第108話 リリィ、なやむ
「ぱぱー、てすとだってー!」
学校から帰ってきたリリィが勢いよくリビングに走り込んできた。バタバタと慌ただしくリュックとローブ、帽子を床に脱ぎ捨て、ソファで横になっていた俺の胸に飛び込んでくる。
「わぷっ…………テスト? もうやったのか? あと帰ってきた時の挨拶は?」
「ただいま! んーん、らいしゅーやるんだって」
「来週か。何をやるんだ?」
「なんかね、ぽよぽよをたいじするんだって。りりー、いやだなー…………」
しょげた顔で俺の胸に顔を埋めるリリィ。頭をわしわし撫でてやると気持ちよさそうな声をあげる。
「スライム退治? …………ってことは実際に魔物と戦わせるのか。一年生でやるテストじゃないぞ、そんなの」
実地訓練は普通なら三年生でやる授業だ。確かにスライムなんて一年生でも余裕で倒せるんだが、安全に安全を重ねるのが教育というものだからな。一年生を戦わせるなんて危険な真似は普通の先生ならまずしない。
…………この前連れ出した時は一応ピクニックという名目だったらしいが、今回は紛れもない実地訓練。よく学校側から許可が降りたな。降りてないのかもしれないが。
「りりーもぽよぽよたおさないといけないのかなあ…………」
「うーん…………そうだなあ」
テストは大切だ。だが、全てではない。俺は学校の成績より大切なものがあると考えている。それは自分の身を守れるだけの強さを身につけるということだ。リリィにはいずれ訪れる困難に立ち向かうだけの強さを手に入れて欲しい。それがこの親子生活のゴールだと考えている。
その為には…………。
「リリィ、聞いてくれるか?」
「んー?」
リリィは顔を上げ俺を見る。穢れを知らない綺麗な瞳がそこにはあった。
…………いや、穢れを忘れたと言った方が正しいか。かつてリリィの瞳は光を失っていた。
「リリィはぽよぽよと仲良くしたいんだよな?」
「うん…………りりーはね、ぽよぽよとあそびたいだけなの」
「そうだよな。でももしリリィがピクニックに行って、怖い魔物にぽよぽよが襲われてたら…………どうする?」
「たすける!」
「どうやって助けるんだ?」
「まほーでやっつける!」
「怖い魔物は魔法でやっつけてもいいのか? 怖い魔物にも家族がいるかもしれないぞ?」
「…………あう。えっと…………どーなんだっけ…………だめかも…………」
リリィは困った様子で頭を抱える。
…………ごめんな、この問題に答えなんてないんだ。
「リリィが助けてあげなかったらぽよぽよは死んでしまう。でもその為には怖い魔物を倒さなきゃいけない。困ったな、リリィ」
「…………うぅ…………ぱぱ、どーしたらいいの?」
「それはな、実はパパにも分からないんだ。でも一つだけ確かなことは────そうやって俺たちは生きているってことだ」
「…………うーん、よくわかんないかも…………」
「そっか…………リリィにはまだ早かったかもしれないな」
「でもね、ぱぱ」
「なんだ?」
「りりーはね、やっぱりぽよぽよたすけたい!」
「そうか…………リリィは優しいな」
柔らかで温かな光が腕の中にある。リリィを抱っこしていると、俺まで良い奴になったような気さえした。
「それじゃあ…………こういうのはどうだ? 誰かを助ける時だけ戦う、ってのは」
「たすけるときだけ?」
「そうだ。今回の話だと怖い魔物にぽよぽよが襲われているだろ? そういう時だけ戦ってもいいんだ」
「! なんかよさそーかも!」
自分なりの答えを見つけ、リリィは笑顔になった。
俺が言ったのは綺麗事かもしれないが、走り出すきっかけとしては十分だろう。いつかこの考え方だけではどうしようもなくなる時が来る。その時に、改めてリリィなりの答えを見つけてくれればいいと思う。
「という訳で、テストは無理してやらなくてもいいからな」
「わかった! くーまーたんあーそぼー!」
元気を取り戻したリリィは俺の上から降りると、部屋の隅で眠っていたくまたんにちょっかいをかけはじめる。ゴロゴロと床を転がりながら取っ組み合いのじゃれあいを始める一人と一匹を眺めながら、俺は教育の難しさを噛み締めていた。
…………俺なら、その状況でどういう選択をするんだろうな。
誰かを助けるためには誰かを攻撃しなければならない。残念ながらこの世はそういう風に出来ていて、全員が笑顔になれる答えなんてものは存在しない。今この瞬間も俺たちは何かを犠牲にしながら生きている。家は樹木を伐採して作るものだし、今朝食べたのは動物の肉だし、今座っているソファだって何かの皮だろう。リリィとくまたんが寝転んでいる敷物は、言うまでもなくエンジェルベアの毛皮だ。
────全員が幸せになれる答え。
もしそんなものがあったとしても…………きっと俺には理解出来ないだろう。
俺は善人ではないからだ。