第46話 原点の暴露と、巨魁の崩壊
「……デジタルの空白が、これで完全に埋まりましたね」
点と線が結実した山内久美子の言葉が、地下二階の第8資料管理室に静かな反響を残して溶けていった。
スプリンクラーの放水による水溜まりは拭き取られたものの、澱んだ空気には未だ硝煙と古い紙のカビ臭さが微かに漂っている。しかし、高野清太郎のデスク周辺だけは、長年隠蔽されてきた真実が引きずり出されたことによる、特有の張り詰めた静謐さが保たれていた。
西川朋美と久美子の記憶の糸によって特定された、十年前の銀座の料亭『松風』での密会。そして翌日に起きた、先代社長の失脚と大黒龍太郎の社長就任。
清太郎の視線は、クロエが深層サーバーから引きずり出してきた一枚の決裁書のデータに静かに固定されていた。
「大黒社長は、先代社長に巨額の架空損失を押し付けるために監査法人を買収し、後から手作業で強引に数字を書き換えた。彼自身の無神経な手癖が、この丸め処理の矛盾にありありと残されています。彼が帝都物産という会社を食い物にしようとした原点は、ここから始まっていたのです」
「でも、十年前の特別背任となれば、すでに公訴時効が成立していると主張されるんじゃないかしら」
クロエがデスクに頬杖をつき、青い瞳に微かな懸念を浮かべた。
その問いに答えるように、部屋の奥からピンヒールの鋭い足音が響いた。
「その点は問題ないわ」
一分の隙もなく仕立てられた気品あるタイトスーツを纏った西田奈央子が、唇に引いた深紅のルージュを艶やかに歪めて歩み出てくる。
「大黒が直近で行った武藤専務への証拠隠滅教唆、および海外のペーパーカンパニーへの不正送金は、すべてこの十年前の特別背任と地続きの『包括一罪』として扱われる。時効の時計は、今日のこの日まで完全に停止していた……法廷ではそう立証できるわ」
奈央子は手元のタブレット端末をデスクに置き、周囲のヒロインたちを見渡した。
「問題は、証拠の出し方よ。西園寺常務の時と同じように、ただデジタルデータを見せつけるだけでは、大黒が雇う最高峰の企業弁護士団は『正体不明のハッカーによる捏造だ』とシラを切るでしょう。彼を完全に社会的に抹殺するには、大黒自身が己の手で書き換えた『手書き決裁書の原本』そのものと、それに加担した『生きた証人』を、逃げ場のない公の場に引きずり出す必要があるわ」
「その荷物なら、ちゃんと届いてるわよ!」
不意に、背後の重厚な防爆扉が開き、弾むような声が地下室に響き渡った。
レザージャケットに身を包んだ菊池真矢と、スポンサーロゴの入ったパーカーを着た小松美鈴だ。二人の息は僅かに弾んでいたが、その瞳には大きな仕事を成し遂げた達成感が輝いていた。
真矢が背負っていた防水シリンダーを外し、清太郎のデスクに置く。
「大黒の別邸にある隠し金庫。生体認証から赤外線センサーまでガチガチだったけど、クロエの遠隔サポートのおかげでなんとか破れたわ。中身は精巧なダミーの紙束とすり替えておいたから、大黒は自分が原本を奪われたことに気づいてすらいないはずよ」
清太郎はシリンダーのロックを解除し、中から黄ばんだ古い紙の束を引き出した。そこには、大黒龍太郎の直筆サインと、不自然な訂正印が押された十年前の決裁書の「原本」があった。
「あまり無茶な速度は出さなかったでしょうね、美鈴さん」
清太郎が温和な声で問いかけると、美鈴は頭に乗せたサングラスを指で弾き、屈託なく笑った。
「失礼ね! 私は絶対に荷物を傷つけない運び屋よ。お兄ちゃんの頼んだ荷物くらい、傷一つなくエスコートしてあげるわ。まぁ、追手の黒塗りのセダンを振り切るために、ちょっとだけタイヤはすり減らしたけどね」
「見事な手際です、美鈴さん、真矢さん。これで、最強の物理的証拠が揃いました」
清太郎が深く頷くと、奈央子がタブレットの画面をフリックして見せた。
「こちらも仕込みは終わっているわ。十年前、大黒に買収されて数字の改ざんに手を貸した当時の監査法人トップ。彼に、私が独自に組み上げた『告発状のドラフト』を見せてきたところよ。証拠隠滅の共犯として逮捕されるか、あるいは司法取引に応じて大黒の罪を証言するか……一時間の交渉で、見事に後者を選んでくれたわ」
奈央子の凄絶な笑みに、クロエが呆れたように息を吐きながらも、楽しげに口角を上げる。
「法務のスペシャリストの脅しって、下手なマルウェアよりよっぽどタチが悪いわね。……久美子の情報によれば、明日の午後二時、大黒社長は自身の潔白を証明するための緊急記者会見を開く手筈になっているわ」
「ええ。テレビ各局の生中継も入る、またとない大舞台よ」
久美子がふわりとした愛想笑いを消し去り、ビジネスの最前線を泳ぐ女の鋭い目で頷いた。
清太郎は、手元にある十年前の原本を静かに見下ろした。
「彼が自ら用意したその舞台を、最大の処刑場にしましょう。メディアの向こう側にいる全国の視聴者、そして生身の証人を巻き込んだ、逃げ場のないアナログな包囲網です」
★★★★★★★★★★★
決戦当日の早朝。
東京湾沿いの高速道路を、漆黒のスポーツカーが滑るように駆け抜けていた。
「あはっ、やっぱりこの時間は道が空いてて最高!」
運転席でプラチナブロンドの髪を風に揺らしながら、小松美鈴が屈託のない笑い声を上げる。彼女の華奢な手足がペダルとステアリングを精密機械のような正確さで操り、スポーツカーは路面に吸い付くようにコーナーを抜けていく。
助手席に深く腰掛けていた清太郎は、横Gに微かに眉をひそめながらも、流れていく海の景色へと視線を向けていた。
「あまり速度を出しすぎないでくださいよ、美鈴さん。証人である監査法人の元トップは、すでに奈央子さんのセーフハウスに無事送り届けたのですから。今は追っ手もいません」
「いいじゃない、たまの息抜きなんだから。重要参考人の移送なんていうお堅い任務は終わったんだし、ここからはお兄ちゃんと私、二人きりのドライブデートでしょ?」
美鈴は悪戯っぽく微笑み、さらにアクセルを踏み込んだ。エンジンが心地よい咆哮を上げ、車体は風を切り裂いて加速する。
「デート、ですか。これから巨大企業のトップを社会的に抹殺しに行く直前の人間のセリフとは思えませんね」
「お兄ちゃんこそ、最近ずっと怖い顔してたから。午後からの本番に向けて、潮風でも浴びて頭の中を空っぽにしなきゃダメよ」
「空っぽにするわけにはいきませんよ。数時間後には、逃げ道を塞ぐための緻密な応答が控えているのですから」
「それでも、今はデート中。仕事の話は禁止」
美鈴がコンソールのオーディオを操作すると、軽快な洋楽のビートが車内に流れ出した。
清太郎は小さく息を吐き、シートに背中を預けた。窓を少し開けると、初夏の東京湾の冷たい潮風が車内に流れ込んでくる。昨夜の硝煙とカビの匂いにまみれた地下室での死闘が、遠い過去のように感じられた。
「……そうですね。少しだけ、空気が美味しく感じます」
清太郎の柔らかな声に、美鈴は満足そうに目を細めた。
「でしょ? 海沿いのドライブは最高よ。ねえ、このまま葉山の方まで行かない? 凄く美味しい海鮮の店を知ってるの」
「あなたの運転で無事に辿り着ければ、ですが。それに、午後二時の会見には遅れるわけにはいきません」
「任せて! 私のドライビングテクニックなら、葉山で最高の朝食を食べてからでも、大講堂のど真ん中に一秒の狂いもなくエスコートしてあげるわ」
美鈴の明るい笑い声が、車内に弾けた。
嵐の前の静けさの中、清太郎は流れる海を見つめながら、静かに、しかし確実に組み上がっていく最終決算の方程式に思いを馳せていた。
★★★★★★★★★★★
そして、午後二時。
帝都物産本社ビルの大講堂は、無数のフラッシュの瞬きと激しいシャッター音によって白く泡立っていた。
壇上の中央に座る大黒龍太郎社長は、肥満体の巨躯を丸めるようにして俯き、目頭に当てた純白のハンカチを微かに震わせていた。
「この度の一連の不祥事につきましては、すべて私の不徳の致すところであります……」
無数のマイクを通した大黒の声は、疲労と悲哀に満ち、巧みに掠れていた。全国ネットのテレビカメラが、悲痛な面持ちで頭を下げる巨大企業のトップの姿を日本中に生中継している。
「武藤専務をはじめとする一部の役員が、私の目を盗み、会社に甚大な損害を与えていたこと……。それに気づけなかった自身の無力さを、深く恥じております」
会場を埋め尽くすメディアの記者たちの間に、微かな同情の空気が流れ始めていた。企業のトップが自らの右腕に裏切られ、会社を守るために断腸の思いで彼らを告発した悲劇の社長。それが、大黒が周到に用意したシナリオだった。
武藤たち側近を東京地検特捜部に切り捨て、すべての罪を被せることで、自身の身の潔白を世間に強くアピールする。ここで世論を味方につければ、特捜部とて容易には手を出せなくなる。
「私は真実を知り、血を吐く思いで彼らを告発いたしました。株主の皆様、そして社会の皆様からの信頼を回復するため、私は残りの命を賭して、この帝都物産の再建に……」
大黒がさらに涙を拭う芝居を続けようとしていた、まさにその時。
大講堂の最後方に位置する、重厚な両開きの扉の向こう側。
仕立ての良さが際立つネイビースーツを隙なく纏った高野清太郎は、扉の冷たい真鍮のノブに静かに手をかけていた。
その背後には、それぞれの役割を完璧にこなす準備を終えたヒロインたちが、静かな闘志を瞳に宿して控えている。
「メインスクリーンのジャックと、テレビ各局の中継ネットワークへの割り込み設定、いつでもいけるわ」
クロエが、手元の小型端末を操作しながら不敵に笑う。
「裏口座のマネーフローの可視化もスタンバイOKよ。奴の隠し財産がどこにあるか、全国民に教えてあげる」
フレイヤが、エメラルドグリーンの瞳を妖しく輝かせた。
「あのタヌキに買収された監査法人の元トップも、すでに別室で震えながら出番を待っているわ。合図とともに、記者たちの真ん中に放り込んであげる」
奈央子が、腕を組んで冷ややかに告げた。
清太郎は、静かに息を吸い込んだ。
大講堂の扉の向こう側から聞こえてくる、大黒の白々しい嘘の演説と、耳障りなシャッター音。これから彼が踏み出す一歩によって、その狂騒がどう凪いでいくのかを予感させるような、研ぎ澄まされた静謐さが清太郎の全身を包み込んでいた。
「行きましょう」
清太郎の静かな、しかし確かな重みを持った声が響いた。
「メディアの向こう側を巻き込んだ、最後にして最大のアナログな答え合わせの始まりです」




