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(お兄様はひどいわ!)
クリスティーナは寝台にうつ伏せたまま、ぼろぼろと涙を流していた。
寝室の外で、侍女達がおろおろと右往左往している気配はするが、クリスティーナが人払いを命じているため、中に入ってくることはない。
ひとり嗚咽を漏らしながら、彼女はきつく唇を噛み締めた。
つい先程、クリスティーナは兄に王都に残るように申し渡されたところだった。
てっきり自分もついて行くのだと思っていただけに、彼女は唖然と王座に座る兄を見上げた。
我に返ったクリスティーナは、己も役に立ちたいと訴え続けたが、とうとう彼女の訴えが受け入れられることはなかった。
様々な感情が入り乱れて、結局クリスティーナは一言も発することなく兄の前を辞した。
真っ白になった頭のまま、どうやって自室まで辿り着いたかもよく思い出せない。
部屋に入るなりベッドに倒れこみ、一頻り泣いたところで、ようやく彼女は自分の感情と向き合うことができた。
王都に一人残されることもショックではあった。
だが、前日まで詳しいことが知らされていなかった事実が、自分は何よりも悔しかったらしい。
(わたくしだって、王族のはしくれなのに……)
まるで蔑ろにされたようで、悲しくて仕方がなかったが、冷静になってみれば王都に残される理由だって想像がついた。
クリスティーナは、戦に有用な補助魔法を知らず、攻撃魔法に至っては飛ぶ羽虫を焼く程度だ。
魔女の森へとついて行ったところで、足手まといになるのは目に見えている。
激しい攻防が繰り広げられるかもしれない場に、兄が自分を連れて行くはずがなかった。
かと言って、王都に残ってできることといったら、精々皆の邪魔にならぬように部屋で大人しくしていることしかできない。
末の娘であったクリスティーナは、他国へ留学に行った異母兄や姉達と違い、政に関しては殆ど無知といって良いだろう。
国の成り立ちや政の仕組みは授業の一つであったが、殊の外難しく、つまらないもので、真剣に学んではいなかった。
優秀な兄や姉がいるため、自分が政に関わる可能性などこれっぽちもないと、高をくくっていたのだ。
このような王族に、皆が期待するはずがない。
(あぁ、わたくしは、愚か者だわ。今になって、ようやく気付いた)
今まで自分は、国の大事に自分がどう行動すれば良いかなど、想像したこともなかったのだ。
むしろ、この泰平の世で、戦術など学ぶ必要があるのかとさえ思っていた。
一方で、兄の自室には、数え切れぬ程の書物が溢れかえっている。
その種類は、この国の年代記であったり、戦術の書物や、経済学の書物であったりと幅広い。
そのどれもが擦り切れ、ぼろぼろになるまで読み込まれている。
それに比べて、己の書物棚はどうだろう。
王族として必要な嗜みだからと言われ、それなりに書物を集めはしたが、自分の興味のある物しか読み込んではいない。
それにしたって、ほんの数回読んだ程度で新品のものと変わりなく、兄の書物に比べるべくもなかった。
そんな部分にさえ見える差に、クリスティーナは恥入るばかりだ。
(王族としての心構えを、わたくしは少しも理解していなかったのだ)
今更気付いたところで、もう遅いのかもしれない。
でも、だからと言ってここで諦めてしまっては、今までと何一つ変わらないではないか。
クリスティーナは涙を拭くと、自分を奮い立たせるように顔を上げる。
(もっと、しっかり学ばなくては。何かあった時、今度はわたくしも、皆の役にたてるように)
真っ直ぐに前を見つめ、クリスティーナは寝台から立ち上がった。
*************
寝支度を整えていたオルティレイアは、突然の王の渡りに美しい茜色の目を瞠った。
明日、王は騎士や魔導師を伴って北へと出立する。
そのような大事の前夜に、まさか後宮へ来るとは思っていなかった彼女は、当然夜着に着替えていた。
取り敢えず侍女達に命じて、夜着から比較的ゆったりとした、見苦しくない程度の衣服に着替える。
幼い頃から己に仕えてくれている年配の侍女が、背後から暖かなショールを掛けてくれた時、見計らったように王の来訪が告げられた。
腰掛けていたソファーから立ち上がり、オルティレイアは深く頭を垂れて後宮の主を迎え入れた。
「陛下、この様な夜に後宮においでとは、如何なさいましたか?」
部屋へと入ってきた王は、どこか疲れた様子でソファーに腰掛けた。
そして、何を思い出したのか、苦虫を噛み潰したような表情で重い息を吐いた。
「大臣達に懇願された挙げ句、自室を追い出されたのだ」
大臣達からすれば、当然の行動だろう。
金の魔力を持つ者は、フェヴィリウスの王族のみから誕生する。
基本的に親の属性は関係無く、魔力の質と産まれた子の魂によると言われているが、やはり金の魔力持ちが産まれた血筋の方が確立が高いようだった。
そのため、現在唯一の金であるラズフィスに対する臣下達の期待も並々ならぬものがある。
今宵、こうして涙ながらに後宮へ追い出されたのも、少しでも世継ぎの可能性を残したいがためなのだろう。
「まぁ、それなのに、陛下がわたくしの所にいらしているようでは、大臣方の苦労も水の泡でしょうに。お可愛そうなこと」
ラズフィスと同じ考えに思い至ったらしいオルティレイアは、口元に軽く手を当て、楽しげにころころと笑い声を立てる。
それは純粋に事の成り行きを面白がっている笑みであり、また同じ密事を抱えた者の笑みでもあった。
10年近く、臣下を、民すら謀り続けいている共犯者。
それが、ラズフィスとオルティレイアの関係だった。
最も寵愛されていると言われる側妃が、王と男女の間柄でないことを知るのは、この王城内でもほんの数名だけだ。
ラズフィスにとってのオルティレイアは良き相談相手であり、彼女にとって彼は弟のような存在だった。
オルティレイアと王の母親は仲がよいこともあり、彼女達の子である自分達も共に過ごす機会が多かった。
年が近いせいもあったのか、王と最も仲が良かったのはオルティレイアで、彼女は姉様と呼びながら自分の後をついて回る幼子を本当の弟のように可愛がっていた。
それなりに成長してからは会う機会もめっきりと減ったが、文で近状を報告しあうような関係は常に続いていた。
だからこそ、オルティレイアは、ラズフィスが幼き頃からずっと、ただ一人の女性を探し続けていた事も知っている。
がむしゃらになって捜索魔法を学ぶ彼を見かねて、一緒に文献探しを手伝った事も幾度かあった。
そんな訳だから、ラズフィスが王となるのと同時に、自分の後宮入りの話が持ち上がったことに、オルティレイアは大いに驚いた。
王太子時代の彼は、たくさんの婚約者候補に見向きもせず、国政や魔術、武術を学び、その傍らで『イグシスニアの精』を探し続けていたからだ。
ラズフィスの中で何かが変わったのか、周りの意図によるものかは分からないが、恐らく何かしらの理由があるのだろう。
しかし、オルティレイアがその理由を聞くことができたのは、それから暫らくたってからのことだった。
先代王が亡くなったことで政局も落ち着かず、彼女の後宮入りの話も先延ばしにされたからだ。
それなりに王都が落ち着いた頃、彼女はラズフィスの即位祝いも兼ねて王都へと赴いた。
久しぶりに会ったラズフィスは心労もあるのか、少しやつれているようだった。
彼は迎え入れたオルティレイアを前に、僅かに苦笑を浮かべてみせた。
挨拶もそこそこに、人払いをした自室で、彼はオルティレイアに事情を話し始めた。
やはり、今回の件は王となったにも拘らず、一人も妃のいないラズフィスに痺れを切らした古参の大臣達の計略によるものだったらしい。
王となったからには、魔力の強い跡継ぎをなすのもまた役目の一つである。
なにせ、この国は王の力なくては成り立たない。
フェヴィリウスの国境には、他国の侵攻を防ぐ強力な結界が張り巡らされている。
結界を維持するのは歴代の王の務めであり、よほどの魔力がなくてはそのような芸当は不可能だ。
この結界こそ、フェヴィリウスの王は最強の盾であるという由縁の一つとなっている。
国政に、防衛に、王はその在位中死力を尽くすのだ。
王となったラズフィスは、王太子であった頃よりさらに己の時間は減るだろう。
それなのに、後宮に妃が入れば、ますます彼自身のために使える時間は減ってしまう。
すなわち、ラズフィスが今まで続けてきた『イグシスニアの精』を探すことは、実質諦めなければならなくなる。
そもそも、殆ど魔力もなく、詳しい素性も知らぬ女性を探し出すなど、砂漠の中から砂金を見つけ出すようなもの。
決して、片手間にできることではない。
オルティレイアが、『イグシスニアの精』は諦めるのかと尋ねると、ラズフィスは暫し黙り込んだ。
そうして深く息を吐き、「王となる道を選んだは、余自身だ。余はこの国の王として、勤めを果たさねばなるまい」とだけ呟いた。
彼が浮かべた苦笑に、オルティレイアは未だに彼が『イグシスニアの精』に心を残していることを知った。
そんなラズフィスの想いを知る自分が、彼の願いを諦めさせる要因にはなりたくなかった。
だから、オルティレイアは側妃となったとき、ラズフィスに一つの提案をした。
自分は未だ彼を一人の男性として見ることができず、彼もまた子を生すより他に心を傾けたいことがある。
ならば、暫らくの間様子をみてはどうか、と。
もし、お互いに男女の愛が芽生えれば、真の夫婦となるのも良いだろう。
しかし、歳月を経てなお、そのような兆しが見られぬのならば、自分は側妃の任を降りる事にすると。
もともと、後宮では10年の間王の手がつかなかった場合、側妃は里に戻る許可を与えられる決まりとなっている。
あれからもうすぐ10年が経つが、とうとう二人の関係が変化することはなかった。
オルティレイアは彼を陰ながら支援し続け、ラズフィスは彼女の部屋で『イグシスニアの精』の捜索を続けた。
王の寵愛の裏でこのような事実があったなど、きっと誰も想像しはしなかっただろう。




