独りでに鳴るピアノ①
「貴代子さん、ちょっといい?」
寮母室の扉から一人の女性が顔をのぞかせて言った。
「また、あのピアノなの?」
貴代子と呼ばれた女性がデスクから立ち上がって扉にむかいながら言った。
「そうなのよ。また、音が鳴っていた気がするの。とても気味が悪くて眠れないの。」
その女性はいかにも気味が悪いという素振りで訴えた。
「そんなバカなことがあるわけないじゃないの。ピアノが勝手に鳴るなんてね。ふさ子さんは少し疲れているんじゃないの?」
貴代子はその女性、ふさ子さんに向かって優しく言った。
「そんなことないわ。私だけじゃなく、他の人も言ってるわよ。貴代子さん、何とかしてよ。」
ふさ子さんが今度は抗議するように言った。
「そうねえ、私は聞いたことがないからなかなか信じられないの。でも、みんながそう言うなら、一度調べてみるわ。約束する。」
貴代子はふさ子さんの手を取って言った。
「ホントに?お願いするわね。」
「ホントにホントよ。必ず調査するから、今日のところは気にしないで寝ようか。」
「分かったわ。でも、眠れるかしら?」
「大丈夫よ。今、音は聞こえないのでしょ。今のうちにお布団に入ってしまいましょう。お部屋まで送るわね。」
貴代子はふさ子を伴って寮母室を後にした。
「では、おやすみなさい。ゆっくり休んでね。」
貴代子はふさ子を部屋まで送ってから寮母室に戻ってきた。
「うーん、困ったわね。ピアノが独りでに鳴るなんてありえないのだけど、ふさ子さんだけじゃなく、他の入居者さんも言っているものね。どうしようかな・・・。一度、佳絵子に相談してみようかな。」
貴代子は独り言を言いながらデスクに向かって、たまっている仕事にとりかかっていった。
季節は7月の末、梅雨も明けて夏真っ盛りという感じである。ここは京都市北区の某所、一人のヘルパー(訪問介護員)が仕事を終えて事業所へ帰ってきた。
「四谷所長。今月のサービスも今日で終わりなので、実績表をお届けに来ました。」
年のころは20代後半のうら若い男性がリュックの中から書類を取り出しながら言った。服装はブルーのデニムパンツに白色系の半袖Tシャツを着用していた。
「これは、紫王院君、いいところに来たわね。」
こちらは、おそらくは40歳代であろうと思われる美魔女的な雰囲気のある少し長めのウェーブがかかった美しい黒髪をした四谷と呼ばれた女性が書類を受け取りながら言った。
「何かあったのですか?」
若い男性がいぶかしむように言った。
「大丈夫よ。サービス上のことではないわよ。少し折り入ってお願いがあるのだけど、今、時間は大丈夫かな?」
「大丈夫ですが・・・」
若い男性が少し口ごもるように言った。
「多分大丈夫よ。きっと、この後に飲みに行く段取りを考えていただけでしょうから。」
奥のデスクから20代後半くらいのショートカットで明るい髪色をしたボーイッシュな女性がパソコンに向き合いながら元気な声で言った。
「それはひどいですね、楓主任。僕にだって大事な用事の一つくらいはあるかもしれないじゃないですか。」
若い男性が抗議するように言った。
「ははは、あるわけないでしょ。早く、ヒロさんのところで飲みたくてしょうがないのでしょ。」
「・・・・。」
「どうやら、大丈夫そうね。では、紫王院君、あちらの部屋に行きましょう。」
四谷所長と若い男性は連れ立って、「応接室」と書かれた部屋に入って行った。




