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※今回の話には、暴力的な表現が含まれています。苦手な方はご注意下さい。
暫くの間、黙ってラズフィスを見上げていたユーリだったが、一度目を伏せてから窓の外へと視線を投げた。
いつの間にか顔を覗かせていた月が、眼下に広がる広大な森を浮かび上がらせている。
「一つ、昔話を聞いてもらえますか?」
ユーリにならってそれを見下ろしていたラズフィスは、囁くような声を耳にして、彼女へと視線を戻した。
じっと外を見つめるその瞳からは、これといった感情は読み取れない。
普段は分かりやすく表情を変えるというのに、彼女は肝心な時はこちらに悟らせないよう隠してしまう。
王城から去っていくときも、ラズフィスの記憶を消したときもそうだった。
「……何だ」
今度は何一つ見逃さぬよう、彼はユーリの一挙一動に気を配りながら先を促す。
問うておきながら、彼女は一瞬、言葉を躊躇う様に口を閉ざした。
やがて、自嘲するような笑みを漏らすと、ユーリはラズフィスを見上げて小首を傾げる。
「自分で言い出しておいてなんですけど、決して気分の良い話じゃないですよ」
「構わない。私が、聞きたいんだ」
彼のの揺るぎない返答に苦笑を返した彼女は、目を閉じ気持ちを切り替えるように一度深呼吸をした。
再び開かれた夜色の瞳には、鬱蒼と茂る森の姿が映し出される。
「これは、自分自身と、この世界と、運命というモノが大嫌いだった、一人の女の話です」
そう前置きをして、ユーリはゆっくりと唇を開いた。
***********
あるところに、年若い一人の娘がいた。
彼女が生を受けたのは、こことは全く異なる文明を持った世界だった。
重たい鉄の塊が、空を飛び、馬車よりも早く地を駆ける。
地面は油で固められた土砂で覆われ、空まで届くような灰色の建築物で埋め尽くされる。
それこそが、娘の故郷だった。
彼女は一般の家庭に産まれ育った、ごく普通の娘だった。
穏やかな父と、料理好きな母、年の離れた少し甘えん坊な妹。
何が幸せかなど、考える必要もないほど幸せな日々だった。
そんな娘の全てが失われた日は、何時もとなんら変わらない朝だった。
その日、学校の授業が2時限目からであった彼女は、少し遅めにベッドを抜け出した。
身支度を整えて階下へ降りると、仕事が休みであった母が朝食の準備をしていた。
二人分のご飯を茶碗によそり、たわいのない話をしながら食事を片付けていく。
そんな中、ふと思い出したように母は娘に問いかけた。
「そう言えば、あんたもうすぐ誕生日でしょ?」
「あー、そう言えばそうだったね」
漬け物をかじりながら、娘はカレンダーに目を向けた。
課題のレポートの期限が迫っていたこともあり、誕生日などすっかり忘れていたのだ。
そんな娘の様子に呆れた表情を浮かべながら、母は空になった皿を片付け始めた。
「ちょうど二十歳の誕生日だし、お父さんも少し奮発するってから、何か考えておきなさいよ」
「分かってるってば。レポート終わったら考えておく」
食器を洗う母の背にこたえながら、娘は顔を洗い、歯を磨く。
何気なく時計に視線を向ければ、いつも利用する電車の時間が迫っていた。
急いで口をゆすぎ、娘は鞄をひっつかむ。
慌ただしく玄関で靴をはく娘を、母は溜め息をつきながら振り返った。
「遅刻しそうだからって、焦って事故にでもあわないでよね」
「はいはい、気をつけますよ」
立ち上がった娘は、勢い良く玄関の戸を開ける。
「じゃあ、いってきまーす」
まさか、それが母との最後の会話になるとも知らずに。
***********
娘が駅の階段を駆け降りると、ホームには既に電車が到着していた。
ドアが閉まる前に何とか滑り込み、ほっと息を吐く。
通勤時間からは僅かにずれているせいか、電車の座席にもちらほらと空席が目立つ。
運良く一番端の席に座れた娘は、イヤホンをつけ、音楽プレイヤーでお気に入りの曲を再生する。
暖かな陽気と、心地良い振動に、徐々に娘の瞼が閉じていく。
目的の駅まで少し眠ることにして、彼女は座席の背もたれに体を預けた。
それから、どれくらいの時間が経ったのか、娘は己の身に吹き付ける冷たい風に身を震わせた。
電車のドアが開いたときに吹き込む風にしては、随分とひんやりとしている。
雨でも降り出したのだろうかと内心首を傾げながら、今朝の天気予報を思い出す。
自分の記憶では、今日の降水確率は低めで、一日中晴れの予報だったはずだ。
それに、何だか電車の背もたれも妙にゴツゴツしていて、座り心地が悪い。
一体何事かと顔を上げた娘は、目の前に広がった光景に絶句した。
彼女の視界に飛び込んできたのは、向かいの座席でも、人集りでも、駅のホームでもない。
見渡す限り、一面の緑であった。
それも、公園のような人の手が加えられたものでなく、どちらかといえば、原始の森とでも言われた方がしっくりとくる。
当然だが、娘の生活圏内にそのような森はなかった。
あまりに現実離れした状況に、夢でも見ているような気になって、娘は己の腕をつねった。
鈍い痛みを感じるものの、目の前の光景が本物とはとても信じがたい。
それでも、風の匂いが、空気が、娘に嫌でも知らしめるのだ。
これが、現実であるということを。
途端に不安が頭をもたげ、娘は座っていた木の根から立ち上がる。
膝に置いていたバッグを、まるでそれがよりどころであるかのように胸に抱え込み、心細げに辺りを見渡す。
父を呼び、母を呼び、妹を、友人達の名を叫ぶ。
だが、当然応える声はなく、冷たい風が娘の頬をなぜただけだった。
突然、背後で金切り声が上がり、娘は飛び上がって後ろを振り返る。
バサバサと遠ざかっていく羽音に、彼女はほっと息を吐いた。
しかし、事態が何ら変わっていないことに思い至り、いっそう気分が滅入っていく。
ここ数年は泣いたことなどなかったのに、年甲斐もなくじんわりと両目が滲んでくる。
どうしたら良いのかと娘が途方にくれていた時、たくさんの足音と話し声が聞こえてきた。
そわそわとしながら辺りを見渡していると、程なくして数名の人間が木々の間から此方へと向かってくる。
その人達は、映画や本でしか見ないような長いローブを纏っていたり、博物館にでも飾ってありそうな西洋の甲冑を身につけている。
まるでパレードか、仮装大会のような格好に、娘は思わず目を見張った。
話しかけて良いものかどうか、娘は僅かに考えを巡らす。
だが、自分の現状が分からない以上、背に腹は変えられない。
それに、あれだけの人数がいるのだから、彼らの中に己の知っている場所まで案内できる者がいる可能性もある。
そうすれば、無事に家に帰ることもできるだろう。
この訳の分からない状況に陥ってから初めて、娘の口元に笑みが浮かんだ。
「あの、すみません……」
声をかけながら走り寄ろうとした娘だった、すぐに足を止めることになった。
娘に気づいた彼らが、一斉に顔をあげ、彼女に目を向けたのだ。
それに加えて、娘に突き刺さる視線は、友好的とは言い難いものだった。
娘は一歩後退り、身を翻して駆け出した。
この森がどこなのか、自分が一体どこへ向かっているのかは分からない。
だが、本能がともかく逃げろと警笛を鳴らしていた。
背後では彼らが何か叫んでいる声が聞こえ、複数の足音が娘の後を追いかけてくる。
娘は必死に駆けたが、やがて息は上がり、足がもつれ始める。
とうとう木の根に躓いて転んでしまった彼女の耳に、ガシャガシャと金属の擦れる音が届く。
恐怖と疲労で笑う膝に力を入れ、娘が何とか立ち上がった時、すぐ側で枝を踏む音がした。
振り返る間もなく髪を掴んで引っ張られ、娘は痛みに悲鳴を上げた。
別の人間に腕を掴み上げられた娘は、その人物を振り払うように闇雲に腕を振り回した。
どこかに肘が当たった気もするし、何かを引っ掻いた気もする。
だが、突然右頬に衝撃を感じ、娘は地面に倒れ込んだ。
唖然と自分を取り囲む人物達を見上げながら、彼女は自分の頬に手を伸ばす。
無意識に触れたそこは、じんじんと熱を持って腫れている。
遅れて、娘は自分が殴られたことを理解した。
力無く座り込んでいた娘だったが、彼らが手にしている物が何かに気付くと、慌ててその腕にしがみつく。
彼らが中を改めようとしていたのは、いつの間にか手放してしまっていたらしい彼女のバッグだった。
「か……返して!!」
腕を伸ばして取り返そうとした娘だったが、再び頬を張られて地面に倒れる。
慌てて顔を上げた時、振り上げられる足が見え、とっさに頭を抱えて身を護るように丸くなった。
背や脇腹を、たくさんの足に踏みつけられ、蹴飛ばされる。
痛みと混乱と恐怖が入り混じり、悲鳴さえ出なかった。
どれくらいそうして暴行に耐えていただろうか。
ようやく開放された時、娘の意識は朦朧としていた。
髪の毛を掴まれて顔を上げさせられても、抵抗する気力も体力も残されていない。
唐突に髪を掴んでいた手が離され、娘は地面に頭を打ちつける。
弱り切っていた彼女は、そのまま薄れいく意識に身を任せた。




