第23話 清掃員の顔と、潜入のスペシャリスト
日曜日の午後。
表参道の並木道は、初夏の柔らかな日差しと洗練された装いの人々で溢れ、通りを行き交う車の排気音さえもどこか優雅な響きを帯びていた。
その喧騒の中で、高野清太郎は完璧なシルエットのネイビースーツを纏い、周囲から切り離されたような静謐な歩調で歩を進めていた。量販店の安物であるはずのスーツは彼の端正な骨格に吸い付くようにフィットし、すれ違う人々の視線を無意識に惹きつけている。しかし、彼自身はそんな周囲の反応に一切の関心を示さず、隣を歩く女性のペースに合わせて一定のリズムを刻んでいた。
彼の隣を歩くのは、プラチナブロンドの長い髪を無造作にクリップで留めたフレイヤ・ヨンスドッティルだ。
オーバーサイズのハイブランドのフーディに、足を惜しげもなく露出したショートパンツというストリート系の装い。彼女は、両手に提げた幾つかの高級ブティックの紙袋を軽く揺らし、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳で隣の男を面白そうに見上げていた。
「まさか、本当に付き合うとは思わなかったわ」
フレイヤは小悪魔的な笑みを浮かべ、薄いピンクのリップを引いた唇を弧に歪めた。昨夜、自身が絶対の自信を持って構築した暗号資産の迷宮を破られ、西園寺の残酷なトカゲの尻尾切りの思惑を突きつけられた彼女は、清太郎の陣営に寝返る対価――あるいは、未知の強大な知性に敗北したことへの遊戯的な「ご褒美」として、東京での最高のデートを要求したのだ。
清太郎の対応は、いっそ不気味なほど完璧だった。
表参道の高級ブティックを何軒も梯子し、彼女が指差したものを清太郎は一切の躊躇なく買い与えていった。歩く速度は常に彼女のヒールの高さに合わせられ、カフェでのエスコートや、日差しを避けるための僅かな立ち位置の調整、会話の選択には一切の淀みがなかった。
さらに彼女を痛快な気分にさせたのは、彼が自らの懐を一切痛めない帝都物産の経費――本来であれば西園寺の威光を示すために用意された裏の接待費の枠――を、まるで自らの資産を運用するかのように冷徹かつスマートに切り続けていることだ。店員に向ける温和な微笑みと、ブラックカードを提示する際の指先の淀みのなさは、彼がこれまでどれほど修羅場をくぐり抜けてきたかを物語っていた。
「有益なパートナーへの投資としては、安いものです」
清太郎は前を向いたまま、一切の感情を乗せずに答えた。
「あなたが西園寺常務の資金洗浄ルートから完全に手を引き、我々に協力するという確約が得られるのであれば、休日の数時間など安い代償です」
「可愛げのない男ね。でも、嫌いじゃないわ」
フレイヤは小さく笑い、歩調を速めた。敗北感よりも、この底知れない男と共に西園寺の盤面をひっくり返すというスリリングな遊戯への期待が、彼女の胸を高鳴らせていた。
二人が清太郎のマンションに戻ると、生活感が徹底的に削ぎ落とされた空間に、タイピングの凄まじい破裂音が響いていた。
リビングのダイニングテーブルに構築された前線基地では、クロエ・マクスウェルが不機嫌そうにキーボードを叩いている。足元では保護されたばかりの黒猫のルカが彼女の足首にじゃれついているが、クロエの青い瞳はモニターを滝のように流れるコードの羅列に完全に釘付けだった。
「遅いわね。世界最高のハッカーを待たせておいて、ずいぶんと優雅な休日じゃない」
「必要なプロセスです、クロエさん。彼女の頭脳は、これからの我々に不可欠になりますから」
清太郎が上着をハンガーにかけようとしたその時、玄関のインターホンが短く鳴った。
モニターを確認することもなく、清太郎は静かにドアのロックを解除する。
「お邪魔するよ」
軽い足取りとともにリビングに入ってきたのは、菊池真矢だった。
24歳という年齢よりも少し幼く見える、健康的で飾らないボーイッシュな顔立ち。動きやすさを極限まで追求した機能的な黒のレザージャケットに、白いTシャツ、スキニーパンツ、そして履き慣れたスニーカーという出で立ちだ。
真矢は部屋の中を見回し、異常な熱気を放つ機材の山と、そこに居座る二人の外国人美女の存在に少しだけ目を丸くした。一人は冷たいブルーの瞳を持つ凄腕のハッカー、もう一人はハイブランドを着崩した小悪魔的な暗号資産トラッカー。どちらも、真矢が普段生きている裏社会の泥臭い現場とは無縁に見える、華やかな世界の住人たちだった。
真矢はすぐに不敵な笑みを浮かべて清太郎に向き直った。
「また厄介な頼み事なんでしょ、エリートさん。わざわざ私の休日の予定をキャンセルさせるくらいだ」
「ええ。あなたにしか開けられない扉があります」
清太郎の紹介を受け、クロエはタイピングの手を止め、怪訝な視線を真矢に向けた。その視線は、生身の人間よりもコードを信じるハッカー特有の、冷ややかな値踏みを含んでいた。
「この子が? 悪いけど、これから私たちが相手にするのは、都内でもトップクラスのセキュリティを誇るインテリジェントビルよ。遊びじゃないの」
真矢はクロエの冷たい視線を受け流し、レザージャケットのポケットに両手を突っ込んだまま肩をすくめた。
「遊びじゃないから呼ばれたんだろ? デジタルの天才二人がお手上げのアナログな鉄の箱。ネットワークに繋がっていない完全オフラインの金庫の中身を盗み出すには、結局のところ、生身の人間が物理的にそこへ行くしかない」
真矢の言葉に、クロエは僅かに言葉を詰まらせた。事実その通りだったからだ。ゼニス・パートナーズの社長室の奥深くにある物理金庫は、どんな高度なハッキング技術を持っていようと、回線が物理的に繋がっていなければアクセスすらできない。
「作戦の概要を説明します」
清太郎はダイニングテーブルの中央に立ち、モニターにビルの平面図を映し出した。
「ターゲットは品川にあるインテリジェントビルの22階。ゼニス・パートナーズの社長室。明日の深夜2時、真矢さんには清掃業者のスタッフとしてビルに潜入していただきます。もちろん、孤立無援ではありません。我々が、あなたの目と耳になります」
★★★★★★★★★★★
翌日の深夜。
指定されたガラス張りのビルは、外資系金融機関やIT企業が多数入居する要塞だった。深夜であっても建物のどこかしらで明かりが灯り、強固なセキュリティシステムが眠ることなく稼働し続けている。
地下駐車場に、1台の地味なワンボックスカーが滑り込む。
後部座席から降り立った真矢は、昨日までのボーイッシュな私服とは打って変わり、グレーの作業着に身を包んだ完璧な清掃スタッフの顔になっていた。髪はネットでまとめられ、目深に被ったキャップが顔の半分を隠している。彼女が押す大型の清掃カートの底には、二重底の隠しスペースが設けられ、高性能なピッキングツールや小型カメラ、指向性マイクなどの特殊機材が身を潜めていた。
『通信テスト。聞こえますか、真矢さん』
右耳に装着された極小のインカムから、清太郎の静かな声が響く。
「感度良好。エリートさん、そっちの準備はどう?」
真矢はモップの柄を握り、従業員用のサービスエレベーターへと歩を進めながら小声で答えた。
場面は変わり、清太郎のマンション。
リビングの照明は完全に落とされ、四面のハイエンドモニターの青白い光だけが室内を不気味に照らしている。
クロエは凄まじい速度でキーボードを叩き、ビルの監視カメラネットワークへの侵入経路をこじ開けていた。その隣では、フレイヤが警備会社のサーバーからリアルタイムでシフト表と巡回ログを吸い上げ、独自のアルゴリズムで解析している。
「ビル内のカメラ68台、すべて私の支配下に置いたわ」
クロエが不敵に笑い、エンターキーを叩いた。真矢が歩くルート上の監視カメラの映像が、数分前の「誰もいない廊下」の映像にすり替えられ、永遠にループし始める。
「警備員の巡回ルートの解析完了」
フレイヤもまた、氷のような冷徹さで画面を見つめていた。
「彼らの歩幅、各階での滞在時間、過去1ヶ月のサボり癖まで完全に計算済みよ。現在、22階フロアに警備員はゼロ。ただし、3分15秒後に南側のエレベーターから2名上がってくるわ」
清太郎は二人の背後に立ち、膨大なデータが流れるモニターを俯瞰しながら、インカム越しに静かな声を響かせた。
「真矢さん、エレベーターを22階で降りてください。降りたらすぐに左です」
『了解』
真矢は22階で降りると、清掃カートを音もなく滑らせ、分厚い絨毯の敷かれた廊下を進んだ。彼女の歩みには、体重移動のブレが一切ない。元スタントウーマンとしての卓越した身体能力が、足音というノイズを完全に殺していた。深夜の静寂の中、空調の微かな稼働音だけが耳に届く。
『真矢さん、ストップ』
清太郎の短く鋭い声。
真矢は即座に足を止め、カートと共に壁の窪みに身を隠した。
『フレイヤの予測通り、警備員2名が南側から接近しています。交差点まであと14秒。真矢さん、右斜め前方の給湯室へ退避してください。猶予は5秒です』
「了解」
真矢は迷うことなくカートを押し出し、指定された給湯室へと滑り込んだ。ドアをゆっくりと閉めた直後、廊下の向こうから革靴の硬い足音と、警備員同士の世間話が近づいてくる。
「……今日の夜食、何にする?」
「下のコンビニでカップ麺でも買うか」
足音が給湯室の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。
その間、クロエは監視カメラの映像を微調整し、真矢の存在を完全にシステムから隠蔽し続けていた。
『通過しました。真矢さん、給湯室を出て直進。突き当たりの重厚な木扉が、ゼニス・パートナーズの社長室です』
「着いたよ。電子錠付きだ」
真矢は社長室の扉の前に立ち、カートの底から取り出した小型のバイパスデバイスを電子錠のパネルの下部に素早く接続した。
『デバイスの認識を確認したわ。……ちょっと待ってね、かなり面倒な暗号化がされてる』
マンションのクロエが舌打ちをする。
『クロエさん、時間は?』
『20秒ちょうだい』
『フレイヤさん、次の警備員の巡回は?』
『北側の階段から1名降りてくる。到達まで残り28秒』
清太郎の視界で、時間の数字が冷酷にカウントダウンされていく。焦燥に駆られてもおかしくない状況だが、彼の声のトーンは1ミリも変わらなかった。
『クロエさん、残り15秒です』
『分かってるわよ! ……っ、ビンゴ!』
ガチャリ、と社長室の扉から小さな機械音が鳴った。
「ロック解除。開くわよ」
「ナイスサポート」
真矢は素早く扉を開け、カートと共に社長室の中へと滑り込んだ。直後に、廊下の奥から新たな足音が響き始めたが、すでに彼女の姿はない。
社長室の内部は、外の光を完全に遮断する分厚いブラインドが下ろされ、漆黒の闇に包まれていた。微かに高級な葉巻の匂いが漂っている。
真矢はペンライトを口にくわえ、部屋の奥へと進む。巨大なマホガニーのデスクの後ろ、壁の木製パネルが不自然に分割されている箇所を見つける。指先でパネルを押すと、音もなくスライドし、その奥から無骨で巨大な鉄の塊が姿を現した。
「エリートさん、到着したよ。ネットワークケーブルの影一つない、完全なアナログの鉄の箱だ」
真矢は清掃用のゴム手袋を外し、レザージャケットの内ポケットからプロ仕様のダイヤル聴診器とピッキングツールを取り出した。彼女の瞳が、獲物を狙う肉食獣のように鋭く光る。
「デジタルのサポートはここまでだね。ここからは、私のアナログな仕事だ」
インカムの向こう側で、清太郎が静かに微笑む気配がした。
『ええ。我々の最後の切り札を、よろしくお願いします』




