30
「それが、後に我が師となる人との出会いでした」
一通り昔話を終えたユーリは、そう言って長く息を吐いた。
話し始める前は塔の真上にあった月が傾き、いつの間にか窓からその姿を覗かせていた。
誰一人身動きしない暗闇の中で、涼やかな虫の音だけが響いている。
これほど高層にある部屋だというのに、地上の音が聞こえるというのも、何とも不思議なことだった。
「魔女が建てたと言われているこの塔も、本当は師が造ったものなんです。私の世界の建築物の話をしたら、自分も建ててみたいだなんて言い出して」
懐かしむように目を細め、ユーリはくつりと笑みを漏らした。
今まで黙って話を聞いていたラズフィスは、そんな彼女を見下ろしながら疑問を投げかけた。
「こんな規格外の塔を建てたと言うお前の師とは、一体何者なのだ」
自動で動く移動装置も、人の動きを感知してつく灯りも、この世界にはない技術だ。
子供であった時は、驚くだけであったそれらも、今ならばその異様さが理解できる。
一塊の魔導師が簡単に造り出せるものではない。
ラズフィスの問いに、僅かに肩をすくめ、ユーリは小さく苦笑した。
「まぁ、この世界の人間なら、誰だって名前位は聞いたことがあるとは思いますけど」
そう前置いてから、ユーリは己の師の名を告げた。
彼女が言うように、それは確かにあまりにも有名な魔導師の名だった。
「私の師は、賢者アルディロスです」
ラズフィスは目を見張りつつ、同時にどこかで納得もしていた。
何故なら、それは彼が半ば予想していた人物の名でもあったからだ。
変わり者であった賢者アルディロスが、その生涯で育てた弟子はたった一人とされている。
歴史書に名を残していない弟子というのがユーリであるとするならば、あえて秘されていたことにも納得がいく。
次いで、ラズフィスは静かに自分を見つめていた炎狼の様子を思い出した。
賢者と共に消えたとされる霊獣ではあるが、アルディロスともなれば己や狼の思念の一部を現世に残すことも可能であったろう。
なにせ、アルディロスは賢者であると同時に、高名な魔術の研究者でもあった。
見定めているかのように感じた狼の視線は、まさにラズフィスを品定めしていたのだ。
その事実に思い至り、ラズフィスは内心で苦笑する。
そんなラズフィスの傍らで、ユーリは遠い昔を思い出すように目を伏せた。
「私はまず始めに、師からこの世界の言葉と常識を教わりました。それから、生きていくために必要な技術を、戦う術を学んだ。そして……、最後に、師は魔術の扱い方を私に教えました」
そこで一呼吸置くと、ユーリは自分の両手に視線を落とす。
「初めはね、嫌だって言ったんですよ。だって、魔術を学ぶということは、否が応でもあの惨劇を思い出さなくてはいけないでしょう。私には、まだ、自分の犯した罪と向き合う自信がなかった」
苦笑を隠しもせず、彼女は溜め息混じりに首を振る。
「それなのに、あの人ときたら『ふーん。なら、魔力が暴走して取り返しのつかん事になっても、わしゃあ知らんぞ』なんて脅すんですよ。そんな風に言われたら、嫌でも学ぶ他ないじゃないですか」
何はともあれ、この世界で生きていくのに、ユーリは必死になって新しい知識を詰め込んだ。
師であるアルディロスは、稀代の天才であったが、同時に変人でもあった。
賢者であるはずなのに、人にモノを教えるのはとことん下手で、感覚でものを言うものだから、ユーリはとても苦労した。
習うよりも慣れろという信念で、事典だけ持たされて薬草探しに行かされたり、時には小刀一つで魔物の群れに放り込まれたりもした。
魔物に追われながら、心の中で何度悪態をついたか分からないほどだ。
そのくせ、魔術に関しては、昼夜を問わず暇さえあれば熱心に語り明かした。
ユーリの使う魔力にも多大な興味を示し、寝食も忘れて趣味を兼ねた研究にのめりこむ事もしばしばだった。
精霊に頼らない彼女の魔術は、師の研究者としての面を酷く刺激したようだった。
彼は既存の魔術をユーリが扱えるように組み直したり、逆に彼女が偶然に発動した魔術を自分達が使用できるよう変換することに熱意を燃やしていた。
出来あがった構成式を事細かに説明する時のアルディロスは、まるで玩具を与えられた子供のようだった。
だが、そのおかげで、ユーリは大抵の魔術なら、即座に自分の利用できる魔術に組み換えられるようになったのだ。
「大嫌いだった魔術が、一番詳しくなるんですから、本当に始末に負えませんよ」
そう言って、ユーリは小さく笑い声を立てた。
自分の不満をのらりくらりとかわす師に憤慨しては、穏やかな気性の炎狼になだめられる。
大変なこともあったが、この塔での暮らしも、今では良い思い出だ。
存外落ち着いた眼差しで振り返るユーリに安堵しながらも、ラズフィスは不意にわいた疑問を彼女に投げかけた。
「賢者は確か、古代魔術を研究していただろう。ならば、召喚術も知っていた筈だ」
今では廃れ、禁術に近い扱いを受けている召喚術だが、古では神託の儀式として頻繁に行われていたらしい。
当然、召喚したものを還す魔術も存在する。
多くは物を召喚していたようだが、それを応用すれば、生き物を異世界へ転送する事もできるだろう。
つまり、ユーリが元の世界へ還ることも、不可能ではないのだ。
なぜ還らなかったのかと問うラズフィスの視線に、ユーリは苦笑を返した。
「師は、生前、召喚術については、一切ふれませんでした。あまりにもその類の話が無いものだから、この世界にはそういった魔術は存在しないんだと思い込んでいたくらいですからね」
だから、師が大量に残した遺品を整理している中で、召喚術関連の書物を見つけた時は酷く興奮した。
ずっと諦めていた、元の世界へ帰る術が見つかるかも知れないのだ。
ユーリはそれこそ、寝食を忘れて魔術の研究に没頭した。
隠されるようにしてあった本を読みふけり、何度も実験を繰り返しているうちに月日は矢のように流れた。
「でも、結局、帰れなかった」
小さく呟くように漏らしたユーリは、立てた膝の上で固く両手を結んだ。
その手は溢れ出す感情をこらえるように、カタカタと震えている。
一度唇を噛み締めてから、ユーリは押し殺したような掠れた声で、深い息と共に言葉を吐き出した。
「私は、私の世界に拒絶されてしまったんです」
一瞬、失敗したような歪んだ笑みをうかべてから、ユーリは目を閉じて俯いた。
長い黒髪が肩からながれ、その表情を隠す。
立てた両膝を抱えるようにして顔を伏せた彼女は、そうして暫く沈黙した。
小さく震える肩に、ラズフィスが思わず手を伸ばしかけた時、ユーリは僅かに顔を上げた。
「まるで、黄泉つへぐいみたいですよね」
自嘲するように吐き出されたのは、ラズフィスの知らない言葉だった。
「黄泉というのは、この世界で言う冥府のようなものです。冥府の食べ物を口にした人間は、二度と現世には戻れないと言う話ですが、こちらにも同じような神話があるでしょう?」
ユーリの言う神話は、確かにこの世界にも存在する。
それは、冥府の最初の住人ウロスとナムカの実の神話だ。
冥府に迷い込んだウロスは、地上への出口を探してさまよい歩いていた。
冥府はどこまで行っても、明かり一つなく、荒れ果てた大地が続くばかりだった。
歩き疲れた彼が足をもつれさせ、地面に倒れ伏していると、どこからともなく甘い果実の匂いが漂ってきた。
ウロスが顔を上げると、少し先に地上のナムカによく似た木が一本立っていた。
強烈な飢えと喉の乾きを自覚したウロスは、吸い寄せられるように木に近付き実をもいだ。
恐る恐るその実をかじれば、甘い果汁が口の中を潤す。
ウロスは腹を満たすために、夢中になって実を貪った。
その時、突然辺りを眩い光が包み、ウロスは思わず片腕で己の顔を覆う。
目を凝らしてみれば、その光の先に懐かしい地上の風景が見えた。
彼は転がるように駆け出し、その光に飛び込んだ。
しかし、外に出る直前、薄い膜のような物がウロスの行く手を遮った。
叩いても、切りつけても、泣き叫んでも、その膜は彼を通してはくれなかった。
何故ならウロスは地上にあってはならないものを取り込んでしまっていたからだ。
どんなに似ていても、冥府の果実は地上のものとは相容れないものである。
それを食べてしまった彼は、世界の境界に阻まれ、二度と地上に戻ることは叶わなかった。
こうして、ウロスは冥府の最初の住人となったのである。
「ウロスのように、私の体にも、あちらの世界には存在し得ないモノが取り込まれていました」
「……魔族の核、か?」
「えぇ、その通りです」
ラズフィスの問いに頷いてみせてから、ユーリはふっと一つ息を零した。
「魔族の核を持った私は、あちらの世界からは異端者と認識されてしまったんでしょうね」
一度目に核を入れられたとき、吐き戻したことを考えれば、時間が経っていなければ取り出すことも可能だったかもしれない。
しかし、ユーリの中の核は、もう既に分離する事が出来ないくらい同化してしまっていた。
それでも、元の世界に帰ると言う希望を、簡単には諦めきれなかった。
既存の召喚術に改良を加え、幾度も実験を繰り返した。
その内に、霊体のような存在としてや、虫、鳥や獣等の姿に擬態してなら、あちらの世界に何とか戻れるようになった。
初めは数分間存在するだけでもごっそりと魔力を削り取られたが、徐々に長い時間世界を超えられるようにもなった。
「でも、どんなに実験を繰り返しても、どんなに構成式に手を加えても、世界は私が人間として還ることを許してはくれなかった」
そう言って顔を上げると、ユーリは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「思えば、師はどう足掻いても、私があちらに帰れない事を知っていたんでしょうね」
改めて尋ねられたことはなかったが、アルディロスはユーリの中に魔族の核があることに気付いていただろう。
そして、その核が、原型を留めないほど、異世界の娘と同化してしまっていることも分かっていたのかもしれない。
ユーリがアルディロスと出会った頃には、核を飲み込んで随分と時が経ってしまっていた。
だから、あえて召喚術の存在を隠したのだ。
愛弟子が無駄な希望を抱かないように、失意のうちに自暴自棄になったりしないように。
師の読みはある意味当たっていた。
何年もかけ、元の世界に戻ることが不可能だと悟ったユーリは、絶望し暫らく無気力な日々を送った。
だが、いつまでもそうして無為に過ごすわけにもいかない。
ここで生きていく覚悟を決めるためにも、この世界を知らなければならなかった。
常識は教えられていたし、書物で自分なりに学んでもいた。
師に連れられ、何度か外に出て、共に人々からの依頼をこなしたこともある。
しかし、無意識の内に目を閉ざし、深く外と関わることは避けていた。
こちらの世界に迷い込んで随分と時が経っていたが、ユーリにとっての世界は、未だに師や炎狼と過ごしたこの小さな塔だけだった。
だから彼女は、魔力も、知識も、思い出も、今までの全てを塔に封じて旅に出た。
この世界で生きる一人の人間として、新たに歩みだしたかったからだ。
「でも、それがいけなかった」
小さく首を振って、ユーリは唇を引き結んだ。
他を知らなかった彼女は、自分の魔力がどれほど異常なものか、周りにどれほどの影響を与えるのかを分かっていなかった。
長い時をかけ、世界を旅して戻ってきたユーリは、封印したはずの水晶から溢れ出る己の魔力に驚愕した。
旅の間も生産し続けられた魔力は、自動的にこちらへ送られるようにはなっていたが、まさか水晶の容量を超えているとは思いもしなかったのだ。
そして、過去に師と共に外へ出たときの周りの人間の視線を思い出す。
彼らは、まるで化物を見るかのような目でユーリを見ていた。
黒でありながらこれ程の魔力を保有していれば、確かに化物と思われても仕方がないだろう。
そんな化物並みの魔力は、本人の与り知らぬところで、少しずつ確実に周囲へと影響を及ぼしていた。
いつの間にか、塔の近くで育った人間の中に、零れ出た魔力を取り込む者が出てきていたのだ。
己の魔力が世界の理を変えてしまうことに、ユーリは戦慄した。
ただ、月日を経る内に、黒の魔力は世界の常識の一部として取り込まれてしまっていた。
それを変えるという事は、再び世界の理に触れることになる。
だから、ユーリは、これ以上影響が広がるのを食い止める方法を選んだ。
定期的に複雑な魔術を使用し、零れ出る魔力の量を一定にすることにしたのだ。
「この時に、魔力の封印を解いておけば、魔女の呪いなんてもので亡くなる人はいなかったはずなのに。……私は、また間違えてしまったんですね」
かつての己の判断を悔いるように、ユーリは握り締めた拳を振るわせた。




