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鳥の囀りが聞こえ、ラズフィスは瞼を震わせた。
吹き抜ける心地良い風に表情を緩ませかけ、ふと眉を顰める。
閉じた瞼の裏からでも分かるほど、部屋の中が明るい。
そこから推測するなら、もう随分と日が高いはずだ。
普段の起床時間から考えると、だいぶ寝過ごしていることになる。
ここまで自分が起きてこなければ、普通は侍従が声をかけにくるはずだ。
しかし、今日は一向に起こしに来る気配がない。
どうしたことかと訝しみながら、ラズフィスは目を開けてゆっくりと体を起こした。
妙に体がだるく、内心で首を捻っていると、ドアが開く音がする。
そちらへ視線を向けると、入り口で立ち尽くしていた侍従頭が大きく目を見開いた。
「へ、陛下! お目覚めでございますか!」
彼は放り投げる勢いで荷物を机に置くと、一目散にベッドに駆け寄る。
その剣幕に驚いて固まるラズフィスの顔色を真剣に確認し、後ろに控えていた侍従達に指示を出した。
「誰ぞ、医者を呼んで参れ! 第一魔導師長様と宰相様方にもお伝えせよ!」
「は、はい!」
早足で部屋を出て行く侍従を見送ってから、侍従頭は改めてラズフィスに向き直る。
年を経て小さくなった彼の体が震えだし、その両目から涙が零れ落ちた。
幼い頃から身の回りの世話をしてくれていた侍従頭だが、最近は涙もろくて困る。
苦笑を漏らしながら、ラズフィスは彼に声をかけた。
「どうしたのだ、アルノー。 また、曾孫がじぃとでも呼んでくれたか?」
「いいえ、いいえ」
侍従頭はくしゃくしゃになった顔のまま、ラズフィスの手を握りしめた。
「陛下がお目覚めになられましたこと、それに勝るとも劣らぬ喜びにございます!」
彼に続き、今まで控えていた侍従達も表情を和らげ、安堵の息を吐く。
その様子に首を傾げかけ、そう言えば賊に襲われたのだったと思い出す。
寝起きとはいえ、そんな重要なことを忘れているところをみると、まだ本調子とはいかないらしい。
体調が戻ったら、騎士団長やフォルト達と話し合い、警備を調整しなければならないだろう。
賊に易々と王の私室に入られているようでは不味い。
それに、暫く剣の鍛錬まで手が回らなかったが、身体を鍛え直す必要がある。
祝賀会後で少し気が抜けていたとはいえ、簡単に賊に傷つけられるようでは他国に示しもつかない。
そこまで考えて、ラズフィスは時折生まれる違和感に眉を寄せる。
「陛下、いかがなされましたか? もしや、体調が優れませんか?」
「いや、そうではない」
心配そうな侍従頭の問いに軽く否定の言葉を返しつつ、ラズフィスは目を細め、ここ暫くの記憶を反芻する。
確かに、ここひと月近く剣の鍛錬はしていなかった。
だが、その前には兵達と協力しつつ、ゴーレムを倒しているのだ。
鈍っているとは言っても、そう簡単に傷を付けられるとは思えない。
何より不可解なのは、自分が賊に抵抗した記憶がないことだ。
剣を手元に引き寄せたのは覚えているが、それを抜いた覚えがない。
いくら相手が手練れであったとしても、己が無抵抗なのはどうにも違和感が拭えなかった。
そして、何よりもおかしいのは、賊の顔が思い出せないことだ。
数日前の出来事であったにも関わらず、記憶の中の賊の顔は、霞が掛かったかのようにはっきりしない。
思い出そうとする度、どうでも良いかという気になって、考えるのを止めてしまうのだ。
自分の思考を止める何かを振り切るように、ラズフィスは首を振って意識を集中させる。
国王を襲った賊の顔が、どうでも良いわけがない。
それに、ここで思い出すことを放棄したら、永遠に何かを失う気がした。
ラズフィスを邪魔するように、つきり、つきりと頭の奥が痛み出す。
抗いながら、彼は少しずつ、慎重に記憶の紐を解いていく。
その最奥、何かから守るように秘されていた記憶の欠片に手を伸ばした途端、強烈な頭痛に襲われた。
「っう……」
「陛下!」
「いかがなされました!」
割れるような痛みに、ラズフィスは思わず頭を抱える。
焦る侍従達の声に、答える余裕すらない。
走馬灯のように駆け巡る情景の後、彼が鮮明に思い出したのは、あの幼き日の記憶だった。
*************
ラズフィスはしゃくりあげながら、暗い森の中を彷徨っていた。
木の根に足を取られ、転んだ時に擦りむいた掌と膝がじんじんと痛む。
汚れて血の滲んだ膝を目にし、彼の両目から新しく大粒の涙が零れ落ちた。
(おかあさま、セルジオにいさま、オルティねえさま、みんな、どこにいるの?)
先程まで一緒に遊んでいたいとこ達の名を呼びながら、ラズフィスはとぼとぼと歩き出す。
不気味な鳴き声にびくりと身体をすくめて、彼は頭上を仰いだ。
大きな鳥の影が、ギャーギャーと悲鳴のような声を上げて通り過ぎて行く。
暫く息を詰めていたラズフィスは、鳥が遠くへ飛び去るのを確認して大きく溜め息をついた。
だが、再びじわじわと不安や恐怖が頭をもたげてくる。
少し前まで秘密の森に入ったようでわくわくしていたのに、今の森はまるで絵本に出てくる死の森のようだ。
空気までもがひんやりと冷たく、ラズフィスを拒絶している。
ざわざわと揺れる木の枝が、己を襲ってくるのではないかと思われ、彼は目を瞑って駆け出した。
「わぁ!」
闇雲に走っていたラズフィスは、突然現れた茂みに頭から突っ込む。
葉っぱだらけになってしまった頭を振ってから、彼は恐る恐る目を開ける。
そうして、目の前の光景にぽかりと口を開けた。
「おおきな、いしのとうだ……」
目前にあったのは、高く聳える古い石造りの塔だった。
塔の天辺は雲に隠れていて、首が痛くなるくらい見上げても、確認することができない。
石の表面には、建てられてからの年月を示すように、びっしりと蔓が這っている。
先程までの恐怖も忘れ、まじまじと塔を見上げていたラズフィスは、背後から聞こえた草を踏む音に飛び上がった。
勢い良く振り向いた先に居たのは、ローブを纏った、長い黒髪の女性だった。
彼女はラズフィスを目にし、驚いたように幾度か瞬きを繰り返す。
「人の気配がすると思って来てみれば、子供ですか」
ラズフィスは警戒しながら、黒髪の女性を見つめる。
こんな森の中に一人で居るなんて、もしかしたら人間ではないのかもしれない。
何時でも逃げ出せるようにと、ラズフィスは息を呑んで拳を握りしめた。
「結界を張りなおす時に、丁度良く迷い込んじゃったんですかねぇ」
無言のラズフィスは気にも止めず、女性は独り言のように呟き、不思議そうに小首を傾げた。
その人間くさい仕草に毒気を抜かれ、ラズフィスは我知らず肩から力を抜く。
悩むように宙を見つめる彼女が、人を騙す化け物には思えなかった。
もしかしたら、彼女は近くの村人で、木の実でも取りに来ていたのかもしれない。
ラズフィスは気持ちを落ち着けるために深呼吸をし、思い切って彼女に声をかけることにした。
「あの、あなたは、だあれ? このちかくにすんでいるひと?」
緊張したためか、少し声が裏返ってしまい、ラズフィスの顔が赤らむ。
女性は目を丸めてこちらを見ると、考え込むように口元に手をやった。
「私ですか? まぁ、近くと言えば近くでしょうし、遠くと言えば遠くですか」
彼女の不可思議な言葉に、今度首を傾げるのはラズフィスの番だった。
女性は、何と表現したら良いんですかねぇ、などと呟きながら難しい顔で眉を寄せている。
よく分からないが、少し遠い場所から来ているということだろうか。
「名は、そうですねぇ……」
女性はどこかに視線を走らせ、少し間を置く。
不思議そうに見上げてくるラズフィスに笑い返し、彼の目の前で指を一本立てた。
「では、オリスと言うことで」
彼女が告げた名に、ラズフィスは目をみはった。
「オリス? あなたはおはなと、おなじなまえなんだね」
「おや、よく知っていましたね」
「おとうさまが、おかあさまのたんじょうびに、おくったはなだもの」
意外そうな顔をするオリスに、ラズフィスは得意気な笑みを返す。
美しく、大ぶりな白い花は、母のお気に入りだ。
そこまで考えてから、ラズフィスは不意に母達の事を思い出して顔を曇らせた。
人に会えて安心したが、まだ問題は山積みだったのだ。
自分はもう一度森に入り、皆を探さなければならない。
再び襲ってきた不安に、ラズフィスは我知らず胸元を握りしめた。
その拍子に、胸ポケットに入れていた白いハンカチが落ちる。
ひらひらと風に舞って、それはオリスの足元に落ち着いた。
「何か落としましたよ」
ハンカチに気付いたオリスが、拾うために身をかがめ、ぴたりと動きを止める。
彼女は目を見開き、じっと手に取ったハンカチを凝視していた。
その異様な様子に、ラズフィスは先程の不安も忘れ、思わず声をかける。
「オリス、どうしたの?」
「あなた、フェヴィリウスの王族だったんですか」
彼女はハンカチを見下ろしたまま、囁くように言葉を漏らした。
そう言えば、あのハンカチには王族の紋章が刺繍されていたのだ。
ラズフィスはぎくりと身体を強張らせ、口を引き結ぶ。
彼は常々、周りの者達から言い含められていることがあった。
もし城の外で一人になることがあったら、決して身分を明かしてはならないと。
王子であると気付かれると、妙な事件に巻き込まれる可能性もあるからだ。
特に、ラズフィスは一目みて王族と分かる色を持っている。
そのため、王城を出るときには、必ず髪色を変える魔術が施された。
現に、今も己の髪は、他者から見れば濃紺に見えるはずだ。
ハンカチのせいで、オリスに王族ということは知られてしまった。
だが、まだ第一王子であることまでは気付かれていないだろう。
何となく、彼女になら教えても良いかもしれないとも思うが、自ら危険な橋を渡るのも気が引けた。
ラズフィスがぐるぐると悩んでいる間も、オリスは紋章を見つめ続けている。
そして、不意に眉を下げると、小さく呟いた。
「大地に根をはる世界樹と、それを抱く三つ足の鳥って……。あの男ときたら本当に単純と言うか、素直と言うか」
どこか懐かしげな彼女の声色に、ラズフィスは小首を傾げる。
このハンカチに刺繍された紋章は、王族が個人的な事でのみ利用するものだ。
普段使われている王族の紋章は、天駆ける獅子とヤドリギである。
そのため、普通の人間なら、当然目にする機会はない。
オリスが只の村人であるなら、この紋章の意味など知らないはずなのだ。
そういった油断もあり、ラズフィスは落ちたハンカチをすぐに取り返さなかった。
しかし、その特殊な紋章を懐かしそうに見ているということは、彼女は王族に縁のある人間なのだろうか。
もしそうだとしたら、自分の身分を明かして、運が良ければ母か祖父の元に連れて行ってもらえるかもしれない。
嬉しさで緩んだ顔を上げたラズフィスだったが、オリスの瞳を目にして息を呑む。
先程まで、懐かしげに細められていた黒曜の瞳が、いつの間にか寂しそうな色を浮かべていたからだ。
「これも、縁ということでしょうかね」
オリスは眉を下げ、ほんの少し痛みを耐えるような表情で刺繍を撫でると、大きく息を吐き出した。
そして、心配そうに自分を見ているラズフィスに気付き、目を丸める。
「あの……」
どう声をかければ良いのかと悩む彼に、くつりと笑みを漏らし、ハンカチを差し出す。
ラズフィスが戸惑いながらそれを受け取ると、オリスはその場を立ち上がった。
彼女は軽くローブの裾を叩き、踵を返す。
数歩足を進めてから、オリスはラズフィスの方を振り返った。
「いらっしゃい、王に連なるものよ。怪我の処置くらいはしてあげましょう」
そう言って穏やかな笑みを浮かべ、彼女は再び歩き出す。
慌ててハンカチをポケットにしまい、ラズフィスはオリスの後を追いかけた。




