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「教授、絶対、わざと何も言わなかったんだ」
今ではそう確信している。
なぜなら、博士はまさに学者莫迦、というような有様で。年は教授と同じか少し若いくらいだった。
書斎の散らかり具合はまさに教授の“類友”と思わせた。よく見れば端正な顔立ちをしているのに、寝癖だらけの銀髪やいつ洗濯したのか疑問がわく、皺だらけの白衣が全てを台無しにしていた。
同じ家にいるのに、初めはろくに話もしなかった。そもそも、顔を殆ど合わせなかったのだ。
そして、博士の娘は。年は10歳くらい。それはいい。問題なのは娘……ユーリがまるで男の子のような格好をして、言動もまるで男の子のようだったこと、だ。
紅茶色の短い髪の毛、博士そっくりの濃い緑の目。ユーリが好きでそうしているのなら、リーフェイが口出しすることではない、と思っていたけれど。
「父さんがさ、こういう格好しろって言ったんだ。小さい頃はひらひらのスカートとかはいてたよ」
それとなくユーリに尋ねたところ、そんな答えが返ってきて驚いた。洗濯のしやすさ、動きやすさを考えた衣類しか、リーフェイはここには持ち込んでいない。もともとスカートの類は普段でもはかないし、ここではもっぱらシャツにズボンという格好で過ごしていた。ユーリが尋ねてきたことがあったのだ。
リーフェイはスカートやワンピースは着ないの、と。
「こういう格好の方が楽だからね。あんまり着ないかなあ。……ユーリは着たいとか思う?」
すると、ユーリはこくりと頷いたのだ。てっきり、あの格好を好んでしていると思っていたリーフェイは驚いた。そうしてユーリは答えたのだ。
父さんが、こういう格好をするようにって言った、と。
リーフェイは首を傾げてしまった。余所の家の事情に首を突っ込むわけにはいかないし、いくら一つ屋根の下で暮らしているとはいえ、あくまでも雇用者と被雇用者。納得出来ないものを感じても、何かを言うわけにはいかなかった。勿論、ともに生活していく上での事は、色々言わせて貰ったけれど。
気になる事といえば、他にもある。何でユーリは学校に通ってないのかとか。
ラザフォード教授とは、時々通信回線で話をするのだけど、その時尋ねてもはっきりとした答えは返らなかった。
色々気にはなっても、結局聞けないまま。
リーフェイがここで働きだして、はや3年が過ぎようとしている。
「さて、これからどうしたものかなあ」
休憩をしている間に、ここへ来るまでの事を思い出していたリーフェイは、腕時計を見て顔をしかめた。
「あらら、そろそろ夕飯作らないとまずいかも。その前に洗濯物仕舞わなきゃ」
リーフェイは慌ただしく動き始めたのだった。
リーフェイがここで働き始めてからそろそろ3年になる。
契約の更新は半年ごと。意外や意外、センセイはその点についてはきっちりしていた。
とはいえ、契約内容を確認し、異存がなければ了承してサインするのみ。契約内容は初めから殆ど変っていなかったけれど。
契約が更新されるたび、ラザフォード教授はなかば呆れたような顔と声で言ったものだ。
「僕が紹介しといてなんだけど、きみの若さで、よくあんな辺鄙な場所での暮らしが平気だねえ。そっちに行ってから、一度も街に下りてないでしょ」
色々欲しいものもあるんじゃないのと苦笑する教授に、通信機越しにリーフェイは答えた。
「通信手段があって、本が読める場所ならわたしはどこでも生活が出来ますよ。むしろ街の方が煩わしいです。それに、要るものは色々教授が送ってくれるじゃないですか」
「それくらいは当然だしね。……いや、でもさ、そんな若いうちから隠棲生活しなくてもいいじゃない」
「はあ……むしろ、いいですねその響き」
半ば本気の言葉だったが、教授は駄目と却下をする。
「若いうちには、色んな所に行きなさいって。隠居するのは年を取ってからで十分でしょう」
リーフェイを気にかけてくれているのか、ラザフォード教授とは何かにつけて話をする。通信機越しにではあるが、顔を見て話すことができるのだ。
何くれと物資を……定期便に混ぜて……送ってくれたりも、する。伸びた髪の毛が煩わしいと零した時には、髪を括るゴムやらピンやら、ヘアバンドやらを送ってくれたりもした。やたらとファンシーなそれらは、てっきり教授が誰かに頼んで買ってきてもらったんだろうと思いきや、教授みずからが買ったという。思わず、今度はもっと地味なのにして下さいと文句を言ってしまった。
そんなふうに。
リーフェイは教授とよく話をする。
必要な物資のことだったり、センセイやユーリとの暮らしのことだったり、読んだ本のことだったり。
他愛のない話だったり。
発つ前に、リーフェイは教授から言われていた。
『君も色々困る事があるだろうから、何かあったら遠慮せずに連絡しなさいね』
困りごとがなくても、連絡くれると嬉しいな。素晴らしい笑顔でそう言われても、年も立場も違う人と、事務的な事以外何を話せばいいのかとリーフェイは戸惑った。
しかし。コンラッド邸で働きだしてすぐさま、リーフェイは教授に連絡を入れることになる。
『ちょっと教授っ、あの人一体何ですかっ。信じられない~~~っ』
『どうしたの。あいつ作成の塩の柱でも倒壊した?着た切り雀で何日もいる?奇声でも上げた?まともな時間に起きてこない?』
『……塩の柱ってなんですか』
『書斎に積みあげてる本の柱のこと』
『……了解しました。それなら全部です。物凄い音がして、地響きがしたんですよっ、地震かと思いました』
『あははは~。そりゃ驚いたでしょ。まあ片づけはあいつ一人でするだろうから、放っておけばいいよ』
『……それってもしかしなくても、また“塩の柱”とやらを作成する、ということですよね?』
『よくわかったね』
『はあ……じゃなく!色々イロイロ、あのセンセイありえないんですけど!』
『まあ研究者なんて皆変わり者だよ。気長にしつけてやってよ』
『誰がですかっ』
『もちろん、きみ』
『お断りします』
『あれ、その方が今後のきみのためだと思うよ?少しでも気苦労は減らしたいでしょ?』
『それまでがすっごく大変そうなんですけどっ!わかりましたよ、未来の心の平穏のためにやりましょうとも!』
『頑張ってね!心より応援してるから!』
『応援じゃなくて、私には助言と、センセイには忠告をして下さいっ』
僕の云う事なんて、聞いてくれたためしがないんだけどなあと笑いながらも、教授はセンセイに何事か話をしてくれたらしい。それとリーフェイも一緒に生活する上で気になる所は遠慮しつつもしつこく言い続けたため、ある程度の改善は果たせたように思う。
ユーリからは尊敬のまなざしで見られたものだ。
『小奇麗な父さん見たの、何年ぶりだろう』
センセイ。子どもにそう言われる時点で、まだ駄目駄目です。リーフェイは内心でそう思っていた。
ともあれ、そんな形で此処と……遠く離れた場所にいる教授との間で、賑やかな遣り取りを繰り返した。
もしかすると、一緒に生活をしているセンセイよりも、会話量は多いかもしれない。
センセイも、前よりは会話をしてくれるようになったとはいえ、その言葉は端的で簡潔極まりない。
センセイ本人に悪気がないのはわかっているし、そういう人だとわかれば気にはならなかった。何かの時に沈黙が訪れてもさして気にはならない。
リーフェイ自身、そうおしゃべりな方ではないけれど、それでも時々誰かと話をしたい気分にはなる。
そういったときは、何かあれば連絡していいよって言ってたものね、と教授に連絡をして、心行くまで他愛のない話につきあってもらって、いた。迷惑かと思わないでもなかったけれど、教授はいつもにこにこと笑ってリーフェイの話を聞いていたから、それについては杞憂だと思いたい。
一度ここへ来るよと言った言葉通り、教授はこの家を訪れて、そして取りあえずは清潔な白衣を着たセンセイを頭の天辺から爪先まで眺め、感心したように言ったのだ。
「お疲れ様。色々大変だっただろう」
「ええまあ……色々攻防がありましたよ……」
着た切り雀になりがちなセンセイをいかに身ぎれいにするか。万年床防止策はとか。これってハウスキーパーの仕事範囲を超えているのではと思いながらもやり遂げましたとも。
心の底からの労いの言葉を言った教授に、リーフェイはいささか遠い目をして答えた。
教授は、お疲れ様と言うように、ぽんぽんとリーフェイの頭を撫でた後、センセイと書斎に籠ってしまった。そこでどんな話をしていたかは知らない。夕食時になってようやく二人は書斎から出てきた。
夕食の後。滅多にないお客さんにはしゃいだのか、ユーリは早々に眠ってしまったし、センセイは久々に友人が訪れようが、自分のペースは変えない人だから、再び書斎に籠ってしまった。
キッチンで片づけや明日の朝食の仕込みをしていると、教授が顔をのぞかせた。
「教授?何か足りないものでもありましたか?」
教授には客室で休んでもらうことになっていて、必要なものはあらかじめ部屋に準備していたのだが。
「ああ、寝酒でも要ります?」
「いや、そうじゃないけどね。今時間いいかな」
「そうですね……」
リーフェイは考える。片づけはあらかた済んだし、明日の準備もだいたいは済んだ。
「大丈夫ですけど、少しだけ待ってもらえますか」
わかったよと言って教授はリビングのソファに腰掛ける。リーフェイは手早く諸々を済ませると、リビングに行きかけて少し考える。センセイは飲まないお酒があったはず。
水と氷、グラスと共にリビングに運んだ。
「お待たせしました。教授、飲まれますか?」
「ああ、いただくよ」
教授にはロックで、自分には氷と水を多めにいれて、教授の向かいに腰をおろす。教授はシャワーを浴びたのだろう、金の髪はまだ湿っているようだった。
何度も何度も通信機越しに連絡をしてきて、すっかり馴染んでしまったけれど、よく考えてみると直接顔を合わせたのは今回を入れても片手で足りるほどだ。
「何だか不思議な感じですねえ」
「何が?」
「いえほら、教授とはいつも通信でお話してましたから、“お久しぶり”って感じはないんですけどね。じかにお話したのって、片手でも余るほどだなあって思ってたんですよ」
「ああ、そういえばそうだねえ。僕はすっかり長い付き合いのように感じてたよ」
これだって、僕が良く呑んでるお酒だしねと教授はグラスを掲げてみせる。
通信を入れるのは大概が夜だ。つい話し込んでしまって時間が長くなる事が多かったから、いつからか飲み物を用意するようになったのだ。教授が用意しているのはいつもお酒で、銘柄もいつも同じだった。
何を呑んでいるのか聞いた時、教授が答えてくれたのだ。
センセイは飲まない銘柄だけど、リーフェイがここに来た時からそれはあった。
初めはこんなお客も来ないような辺鄙な所で、何故飲みもしない物を準備しているのか不思議だった。
センセイが間違えて持っていたのかと思っていたけれど。
こうしてやって来る教授の為に準備していたのかと思う反面。
センセイの社会性のなさを見るにつけ、教授が物資にこっそりしのばせた可能性の方が高いかもしれない。
「まあでも……」
ぐるりとまわりを見回して、教授は感心したように言った。
「ほんと見違えたよ。前に僕が来たときなんか、悲惨な状況だったんだから。足の踏み場もないほど散らかりまくっててさあ。物資の差し入れにきたつもりが、片付けと掃除をして帰る羽目になったよ」
「……目に浮かぶようです。お疲れ様でした」
リーフェイはここへ来た当初の惨状を思い出し、心から同情する。
自分はそれが“仕事”だけど、教授の場合、辺鄙な場所に住む友人を尋ねたところが、思わぬ労働をする羽目になったのだから。
とはいえ、付き合いが長いらしい教授のこと、ある程度は予想してたはずだろうにとも思う。
「ひょっとして、教授がここへ来るのって、センセイの安否確認だったり……」
まさかねと笑いながら言えば、教授は至極マジメな顔をして頷いた。
「そうなんだよね。あいつ通信にもロクに出ないもんだからね。本人もだけどユーリも居るし。音信不通が長く続いたらもう、こっちとしては心臓に悪かったよ」
今はもうそんな心配しなくて済んだけどねえと教授は笑う。
「はあ……センセイ、今より酷かったんですねえ。いや今の状態がけして良いわけではないんですが」
「まあ後はぼちぼちでもいいんじゃない?イチオウは人間らしい生活になってるようだし。というかマジメな話、きみ、契約を更新してくれる気、あるのかな?」
ハウスキーパーの契約は、半年ごとに更新することになっている。その期日はもうすぐ来るのだ。リーフェイはもちろんですときっぱり頷いた。
ここは自分にとって、願ってもない場所だから。それを聞くと教授はなんとも微妙な表情を浮かべた。
安心したような。困ったような。
「ほんと、きみが来てくれてよかったよ」