第37話 涙の誓い
翌日は午後からよく晴れた。聡志は練習前から動作が緩慢で、ノックをするコーチを怒らせた。
「おい、堂本。またボーンヘッドをやって二軍に落ちたいのか!」
「いえ、何でもありません。調子はバッチリです」
口先と体の動きは裏腹で、フリーバッティングでは精彩を欠いてボテボテの打球しか飛ばなかった。当然のごとくスタメンから外された。試合中はいつもの大声が出ず、代打の指名もかからなかった。
チームが横浜で二連勝したことで大目に見られたが、聡志の元気のない姿に異変を察した紙屋から羽交い締めにされた。百キロを超える図体には敵わない。続けて耳元で囁かれた。
「堂くん、今夜は食事に連れてってやろう。悩みの原因は恋煩いか?」
聡志は入団した当時から紙屋に「堂くん」と呼ばれて目をかけられてきた。プロ入り初ヒットの夜が最初で、それ以降も食事に誘われたことは何度もあった。
「いえいえ、紙屋さん、そんなお気遣いは……」
聡志の背後から組んだ手を放して、肩をパンパンと痛く叩いた。
「何言ってるんだ。『悩みあり』って背中に書いてあるぞ。焼肉でもガッツリ食べて、元気を出せ!」
宿舎に戻ってシャワーを浴びたあと、二人はみなとみらいの焼肉店へと出かけた。奥の個室に通されるとすぐに生ビールを頼んだ。ジョッキを軽く合わせて乾杯をする。
「なあ堂くんよ、お前はもっとプロに徹しなきゃ駄目だ。極端なことを言えば、たとえ親が病院で死にそうな時だって、試合に出て結果を出すのがプロというもんだ。一体どうしたんだ、今日のお前は。試合そっちのけの深刻な悩みでもあるのか?」
トングを使って、網が見えなくなるまで肉を並べている。紙屋は親身になって話を聞くだけでなく、口が堅いところがナインから慕われていた。
「そうですよね。自分はこの世界で生きていくには、まだまだだと思います。せっかくですから紙屋さん、ちょっとだけ聞いてもらえますか?」
「いいとも。そのために来たんだ」
紙屋は気難しい表情から一転して嬉し気に生ビールを飲んだ。腹をすかした野球選手の食欲はすさまじい。タレにはおろしニンニクをたっぷり入れて、焼けたカルビを聡志の皿の上に乗せた。自分も二枚一緒に口に入れたかと思うと、数回噛んだだけで飲み込んだ。
「うーん、うまい!」
夜中だということも忘れ、勢いよく頬張って舌鼓を打つ。レタスサラダにキムチ、カクテキ、ナムルで間を取りながら、焼いた肉を生ビールで一気に胃まで流し込んで行く。詰め込まれた大量の肉は、胃袋の事後承諾を見込んで一方的に消化を委ねている。
「どんどん行こう」
紙屋が生ビールのお代わりと、ヒレ、ロース、タンの大盛りを追加で注文した。焼肉の網が、またもや赤い肉で埋め尽くされた。クッパを食べてやっと一息つき、聡志が話を繋いだ。
「あのう、実は僕、高校の時から好きな子がいるんです。昨日、彼女の祖母の葬式で久し振りに会ったら、経済的な不安と治療中の病気とで、どん底だったんです。自分は彼女に何をしてあげられるのか、真剣に悩んでるんです」
紙屋は冗談抜きに恋の悩みだと知って、自分の巨体を聡志の体に乗せるような素振りでじゃれたあと、鋭い目付きで聡志を一瞥した。少々赤くなった顔で残りのビールをググっと飲み干す。追加で麦焼酎のロックを二杯とホルモン、ミノを注文した。
「堂くん、お前は、その子がどのくらい好きなのか。正直に言ってみろ」
これだけ食べて飲んでご馳走になっている手前、嘘はつけない。
「僕の初恋なんです」
ぽつっと言った。紙屋の問いに正確には答えていなくても、その答えの方が百倍相手に伝わった。
「ヒャッハッハ。純愛かあ、いいなあ」
「紙屋さん、冷やかさないでくださいよ。これまで順調に交際してきたわけじゃないんですから」
聡志は、彼女とのデートが自分のせいで一度も実現していない事情を切々と語った。打とうと思えば思うほど打てなかったこと、いい当たりが野手の正面を突いたことなどを悔しそうに打ち明け、焼酎をグイと飲み込んだ。
「それで、これまでに彼女の目の前で、何打席ヒットが出てないんだ?」
そう言われてみれば、打席数までは計算したことがない。高一で、大学で、……。指折り数え始めた。
「東京ドームでのオールスターまで入れると、十数打席だと思います」
「なんだそんなもんか。プロの世界だって、一度スランプになれば二十打席ヒットが出ない選手なんてザラにいるんだ。気にするな。いや、お前の場合は気にしないわけにはいかないのか。アッハッハ」
豪快に笑った。聡志は笑えるはずがない。
「堂くんよ、そんなの、打てなくてゴメン、いつも応援ありがとう、とか言いながらデートすればいいじゃないか。彼女も好きな人が話し相手になってくれれば、心が癒されるだろうし。お前が精一杯プレーしてヒットが出なかったのだから、許してくれても良さそうなもんだ」
「それが、目の前でヒットを見る前にデートをしても、幸せにはなれない、と彼女は思い込んでいるんです」
聡志のやるせない思いは、焦点の定まらない視線に現れていた。元はと言えば自分の不甲斐なさが原因なのだから、誰かに解決してもらう問題ではない。
「へー、そうなのか。まあ、それだけ愛が深いってことかな。こんなにヒット一本の重みがある話は初めて聞いたよ。だって、そのヒットを打てば、そのあとは、デートして交際が深まって、ゴールインまで一直線だ。俺だったら、セーフティバントでもいいからヒットを狙うけどなあ」
巨体で足の遅い紙屋が腕を振って走る真似をした。聡志は笑って手を横に振った。
「僕は彼女にクリーンヒットを見せてあげたいんです。そう思って練習に打ち込んできたんですから」
焼酎を飲んでいた紙屋が噴き出しそうになって白い歯を出した。
「そうかあ、お前の完璧主義は、あいつに似てるよなあ」
頬に手を当てて呟いた。しかも、いかにも神妙な顔をして見せた。
「えっ、誰のことですか?僕の知ってる人ですか?」
聡志は真剣に訊いた。
「俺だ。いやいや、冗談だ」
二人は顔を見合わせて屈託なく大笑いをした。紙屋は再び聡志に眼差しを向けた。
「だけどなあ、その彼女はよっぽどお前のことが好きでたまらないんだろう。その辺りのところは忖度してやれよ。久し振りに会ったお前に、自分の境遇を素直に打ち明けたんだろ?普通の女の子なら、憧れのプロ野球選手に少しでも自分を良く見せようとして、家族や自分の弱みなど、おくびにも出さないもんだ。お金に困っている上に病気持ちだなんて、相手を信頼してこその身の上話だ。そうだろ?」
言われなくても分かっていた。紙屋の口から結論めいた言葉が出る前に、自分が一生彼女を守ると誓った。「恭子」と小さく呼んでみた。ヒット祈願にもらった数えきれないほどの折鶴を思い出すと、大粒の涙がこぼれた。今も実家の自分の部屋に飾ってある。
「なんだ、堂くん、お前は泣き上戸だったのか」
聡志は慌てて否定した。
「そんなことはありません!紙屋さんの前だから特別なんです。いつか、彼女の前でヒットを打てたときは、必ず紙屋さんに彼女を紹介しますから。一番に紹介しますから」
涙を床に落としながら、何度も頭を下げているのがいじらしかった。
「こいつ、本当にいい奴だな」
紙屋はTシャツの赤と同じ色の聡志の酔顔をまじまじと見て、小さく独り言を言った。




