10
かつての記憶を思い出しながら、オルティレイアが笑みを漏らしていると、小さく息を吐く音が重なった。
立派な王となった従弟は、この所北への遠征準備で忙しかったらしく、疲労が溜まっているらしい。
「お疲れのご様子ですから、何か飲みものを用意させましょう」
そんな彼に笑みを漏らしながら、オルティレイアは口を開く。
背後に控えていた古参の侍女に目配せすると、彼女も心得たもので一度部屋を退出し、すぐに銀のカートにポットと茶器を乗せて戻ってきた。
ふんわりと香った匂いに、ラズフィスは懐かしげに目を細める。
侍女が淹れてきたのは、母と叔母が好きだった紅茶で、かつてセルゼオン公の庭で彼女達がこれを飲みながら笑いあっていた事を覚えている。
陶器のカップを持ち上げ、少量含むと僅かな苦味と共に口内に香りが広がった。
一つ息を付いて視線をあげると、同じ様に紅茶を飲んでいたオルティレイアが微笑みながら小首を傾げた。
「他の側妃方の部屋には、もう既に?」
「顔は見せてきた」
「まぁ、それにしては、わたくしの元においでになられるのが、随分とお早いこと」
「引き止められて明日に支障をきたすようでは、元も子もなかろう」
彼女の問いに、ラズフィスは苦笑を浮かべつつ答えを返す。
側妃達の部屋を訪れたまでは良かったのだが、妃や妃付きの侍女達を振り切って退出するのに苦労した。
特にアテユスは、燃えるような赤い髪を振り乱し、泣いて追いすがってきたものだから、落ち着かせるまでに時間がかかってしまった。
あの取り乱しようでは、もし自分が帰って来なかった場合どうなるか分からない。
彼女自身のためにも、一時的に実家に下がらせた方が良いだろう。
ハッフィリーム侯爵に連絡を取らねばと考えていたラズフィスだったが、ふと思い出しオルティレイアに視線を投げた。
「そうであった。この度は、そなたの父や兄にも会うことになる。何か言伝ることはあるか?」
「いいえ、特には。ただ、健やかに過ごしているとだけお伝えくださいませ」
少し考えるように視線を泳がせたオルティレイアだったが、笑みを浮かべると小さく首を振った。
それから暫し談笑を続け、不意に沈黙が続いた後、どこか真剣な様子でオルティレイアは口を開いた。
「陛下、わたくし、お尋ねしたきことがございます」
「申してみよ」
紅茶を口にしていたラズフィスは、カップをソーサーに置くと腕を組み彼女に先を促した。
オルティレイアは夜風を入れるために開け放した窓の外へと視線を投げた。
今はただ暗闇が広がるばかりだが、本来はフェヴィリウスの王都が広がっている。
そして、街の先には森が広がり、更に進めば海と見紛うばかりの大河が悠々と流れている。
豊かな水を湛えたネフアト河を渡った向こうは、オルティレイアの故郷である北の大地だ。
「北の生まれゆえ、わたくしにとって、常闇の魔力はそれなりに身近なものにございます。ですから、そのありがたさも、恐ろしさも、幼き頃より存じ上げておりますの」
寒さの厳しい彼の地は、冬には雪と厚い氷に閉ざされ、独特の静けさに包まれる。
他の領地から見れば寂しい土地かも知れないが、オルティレイアにとって掛替えのない故郷だ。
そんな地にあって、魔女の森は冬でも雪に覆われることのない特異な場所だった。
本来なら実りのない季節にも関わらず、森からはささやかではあるものの、木の実や野草を得ることができた。
北に生きる民に恩恵を与える森は、その不可思議さゆえに畏怖の対象でもあった。
彼の地の子供達は、物心つくころから魔女の森の有り難さと恐ろしさを寝物語に聞かされながら育つ。
「良い子にしていれば森はたくさんの果物をくれるけど、悪い子は魔女に連れ去られてしまうのよ」と、オルティレイア自身も母に幾度となく聞かされていた。
だから、まだ小さかった頃にラズフィスを連れて森の中で鬼ごとをしている内に彼が消えてしまった時は本当に肝が冷えた。
母達の言いつけを破って子供達だけで森に入ったせいで、ラズフィスが魔女に連れ去られてしまったのだと思ったのだ。
兄と泣いて謝りながら森中を探し回り、彼が自分から帰って来た時には心から安堵した。
落ち着いた頃にラズフィスに、森で何があったのかを尋ねてみたが、彼はよく覚えていないようだった。
大人達もあえて蒸し返すこともなく、そのままこの件はいつの間にかうやむやになってしまった。
あれから自分もそれなりに成長し、常闇の魔力の本当の恐ろしさも今は理解している。
魔女の魔力は諸刃の刃。
一度こちらに牙を剥けば、人など容易く消されてしまうのだろう。
それでなくとも、あの森の奥には鋭い牙や爪を持つ獣がたくさん生息している。
森の入り口や泉の辺りならまだしも、森に分け入って狩りをする猟師達は、常に周囲に気を配らなくてはならないほどには危険な場所なのだ。
だからこそ、目の前にいるラズフィスの様子が、オルティレイアには不可解でならなかったのだ。
「この度の出陣は、死地に赴かれるようなもの。それですのに、陛下は随分と安らかなご様子。いいえ、むしろ、心弾まれているようにもみうけられますわ」
もちろん、浮ついているということではない。
ラズフィスからは緊張感が伝わってくるし、何より彼がこの国を、民を、全力で守ろうとしていることも知っている。
だが、その中にあって、ラズフィスの新緑の瞳の奥に、宝物を探しに行く少年のような輝きを見つけたのだった。
下手をしたら魔力の暴走に巻き込まれ、ただではすまないかもしれないと言うのに、その瞳の色はあまりに不釣り合いではないだろうか。
何がそこまで王の心を捕らえるのか、オルティレイアは不思議でならなかった。
「あの北の大地に、陛下のお心を捉えるものがあるのでございましょうか」
「そなたに隠し事はできぬな」
質問をぶつけられたラズフィスは、何とも言えぬ表情で溜め息を付くと、体の力を抜き椅子の背もたれに寄りかかった。
王となってそれなりの時を経て、感情を隠すことも上手くなったというのに、この従姉にはいとも簡単に見抜かれてしまったようだ。
数日前に思い出した記憶は、ラズフィスの中でもまだ消化し切れていない部分が多々ある。
オルティレイアに話しながら整理してみるのも良い機会かもしれない。
そう割り切って、ラズフィスはぽつりぽつりと幼き頃の記憶を話し始めた。
*************
「……それでは、魔女の塔に、『イグシスニアの精』の手掛かりがあるかもしれないのですね?」
最後まで黙って話を聞いていたオルティレイアは、小さく息を吐くと確認するようにラズフィスへと問うた。
「まだ何とも言えぬ。だが、余は、あれが魔女の塔に間違いなかったと思うておる」
「そうですか」
頷きながら答えたオルティレイアは、何かを考えているようだった。
暫らくの沈黙の後、彼女は不意に顔を上げ、その視線でラズフィスを捉えた。
「もう一つ、よろしいでしょうか?」
真っ直ぐとこちらを見つめるオルティレイアに、ラズフィスは無言で先を促す。
「王妹殿下や、陛下の客人として招かれ、ここ数日姿を見かけなくなった女性。あの方が、『イグシスニアの精』殿だったのでございましょう?」
一瞬だけ息を止め、ラズフィスはゆっくりと息を吐き出した。
ゆるく首を振った彼の顔には、苦笑が浮かんでいる。
その表情で、オルティレイアは自分の考えが正しかったことを知った。
「……そなたには敵わぬ」
「産まれた頃からの付き合いですもの。陛下のご様子を見れば分かりますわ」
基本的に後宮の中で過ごす側妃だが、何も行動が制限されている訳ではない。
花を愛でに美しく整えられた庭園に赴くこともあれば、騎士達の修練を遠くから視察することもある。
そんな中で、彼女は王と共に居る『イグシスニアの精』を見かけたことがあった。
彼らは中庭でなにやら立ち話をしているようだった。
そこに、王の精霊がかけてきて、その勢いのままに黒髪の女性へと飛びついた。
慌てた様子の女性は、よろけつつも精霊を抱きとめ、ほっと溜め息をついたようだった。
その微笑ましい様子を眺めていたオルティレイアは、不意に王の表情を見て驚きに目を瞠った。
彼の疲れた表情や、苦笑交じりの表情、王としての真剣な表情はよく目にしている。
だが、これほどまでに安らいだ、穏やかな顔をみたのは本当に久しぶりのことだったからだ。
それは彼が以前、オルティレイアに『イグシスニアの精』の思い出を話してくれた時の顔によく似ていた。
ただ、その時はすぐに表情を曇らせてしまったけれど。
あれから20年近く経って、ラズフィスはようやく探し続けた人を見つけることができたのだ。
心の底から安堵していたというのに、目の前の彼からは再びあの穏やかな表情は消えてしまっていた。
「ようやく手元へ戻ったと思ったのに、また失ってしまった」
そう呟いて両手を握り締めるラズフィスに、オルティレイアは静かに問いかけた。
「あの方を、愛しておられるのですね」
「さあな、よく分からぬ」
溜め息をつきながら、ラズフィスはソファーの背に身体を沈める。
そっと細められた翠の瞳は、静かに宙を見つめていた。
「人は余を、太陽のようだと言う。だが、余に、私にとって、彼女こそ穏やかな陽の光りだった」
ユーリが王城に居たのは、ラズフィスが幼かった頃と合わせても半年に満たない。
彼女と共に過ごした時間など、その中の数ヶ月程度だろう。
一部の噂のように、特に親密な関係となった訳でもない。
それでも、彼女は自分の側に無くてはならぬものであり、換えのきかぬ存在だった。
イグシスニアの樹の下で浴びる木漏れ日のように、そこにあるだけで安らぎを覚える。
それが愛であるのか、ラズフィスにも正直なところ分からない。
ただ、あの幼き日の出会いから、ラズフィスの心にはユーリの存在が深く刻まれてしまっていた。
記憶を書き換えられてなお、大切に心の奥にしまいこむくらいには。
両手を握り、静かに瞳を閉じたラズフィスを見つめ、オルティレイアは目を細め僅かに寂しげな表情を浮かべた。
自分は、きっとそこまで思いを傾けられる人間には出会えない。
10年の勤めを終え、故郷に戻ればすぐに次の縁談が舞い込むだろう。
オルティレイアのような魔力持ちは、寿命もそれなりに長く、老いるのも遅い。
もう30の年を数えるが、王族の血筋である彼女を望む者は両手で余るほどいるのだ。
父や兄の決めた相手の元へ嫁ぎ、子をなし、王族の血を繋げる。
王家の血を繋ぐ者として、当たり前と教えられてきた事だが、ほんの少しだけ目の前の従弟が眩しく見えた。
「そのような方がおられる、陛下がお羨ましゅうございます」
「そうでもない」
オルティレイアの呟くような声に答えたラズフィスは、苦味を混ぜたような複雑な笑みを浮かべる。
気持ちを切り替えるように一つ息を吐き、彼は窓の外へと視線を向けた。
「もう朝だな。そろそろ戻ることにする」
いつの間にか、窓の外は白み始めていた。
今日の昼前には出立式を終え、北へと向かわなければならない。
いい加減、自室に戻らなければ、その準備も差し迫ったものになってしまう。
ソファーから立ち上がったラズフィスに続き、オルティレイアも王を見送るため、共に扉の前へと移動する。
侍女が外へと声をかけると、待機していた近衛兵が素早く扉を開けた。
「オルティレイア」
足を踏み出す前に、ラズフィスは改まって名を呼ばわった。
彼女が彼を見上げると、新緑の瞳がこちらを見下ろしている。
成長しても、ラズフィスの、この色だけは変わらない。
オルティレイアの好む色だった。
「あなたには随分と世話になった。本当に感謝している」
「勿体無いお言葉ですわ」
王としてではなく、彼自身の言葉に、オルティレイアは笑みを深くする。
この10年間、本当の側妃ではなくとも、ラズフィスは不自由の無いよう細心の配慮をしてくれた。
きっと、後宮に住まう他の妃達にも、同じように心配りをしているだろう。
至高の色を持つ王は、あまねく地上を照らす光りのように、平等に心を分け与えるのだ。
ただ一人、夜色を纏う女性以外には。
ラズフィスは、彼女のことを太陽と言ったが、オルティレイアはまるで月夜のようだと思う。
人々に安息を与える夜の女神アーリアは、対となる太陽神ウィシュトの腕に、その身をゆだねることは決してない。
そんなことになれば、昼と夜が交じり合い、世界が壊れてしまうからだ。
故に、夜の女神は、半身である太陽神を振り返ることはない。
だが、オルティレイアの従弟は太陽でも、ましてや神でもないのだ。
彼の人を追って捕まえたところで、何の咎めがあろうか。
「ラズ、我が愛おしき従弟殿」
ラズフィスが部屋の扉の向こうに消える前に、オルティレイアはその背に向けて声をかける。
彼は足を止めて振り返ると、懐かしい呼び名に不思議そうな顔で首を傾げた。
オルティレイアは笑みを浮かべ、ドレスの両端を持ち上げ、恭しく頭を下げた。
「どうか、お気を付けて。あなたの安息が戻ること、心より祈っています」
閉まっていった扉の向こうで、彼がどんな表情をしたのかは分からなかった。
オルティレイアは顔を上げ、開け放していた窓辺へと近付く。
もうすぐ、夜が明ける。
北への出立の時間が、間近に迫っていた。
 




