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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第24話 金庫破りと、迫り来る追手

 深夜2時。


 都心の夜景を見下ろす高野清太郎のマンションのリビングでは、三つのハイエンドモニターから放たれる青白い光と、絶え間ないタイピング音が空間を支配していた。クロエ・マクスウェルとフレイヤ・ヨンスドッティルという、世界最高峰の二つの頭脳が並んでキーボードを叩き、西園寺の構築した強固なセキュリティの壁に無数のデジタルの楔を打ち込んでいる。


 その静謐な緊張感の裏側、一つ繋がりのキッチンにおいて、清太郎は極めて個人的な儀式のような正確さで火に向き合っていた。


 巨大な寸胴鍋の中で、たっぷりの湯がグラグラと激しく沸き立っている。清太郎は、昨日長野から届いたばかりの『雪村蕎麦』の生麺を包装から取り出すと、両手で優しく揉みほぐしながら、沸騰した湯の中心へ放射状に落とし込んだ。


 微かな蕎麦粉の香りが、蒸気と共にふわりと立ち昇る。


 鍋の中で麺が美しい対流を描きながら舞い始める。彼は菜箸を静かに差し込み、麺が絡まないよう、八の字を描くように一度だけゆっくりと混ぜた。手元にはデジタルタイマーが置かれているが、彼は画面を見ない。鍋底から上がってくる気泡の大きさ、麺の表面の色の微かな変化、そして湯気に混じる香りの強さで、最適な茹で上がりを秒単位で推し量っている。


「……あと10秒」


 清太郎の視線の先、隣のシンクには、大量の氷を浮かべたボウルが用意されていた。製氷機の氷ではなく、ロック用の純氷を砕いたものだ。急激な温度変化が蕎麦のコシを決定づける。


 彼が心の中でカウントダウンを終えた瞬間、平ザルで一気に蕎麦をすくい上げる。流水で表面のぬめりを素早く洗い流すと、そのまま氷水へと沈めた。


 キュッ、というかすかな音が聞こえるほど、蕎麦の繊維が急速に引き締まる。氷水の中で優しく、しかし素早く麺を泳がせ、水気を完全に切ってから、有田焼の平皿に美しく盛り付けた。傍らには、鮫皮のおろし器で円を描くようにおろした静岡県産の生本わさびと、極細に刻まれた九条ネギが添えられている。


「夜食です。少し脳を休めてください」


 清太郎がダイニングテーブルに蕎麦を置くと、画面を睨みつけていたクロエとフレイヤが、同時に手を止めて振り返った。


「日本のファストフードにしては、ずいぶんと手間がかかっているわね」

「これがエリートの余裕ってやつ? 潜入作戦の真っ最中によくやるわ」


 二人は呆れたように言いながらも、艶やかな輝きを放つ蕎麦の誘惑には抗えず、素直に箸を伸ばした。一口啜ったクロエの青い瞳が、驚きに僅かに見開かれる。冷水で極限まで締められた蕎麦の強いコシと、鼻に抜ける本わさびの爽やかな香りが、長時間酷使された脳の疲労をスッと洗い流していく。


「悪くないわね。……むしろ、ロンドンの高級和食店よりずっと美味しいかもしれない」


 クロエが小さく呟くと、フレイヤも無言で二口目を啜り、満足げに目を細めた。


 清太郎自身は箸を持たず、手元のタブレットに目を落とした。


 画面には、ゼニス・パートナーズが入居するビルの見取り図と、真矢のインカムから送られてくる音声波形が表示されている。深夜のビル内は静まり返り、彼女の歩行音すら拾わない完璧なノイズキャンセリングが機能していた。


『……エリートさん。面倒なことになったわ』


 イヤホン越しに、真矢のくぐもった声が響いた。


「状況は?」

『社長室の隠し部屋には到達した。でも、ターゲットは最新の電子ロックじゃない。アナログなダイヤル式よ』


 真矢の声に、微かな焦りが混じっている。彼女の目の前には、分厚い鋼鉄製の物理金庫が鎮座していた。テンキーも指紋認証パネルもなく、あるのは重厚な真鍮製のダイヤルと、鍵穴だけだ。


 クロエとフレイヤも顔を見合わせ、箸を止めた。


 だが、清太郎の表情には一切の動揺がなかった。彼は蕎麦の茹で汁を静かにシンクへ流しながら、淡々と問い返す。


「メーカーと型番は分かりますか」

『ええと……クマヒラ。型番は、右下にプレートがあるわ。「DX-750」』

「十分です」


 清太郎の脳内で、膨大な記憶のインデックスが瞬時に展開される。


 西園寺豪という男の行動原理。彼が承認してきた数万件の決裁書のタイムスタンプ。役員室のローカルサーバーで彼が設定したパスワードの変更履歴。そして、彼が最も執着し、己の力として誇示してきた数字の羅列。

 それらが色を帯びたノイズとなって視界を走り抜け、無数のバリエーションの中から特定の数列へと収束していく。彼のような支配欲の強い人間は、自身の絶対的なテリトリーを守る鍵に、最もシンボリックな意味を持たせる。


「真矢さん。西園寺常務は、自身が構築したシステムへの絶対的な自信と、完全無欠を誇示する合理主義を持っています。彼はランダムな数字を記憶することを『脳の無駄遣い』と考え、自身の支配下にある数字の配列を、無意識に流用する手癖があります」


 清太郎の静かな声が、インカムを通じて真矢の耳に届く。


「右に『04』、左に『18』。もう一度、右に『30』です」


 隠し部屋の暗闇の中で、真矢は息を呑んだ。疑う理由はなかった。彼女は革手袋越しに冷たい真鍮のダイヤルを掴み、慎重に回し始める。


 カチッ、カチッ、と微かなクリック音が指先に伝わる。


「……右に04。次、左に18。……右に、30」


 最後の一目盛りを合わせた瞬間。

 カチャリ、と重い金属のシリンダーが噛み合う音が、静かな部屋に響いた。


 レバーを押し下げると、分厚い扉があっさりと手前に開く。中からは、長年密閉されていた紙特有の乾いた匂いが漂ってきた。


「……ビンゴよ、エリートさん。あなた、本当に頭の中どうなってるの」

「4月18日は彼が最初のダミー会社を設立した日。そして『30』は今回手にする30億。彼は自身の支配を、物理的な数字にも刻み込みたがるのです」


 真矢はスマートフォンのライトを頼りに金庫の中に手を伸ばし、一つのクリアファイルを引き抜いた。中には、西園寺の直筆サインと実印が押された、ダミー会社の実質的支配権を示す契約書の原本が収められていた。印影の朱肉の色が、ライトに照らされて鈍く光っている。


「モノは確保したわ。これであの常務も逃げられないわね」


 真矢がファイルを防水のシリンダーケースに丸めて収め、レザージャケットの内ポケットに滑り込ませた、その時だった。


「予定外のイレギュラー!」


 清太郎のマンションで、フレイヤが鋭い声を上げた。彼女の叩くキーボードの音が、再び激しさを増す。


「ゼニス・パートナーズのビル全体の警備システムが、外部から強制的にオーバーライドされたわ。警備会社の正規のログじゃない。西園寺の私兵が、抜き打ちでフロアに入った!」

「数は?」


 清太郎が問う。


「4人。エレベーターを使わず、非常階段から一気に上がってきた。社長室の扉まで、あと10秒!」


 隠れる場所のない社長室。

 真矢の耳にも、廊下を走る複数の重い足音がはっきりと聞こえていた。統制の取れた、靴底が分厚いタクティカルブーツの足音だ。


『エリートさん、お客様のようね』


 真矢はインカムのスイッチを切り替え、隠し部屋から社長室へと出た。

 直後、分厚いオーク材の扉が乱暴に蹴り開けられる。


 踏み込んできたのは、揃いの黒いタクティカルウェアに身を包んだ屈強な男たちだった。彼らの手には、すでに特殊警棒が握られている。先頭の男が真矢の姿を捉え、一切の声を発することなく無機質に間合いを詰めてきた。


 真矢は迷うことなく、足元にあった重い清掃カートを男たちに向かって蹴り飛ばした。


「チッ!」


 先頭の男がカートを警棒で弾き飛ばそうとした瞬間、真矢はそのカートの縁を踏み台にして跳躍した。壁を蹴って一人の背後に回り込み、膝裏の関節部分に鋭い蹴りを入れて体勢を崩すと同時に、振り向こうとしたもう一人の顎を掌底で撃ち抜く。


 鈍い音が響き、二人が床に崩れ落ちる。


 しかし、倒れた二人の背後から、残る二人が即座に間合いを詰めてくる。彼らは真矢の動きを見て即座に対応を変え、退路を完全に塞ぐように左右に展開した。


 一人が鋭い踏み込みから警棒を振り下ろす。真矢は上体を反らして紙一重で躱すが、ジャケットの袖が鋭く裂け、風を切る音が耳元を掠めた。もう一人がすかさず胴を狙って警棒を横薙ぎに振るう。真矢は後ろへ飛んでそれを躱し、マホガニーの巨大なデスクを背にする形まで追い詰められた。


『エリートさん! モノは取ったけど、正面からは出られないわ!』


 真矢は男たちとの距離を保ちながら叫んだ。社長室の入り口は完全に塞がれ、背後には東京の夜景を映し出す巨大な強化ガラスの窓があるだけだ。


 イヤホンから返ってきた清太郎の声は、鍋の火加減を調整する時と同じように、平坦で静かなままだった。


「問題ありません。真矢さん、社長室の窓を破って、裏路地へ向かってください」

『ここ、地上4階よ!?』


 真矢は男の突きをダッキングで躱し、デスクの上の重い灰皿を投げつけて牽制した。灰皿が壁に激突して砕ける音と共に、男たちが一瞬だけ足を止める。


「『次』の手配は済んでいます。跳んでください」


 その静かな、しかし絶対的な確信に満ちた声に、真矢は一瞬だけ不敵に口角を上げた。


「……信じるわよ、エリートさん!」


 真矢は男たちの追撃を振り切るように方向を転換し、短い助走をつけて、分厚い強化ガラスに向かって全速力で跳躍した。


 右肘を前に突き出し、全身の体重を一点に乗せた強烈な一撃。

 轟音と共に、防弾仕様ではない強化ガラスが蜘蛛の巣状に砕け散り、無数のガラス片が夜の街の光を乱反射して煌めいた。


 真矢の身体は夜の闇の中へ、空中の放物線を描いて投げ出された。


 眼下に広がるのは、冷たいコンクリートの裏路地。

 しかし、その暗闇の底で、重低音のエキゾーストノートが獲物を待つ獣のように唸りを上げていた。

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