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常闇の魔女  作者: 空色
第4章 常闇の魔女
46/80

5


鳥の囀りが聞こえ、ラズフィスは瞼を震わせた。

吹き抜ける心地良い風に表情を緩ませかけ、ふと眉を顰める。

閉じた瞼の裏からでも分かるほど、部屋の中が明るい。

そこから推測するなら、もう随分と日が高いはずだ。

普段の起床時間から考えると、だいぶ寝過ごしていることになる。


ここまで自分が起きてこなければ、普通は侍従が声をかけにくるはずだ。

しかし、今日は一向に起こしに来る気配がない。

どうしたことかと訝しみながら、ラズフィスは目を開けてゆっくりと体を起こした。

妙に体がだるく、内心で首を捻っていると、ドアが開く音がする。

そちらへ視線を向けると、入り口で立ち尽くしていた侍従頭が大きく目を見開いた。



「へ、陛下! お目覚めでございますか!」



彼は放り投げる勢いで荷物を机に置くと、一目散にベッドに駆け寄る。

その剣幕に驚いて固まるラズフィスの顔色を真剣に確認し、後ろに控えていた侍従達に指示を出した。



「誰ぞ、医者を呼んで参れ! 第一魔導師長様と宰相様方にもお伝えせよ!」

「は、はい!」



早足で部屋を出て行く侍従を見送ってから、侍従頭は改めてラズフィスに向き直る。

年を経て小さくなった彼の体が震えだし、その両目から涙が零れ落ちた。

幼い頃から身の回りの世話をしてくれていた侍従頭だが、最近は涙もろくて困る。

苦笑を漏らしながら、ラズフィスは彼に声をかけた。



「どうしたのだ、アルノー。 また、曾孫がじぃとでも呼んでくれたか?」

「いいえ、いいえ」



侍従頭はくしゃくしゃになった顔のまま、ラズフィスの手を握りしめた。



「陛下がお目覚めになられましたこと、それに勝るとも劣らぬ喜びにございます!」



彼に続き、今まで控えていた侍従達も表情を和らげ、安堵の息を吐く。

その様子に首を傾げかけ、そう言えば賊に襲われたのだったと思い出す。

寝起きとはいえ、そんな重要なことを忘れているところをみると、まだ本調子とはいかないらしい。


体調が戻ったら、騎士団長やフォルト達と話し合い、警備を調整しなければならないだろう。

賊に易々と王の私室に入られているようでは不味い。

それに、暫く剣の鍛錬まで手が回らなかったが、身体を鍛え直す必要がある。

祝賀会後で少し気が抜けていたとはいえ、簡単に賊に傷つけられるようでは他国に示しもつかない。

そこまで考えて、ラズフィスは時折生まれる違和感に眉を寄せる。



「陛下、いかがなされましたか? もしや、体調が優れませんか?」

「いや、そうではない」



心配そうな侍従頭の問いに軽く否定の言葉を返しつつ、ラズフィスは目を細め、ここ暫くの記憶を反芻する。

確かに、ここひと月近く剣の鍛錬はしていなかった。

だが、その前には兵達と協力しつつ、ゴーレムを倒しているのだ。

鈍っているとは言っても、そう簡単に傷を付けられるとは思えない。


何より不可解なのは、自分が賊に抵抗した記憶がないことだ。

剣を手元に引き寄せたのは覚えているが、それを抜いた覚えがない。

いくら相手が手練れであったとしても、己が無抵抗なのはどうにも違和感が拭えなかった。


そして、何よりもおかしいのは、賊の顔が思い出せないことだ。

数日前の出来事であったにも関わらず、記憶の中の賊の顔は、霞が掛かったかのようにはっきりしない。

思い出そうとする度、どうでも良いかという気になって、考えるのを止めてしまうのだ。


自分の思考を止める何かを振り切るように、ラズフィスは首を振って意識を集中させる。

国王を襲った賊の顔が、どうでも良いわけがない。

それに、ここで思い出すことを放棄したら、永遠に何かを失う気がした。


ラズフィスを邪魔するように、つきり、つきりと頭の奥が痛み出す。

抗いながら、彼は少しずつ、慎重に記憶の紐を解いていく。

その最奥、何かから守るように秘されていた記憶の欠片に手を伸ばした途端、強烈な頭痛に襲われた。



「っう……」

「陛下!」

「いかがなされました!」



割れるような痛みに、ラズフィスは思わず頭を抱える。

焦る侍従達の声に、答える余裕すらない。

走馬灯のように駆け巡る情景の後、彼が鮮明に思い出したのは、あの幼き日の記憶だった。







*************







ラズフィスはしゃくりあげながら、暗い森の中を彷徨っていた。

木の根に足を取られ、転んだ時に擦りむいた掌と膝がじんじんと痛む。

汚れて血の滲んだ膝を目にし、彼の両目から新しく大粒の涙が零れ落ちた。



(おかあさま、セルジオにいさま、オルティねえさま、みんな、どこにいるの?)



先程まで一緒に遊んでいたいとこ達の名を呼びながら、ラズフィスはとぼとぼと歩き出す。

不気味な鳴き声にびくりと身体をすくめて、彼は頭上を仰いだ。

大きな鳥の影が、ギャーギャーと悲鳴のような声を上げて通り過ぎて行く。


暫く息を詰めていたラズフィスは、鳥が遠くへ飛び去るのを確認して大きく溜め息をついた。

だが、再びじわじわと不安や恐怖が頭をもたげてくる。

少し前まで秘密の森に入ったようでわくわくしていたのに、今の森はまるで絵本に出てくる死の森のようだ。

空気までもがひんやりと冷たく、ラズフィスを拒絶している。

ざわざわと揺れる木の枝が、己を襲ってくるのではないかと思われ、彼は目を瞑って駆け出した。



「わぁ!」



闇雲に走っていたラズフィスは、突然現れた茂みに頭から突っ込む。

葉っぱだらけになってしまった頭を振ってから、彼は恐る恐る目を開ける。

そうして、目の前の光景にぽかりと口を開けた。



「おおきな、いしのとうだ……」



目前にあったのは、高く聳える古い石造りの塔だった。

塔の天辺は雲に隠れていて、首が痛くなるくらい見上げても、確認することができない。

石の表面には、建てられてからの年月を示すように、びっしりと蔓が這っている。


先程までの恐怖も忘れ、まじまじと塔を見上げていたラズフィスは、背後から聞こえた草を踏む音に飛び上がった。

勢い良く振り向いた先に居たのは、ローブを纏った、長い黒髪の女性だった。

彼女はラズフィスを目にし、驚いたように幾度か瞬きを繰り返す。



「人の気配がすると思って来てみれば、子供ですか」



ラズフィスは警戒しながら、黒髪の女性を見つめる。

こんな森の中に一人で居るなんて、もしかしたら人間ではないのかもしれない。

何時でも逃げ出せるようにと、ラズフィスは息を呑んで拳を握りしめた。



「結界を張りなおす時に、丁度良く迷い込んじゃったんですかねぇ」



無言のラズフィスは気にも止めず、女性は独り言のように呟き、不思議そうに小首を傾げた。

その人間くさい仕草に毒気を抜かれ、ラズフィスは我知らず肩から力を抜く。

悩むように宙を見つめる彼女が、人を騙す化け物には思えなかった。

もしかしたら、彼女は近くの村人で、木の実でも取りに来ていたのかもしれない。

ラズフィスは気持ちを落ち着けるために深呼吸をし、思い切って彼女に声をかけることにした。



「あの、あなたは、だあれ? このちかくにすんでいるひと?」



緊張したためか、少し声が裏返ってしまい、ラズフィスの顔が赤らむ。

女性は目を丸めてこちらを見ると、考え込むように口元に手をやった。



「私ですか? まぁ、近くと言えば近くでしょうし、遠くと言えば遠くですか」



彼女の不可思議な言葉に、今度首を傾げるのはラズフィスの番だった。

女性は、何と表現したら良いんですかねぇ、などと呟きながら難しい顔で眉を寄せている。

よく分からないが、少し遠い場所から来ているということだろうか。



「名は、そうですねぇ……」



女性はどこかに視線を走らせ、少し間を置く。

不思議そうに見上げてくるラズフィスに笑い返し、彼の目の前で指を一本立てた。



「では、オリスと言うことで」



彼女が告げた名に、ラズフィスは目をみはった。



「オリス? あなたはおはなと、おなじなまえなんだね」

「おや、よく知っていましたね」

「おとうさまが、おかあさまのたんじょうびに、おくったはなだもの」



意外そうな顔をするオリスに、ラズフィスは得意気な笑みを返す。

美しく、大ぶりな白い花は、母のお気に入りだ。

そこまで考えてから、ラズフィスは不意に母達の事を思い出して顔を曇らせた。

人に会えて安心したが、まだ問題は山積みだったのだ。


自分はもう一度森に入り、皆を探さなければならない。

再び襲ってきた不安に、ラズフィスは我知らず胸元を握りしめた。

その拍子に、胸ポケットに入れていた白いハンカチが落ちる。

ひらひらと風に舞って、それはオリスの足元に落ち着いた。



「何か落としましたよ」



ハンカチに気付いたオリスが、拾うために身をかがめ、ぴたりと動きを止める。

彼女は目を見開き、じっと手に取ったハンカチを凝視していた。

その異様な様子に、ラズフィスは先程の不安も忘れ、思わず声をかける。



「オリス、どうしたの?」

「あなた、フェヴィリウスの王族だったんですか」



彼女はハンカチを見下ろしたまま、囁くように言葉を漏らした。

そう言えば、あのハンカチには王族の紋章が刺繍されていたのだ。

ラズフィスはぎくりと身体を強張らせ、口を引き結ぶ。


彼は常々、周りの者達から言い含められていることがあった。

もし城の外で一人になることがあったら、決して身分を明かしてはならないと。

王子であると気付かれると、妙な事件に巻き込まれる可能性もあるからだ。


特に、ラズフィスは一目みて王族と分かる色を持っている。

そのため、王城を出るときには、必ず髪色を変える魔術が施された。

現に、今も己の髪は、他者から見れば濃紺に見えるはずだ。


ハンカチのせいで、オリスに王族ということは知られてしまった。

だが、まだ第一王子であることまでは気付かれていないだろう。


何となく、彼女になら教えても良いかもしれないとも思うが、自ら危険な橋を渡るのも気が引けた。

ラズフィスがぐるぐると悩んでいる間も、オリスは紋章を見つめ続けている。

そして、不意に眉を下げると、小さく呟いた。



「大地に根をはる世界樹と、それを抱く三つ足の鳥って……。あの男ときたら本当に単純と言うか、素直と言うか」



どこか懐かしげな彼女の声色に、ラズフィスは小首を傾げる。

このハンカチに刺繍された紋章は、王族が個人的な事でのみ利用するものだ。

普段使われている王族の紋章は、天駆ける獅子とヤドリギである。

そのため、普通の人間なら、当然目にする機会はない。


オリスが只の村人であるなら、この紋章の意味など知らないはずなのだ。

そういった油断もあり、ラズフィスは落ちたハンカチをすぐに取り返さなかった。


しかし、その特殊な紋章を懐かしそうに見ているということは、彼女は王族に縁のある人間なのだろうか。

もしそうだとしたら、自分の身分を明かして、運が良ければ母か祖父の元に連れて行ってもらえるかもしれない。


嬉しさで緩んだ顔を上げたラズフィスだったが、オリスの瞳を目にして息を呑む。

先程まで、懐かしげに細められていた黒曜の瞳が、いつの間にか寂しそうな色を浮かべていたからだ。



「これも、縁ということでしょうかね」



オリスは眉を下げ、ほんの少し痛みを耐えるような表情で刺繍を撫でると、大きく息を吐き出した。

そして、心配そうに自分を見ているラズフィスに気付き、目を丸める。



「あの……」



どう声をかければ良いのかと悩む彼に、くつりと笑みを漏らし、ハンカチを差し出す。

ラズフィスが戸惑いながらそれを受け取ると、オリスはその場を立ち上がった。

彼女は軽くローブの裾を叩き、踵を返す。

数歩足を進めてから、オリスはラズフィスの方を振り返った。



「いらっしゃい、王に連なるものよ。怪我の処置くらいはしてあげましょう」



そう言って穏やかな笑みを浮かべ、彼女は再び歩き出す。

慌ててハンカチをポケットにしまい、ラズフィスはオリスの後を追いかけた。





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