら、大変なことに────
「…………帰ろう。ルールを破るなんて、どうかしていたわ私」
レインは立ち上がり泉に背を向ける。不思議と、憑き物が落ちたように心は楽になっていた。身体にもすっきりとした活力がみなぎってくる。
「戻ったら、あの子に謝ろう。先生にも謝らなくちゃ」
そう決心するレインの背後で────奇妙な現象が起こっていた。
まるで空から吸い上げられるように泉が宙に持ち上がっていき────大きな影がレインを暗く染めた。
◆
────急に周りが暗くなった。
レインの背後で起こった出来事は、そういう形でレインに認識された。そしてこの感覚をレインはよく知っていた。
それは日中に外を出歩いている時によく起こる。自分の背後を歩いている大人が、不意に太陽を遮り大きな影を作る時がある。その影に飲み込まれた時、急に夜になったような錯覚を受けるのだ。
つまり────
「────ッ!?」
背後に強烈な気配を感じて振り向くと────そこには衝撃的な景色が待っていた。
「う、嘘でしょ…………?」
レインの視界一杯に広がる青色の球体。それは奇妙なことに、さっきレインが手を触れていた泉と同じ色をしていた。さらに不思議なことに、さっきまでここにあった泉が、蒸発してしまったかのように忽然と姿を消していた。
夢でも見ているのか、と頬をつねろうとするレインを────球体は待ってはくれなかった。
「ボオォォォォォオオオォォォォ!!!!」
「きゃっ!」
今までの人生で全く聞いたことのないの音が、衝撃波となってレインを襲った。レインは大きく吹き飛ばされ、太い樹木に強かに背中を打ち付けた。
「うう…………痛た」
強烈な痛みにレインの視界が一瞬フラッシュする。身体中が雷に打たれたように麻痺し、背中だけが焼けるように熱かった。
「はあ…………はあ…………」
苦痛に顔を歪めながら、ぼやける視界の中で捉えたのは────球体に浮かぶ二つの目。ぎょろりと大きな瞳がしっかりとレインを見据えていた。
(…………これが…………スライムキング…………? とりあえず、立たなきゃ…………)
途切れ途切れの思考をなんとか繋げ合わせ、一本の線に撚り上げていく。絶望的な状況にも関わらず心の芯は落ち着いていた。レインはそのことが不思議なようで、その一方でそうだろうなという確信もあった。自分がパニックになるという感覚がどうしても想像出来なかったのだ。
レインはまだ六歳────普通ならパニックにならないとおかしい年齢だ。命の危機にあって水面のような精神の落ち着きは、クラスの他の誰にもない、レインだけの天性の才能だった。
レインは背中の樹に体重を預け、ゆっくりと立とうとする。だが、下半身の踏ん張りが効かずずるずると滑り落ちてしまう。その間にも、スライムキングは地面を侵食するようにゆっくりと近づいて来ていた。
(立つのは無理…………か。それなら────)
レインは痺れる右手を何とか動かしポケットから杖を取り出すと、それを真っ直ぐスライムキングに向ける。
(スライムキングの弱点は────雷。私の属性だわ…………!)
レインは意識を杖先に集中させる。瞬間的にレインは自らが置かれている絶望的な状況と、眼前に迫る巨大なスライムのことを頭から消し飛ばしていた。
────今、レインの世界にあるのはS級素材『雷獣シルバー・ファングの頭骨』を使用した最高級の杖と、痛みで痺れる右手の感覚だけ。何十何百と練習を重ねてきたレインの右手は、こんな最悪の状態でも最高の魔力を杖に送り出した。
(……………………いける────ッ!!)
ふわ、と花が咲くように、大きな黄色の魔法陣が音もなく杖先に出現した。そこには授業で習っていない槍状の形状変化が記されている。
…………レインにとって槍状の形状変化は、コーラル・クリスタルに負けリリィに話題を攫われた嫌な思い出のある記述。けれどレインはこう考えた────嫌な思い出は、成功体験で上書きしてしまえばいいと。
形状変化の外側に────あの時はなかったもう一段が存在する。それは本来上級生で習うはずの『加速』の記述。レインは独学でそれをマスターしていた。
(これが…………今の私の全力…………ッ)
スライムキングは、既にレインの目の前まで近づいていた。あと数秒もすればレインはその大きな身体に飲み込まれてしまうだろう。それはすなわち死を意味していた。レインはそれを理解した上で、身体に残った全ての魔力をしっかりと魔法陣に伝えきった。
────魔法陣が、一際強く光り輝く。
レインはその瞬間を決して見逃すまいと先に瞬きをし────終わる頃には、雷槍は既にスライムキングの身体を貫通し終えていた。
レインの放った渾身の魔法はスライムキングの身体を貫くだけでは足りず────丸く刳り貫かれた身体の穴から、十数メートル向こうまで樹木が抉られているのが確認できた。
(…………やった…………の、かしら……?)
身体の大部分を失ったスライムキングがぼとぼとと地表に墜落するのを確認し、レインはそこでやっと呼吸が出来た。ふう、と大きく呼吸をして目を閉じると、じわじわと腹の底から大きな達成感が込み上げてくる。死から開放された安堵と共に魔力を使い切った疲労感も襲ってきて、なんだかこのまま眠ってしまいたい気分になった。
(…………って、ダメダメ。お昼までに戻らなきゃいけないんだから)
首を振り、気合を入れるように頬を叩く。新鮮な空気を思い切り肺に入れる。重たい瞼をごしごしと擦って…………カッと目を見開いた。
「────え」
すっかり元通りになったスライムキングが、樹の洞のような暗い瞳でレインを見下ろしていた。