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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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14/14

第14話 1円の綻び、30億の巨悪

 土曜日の夜。


 クロエとのランチを終え、一度マンションに戻ってから再び街へ出た高野清太郎は、恵比寿の裏通りにある隠れ家的なワインバーにいた。


 照明を限界まで落とした店内は、アンティークのレンガ壁と磨き込まれた真鍮のカウンターが鈍い光を放っている。週末の喧騒から完全に切り離された静謐な空間で、清太郎の隣には、社長室秘書課の山内久美子が腰掛けていた。


「昼間はロンドンのお姫様とフレンチで、夜は私とワイン。高野くんも、窓際に左遷されたにしてはずいぶんと忙しいご身分ね」


 久美子は、ボルドーのグラスを軽く揺らしながら、悪戯っぽく微笑んだ。


 今日の彼女は、オフィスでのカチッとしたスーツ姿とは違い、深いバーガンディ色のカシュクールワンピースを纏っていた。胸元のドレープが柔らかな曲線を引き立て、動くたびに微かに香るイランイランの香水が、大人の余裕と艶やかさを醸し出している。


「有益な情報をもたらしてくださるパートナーへの、ささやかな慰労ですよ。それに、昼間は太陽の光を浴びるための健康管理の一環でもあります」


 清太郎は、自身のグラスに入ったピノ・ノワールを一口含み、静かに応じた。薄暗いバーのカウンターに座る彼の背筋は、静かな自信に満ちて真っ直ぐに伸びていた。グラスを傾ける手つきや、視線を向ける僅かな所作にも一切の無駄がなく、周囲の客とは明らかに違う研ぎ澄まされた空気を纏っている。


「ふふ、相変わらず隙がないわね。でも、ごめんなさい。今日は少し、甘くない情報を持ってきてしまったわ」


 久美子はグラスを置き、ふわりとした笑顔の奥で、ビジネスの最前線で培われた鋭い観察眼を光らせた。周囲に誰もいないことを確認し、声のトーンをわずかに落とす。


「西園寺常務が、本格的にあなたたちを潰しにかかるわ。明日の日曜日を挟んで、月曜の朝一番。監査部とシステム管理部が同時に動く手はずになっているそうよ」

「……第8資料管理室の、物理的な封鎖ですね」

「ええ。表向きは不採算部門の整理によるオフィスレイアウトの変更。でも実際は、部屋にある紙の資料の即時溶解処分と、端末の物理破壊よ。あなたとクロエちゃんには、出社直後に無期限の自宅待機命令が出る手筈よ」


 久美子の表情に、本気の懸念が浮かんだ。彼女はこれまで、社内のあらゆる権力闘争を間近で見てきた。だからこそ、西園寺という男の冷徹な手回しの早さが、どれほど致命的な事態を招くかを正確に理解していた。


「鮫島さんの時とは次元が違うわ。西園寺常務は、自分が少しでもリスクだと感じたものは、完璧に、そして合法的にシステムから排除する。あの地下室にある証拠ごと、あなたたちを完全に干し上げるつもりよ」

「手回しが早い。さすがは次期社長候補といったところですか」


 清太郎は表情を一切変えず、グラスの縁を指で静かになぞった。その声音には、驚きも焦りも微塵も混じっていない。


「高野くん。西園寺常務が動かしている30億円の海外投資……あれは、本当に追えるの? もし月曜に端末を押収されたら、あなたたちの武器は無くなるじゃない」

「ご心配には及びません、久美子さん」


 清太郎は、久美子の目を真っ直ぐに見つめ返した。その双眸には、恐怖はない。ただ、次の一手を確信している者特有の、静かで冷たい光が宿っていた。


「むしろ、彼らが『物理的な破壊で蓋をした』と安心し、油断してくれることこそが、我々の狙いでもあります。彼らが最も高く登り、勝利を確信した瞬間に梯子を外す。……鮫島課長の時と同じですよ」


 その揺るぎない言葉に、久美子はしばらく清太郎の目を見つめ返し、やがて小さく息を吐いて呆れたように笑った。


「……本当に、恐ろしい男ね。心配して損したわ。まあ、私にできるのはここまで。あとは、あなたたちのその完璧な計算式でお手並み拝見といかせてもらうわ」

「ええ。極上のエンターテインメントをお約束します」


 清太郎は静かにワインを口に含み、決意の籠もった視線を夜の街に向けた。グラスの底に残る澱のような赤黒い液体が、これから始まる壮絶な清算劇を暗示しているようだった。


★★★★★★★★★★★


 翌日。日曜日の深夜。


 明日には監査部によって完全封鎖される予定の、帝都物産本社地下二階、第8資料管理室。


 空調も止められ、カビと古い紙の匂いが一層濃く澱む空間で、クロエ・マクスウェルは四面のハイエンドモニターと睨み合っていた。彼女の指先は、まるで自らの命を削るような凄まじい速度でキーボードを叩き続けている。


「……プロキシの第三層を突破。シンガポールのダミーノードから、ケイマン諸島のペーパーカンパニー群へ。暗号化プロトコルの隙間を縫って、生データのキャッシュを引きずり出す……!」


 クロエの額に薄っすらと汗が滲む。彼女は前日に開けた極小のバックドアから、音もなくシステムの中枢へと侵入を果たしていた。緑色の文字列が滝のようにモニターを流れ落ち、西園寺がひた隠しにしてきた最深部の扉が、彼女のコードによって一つずつこじ開けられていく。


 数メートル後ろで、清太郎は静かにその背中を見守っていた。

 彼の手元にはすでに、月曜の朝には溶解される運命にある膨大なキングファイルの中から抽出した、数冊の重要な決裁書類が積み上げられている。


 カチャン、とクロエがエンターキーを強く叩き、深く息を吐き出した。


「……ビンゴ。抜いたわ。西園寺の息がかかった海外子会社の、監査法人に提出する前の『未公開決算書』のドラフトデータ。それと、各口座間のトランザクションの生ログよ」

「見事です、クロエさん。出力をお願いできますか」

「言われるまでもないわ」


 クロエがコマンドを打ち込むと、部屋の隅にある旧型のレーザープリンターが重々しい駆動音を立て、熱を持った紙を次々と吐き出し始めた。


 清太郎はプリントアウトされた数十枚の紙の束を手に取り、自身のデスクへと戻った。


 インクの匂いが漂う真新しい紙面。そこに印字されているのは、英語で書かれた財務諸表と、数万行に及ぶ数字の羅列だ。素人が見れば、ただの無味乾燥なデータの羅列に過ぎない。


 パラ……パラ……。


 一定のリズムで紙を捲る乾いた音が、静寂の地下室に響き始める。


 清太郎は沈黙の中で、印刷された膨大な数字の羅列に視線を落とした。


 直後、無味乾燥な黒いインクが、彼の視界の中で異様な色彩を帯び始めた。


 最初は、微かなノイズだった。


 海外子会社の「事業開発費」として計上されている莫大な支出。複数のダミー会社を経由して分散されたその数字の並びに、清太郎の目が止まる。


「……同じですね」


 清太郎の低く冷たい声が漏れる。


「何が同じなの?」


 ヘッドホンを外したクロエが、椅子を回転させて問いかけた。


「計算の『癖』です。……鮫島課長の5000万円の時と、全く同じ計算アルゴリズムが使われています」


 クロエの目が僅かに見開かれた。


「つまり、西園寺常務は、あの小悪党の架空発注と同じ洗浄屋を使っているってこと?」

「ええ。金の洗浄を請け負っているプロは、何十億という巨大な資金を動かす際、必ず手作業での確認を挟みます。その時、彼らは自身の報酬や経費を差し引くために、独自の計算式を用いる。パーセンテージの切り捨て方、小数点以下の丸め方、資金を分割する際の比率。人間が処理する以上、そこには必ず、その人間特有の手癖が残るのです」


 清太郎の視界の中で、本来の正規の取引を示す数字は、無色透明なガラスのように静かに流れていく。しかし、西園寺の裏金工作に関わる数字――クリーナーの手によって操作された数字だけが、ひどく毒々しい、赤黒い色を放って浮かび上がってくる。


「……30億円。帝都物産の口座から、東南アジアのインフラ事業出資という名目で引き出されたこの巨額の資金。それがシンガポールを経由し、ケイマン諸島で分割される際の計算式が、すべてあの5000万円のテストケースと合致する」


 清太郎の脳内に、耳障りな不協和音が鳴り響く。


 それは、会社の血とも言える利益が、不正なパイプラインを通って貪欲に吸い上げられていく音だった。数字のズレが生み出す摩擦音。権力と欲望が交差する、醜悪で重苦しい軋み。


 清太郎の目は、ページを捲るごとにその赤黒いノイズの軌跡を完全にロックオンしていた。


「彼らは、資金を複雑に分散させることで追跡を逃れようとしています。しかし、分散させればさせるほど、計算の『手癖』はコピーされ、増殖していく。私には、その赤黒い染みが繋がっていくのがはっきりと見える」


 清太郎の言葉に、クロエは息を呑んだ。


 ハッカーである彼女は、デジタルの壁を壊し、隠されたデータを引きずり出すことができる。しかし、その無数のデータの中から見えない糸を紡ぎ出し、一つの巨大な絵として完成させるのは、この男にしかできない神業だった。


 パラ……。


 最後のページを捲り終えた清太郎の手が、静かに止まった。


 彼の視界の中で、無数に散らばっていた赤黒い数字の染みが、最終的に一つの巨大な口座へと収束していくのが見えた。


 西園寺豪という男が、帝都物産を蝕み、私腹を肥やすために築き上げた真の終着点。


「見えました。30億の数字の軌跡が」


 清太郎は書類を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。


 その表情は、普段の温和な青年社員のそれではない。獲物の喉元に牙を突き立てる瞬間を待つ、極限まで研ぎ澄まされた捕食者の貌だった。


「……着地点はどこなの?」


 クロエの声が、緊張でわずかに震えた。


「ケイマンの信託口座を経由し、彼らが最後にプールした先。……それは、彼自身の口座ではありません。より巧妙で、より安全な『物理的な形』に変換しようとしています」


 清太郎は、暗い地下室の天井を静かに見上げた。明日には、この場所は物理的に破壊され、彼らは会社から追い出されるだろう。西園寺は、それで自分の秘密は完全に守られたと確信するはずだ。


 だが、彼らが壊すのはただの空箱に過ぎない。


 真実の数字は、すでに清太郎の脳内に、そしてクロエが構築したクラウドの奥深くに、完璧な形でインデックス化されている。


「西園寺常務。あなたは鮫島課長のような小悪党とは違い、実にスマートで冷徹なゲームをされる」


 清太郎の唇から、氷のように冷たく、そして絶対の自信に満ちた声が漏れた。


「ですが、あなたがどれほど高い視座から会社を支配しようとも、現実の金が動く以上、そこには必ず足跡が残る。あなたが残したこの赤黒い不協和音を、私は決して聴き逃しはしない」


 清太郎は視線を戻し、クロエの青い瞳を真っ直ぐに見据えた。


「30億の領収書、必ず精算していただきます。……1円のズレも残さずに」


 その静かな宣戦布告は、巨大な権力に対する絶対的な論理の刃として、冷え切った地下室に重く響き渡った。

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