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領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


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第11話 秘書の暗躍と役員室の不穏

 帝都物産本社ビル、最上階の社長室。


「一体どうなっている! 帝都物産の威信を示すはずだった全社研修が、あのような醜態で終わるとは!」


 重厚なマホガニーのデスクを拳で強く叩きつけたのは、大黒龍太郎社長だった。彼の巨体は怒りで小刻みに震え、はち切れんばかりのオーダーメイドのスーツが悲鳴を上げている。恰幅が良いという表現の限界を超えた肥満体型。赤黒く染まった顔にはべっとりと脂汗が浮き、ネクタイを締めた太い首筋には青筋が立っている。指に嵌められた大ぶりの金の指輪が、デスクに叩きつけられるたびに鈍い音を立てた。数日前の全社員参加のコンプライアンス研修において、経理部課長である鮫島健太の数千万円に及ぶ横領が白日の下に晒された。大黒にとって、足元で不正が行われていた事実そのものよりも、自らの威信を誇示するはずだった晴れの舞台が、制御不能な公開処刑の場と化したことの方がはるかに重大な問題だった。


「マスコミに嗅ぎつけられる前に、何としても火消しをしろ。警察への根回しも忘れるな。まったく、鮫島という男はどこまでも無能な足手まといだ」


 大黒の濁った怒声が響く中、窓際に立ち、眼下に広がる東京のビル群を見下ろしていた常務取締役の西園寺豪は、ゆっくりと振り返った。


 長身で無駄のないスマートな体格。仕立ての良さが一目でわかるダークネイビーのスリーピーススーツを、まるで自身の皮膚のように完璧に着こなしている。その顔立ちには、微塵の焦りも怒りも浮かんでいない。整った目鼻立ちの中で、冷徹さを孕んだ切れ長の目だけが、静かに大黒を捉えている。


「ご安心を、社長。人事部長と法務部長には手配済みです。鮫島の懲戒解雇および警察への告発準備は、研修終了から一時間ですべて完了しております」


 静かで、しかし部屋の隅々にまで通るバリトンボイスだった。


「……手回しが早いな、西園寺」

「会社の体面を守るための、当然の処置です。トカゲの尻尾切りには、ためらいを持たないことが肝要かと」


 西園寺は一切の未練なく、自らの派閥に属していた鮫島を切り捨てていた。大黒は鼻息を荒くしながらも、西園寺の迅速な事後処理には一定の評価を下さざるを得ないようだった。社長が深く椅子に腰掛け直したのを見計らい、西園寺は手元のタブレットを滑らかに操作した。


「社長。この一件は確かに不祥事ですが、逆に利用することも可能です。鮫島の横領という『会社全体の危機』を建前にすれば、かねてより懸案だった不採算部門の整理を、世間や労働組合の反発を最小限に抑えつつ断行できます」

「……ほう。リストラを加速させると?」

「はい。コンプライアンス強化と経営の健全化という名目のもと、社内に残る不要なベテラン層を一掃します」


 西園寺の言葉の裏にある真の意図に、大黒は気づいていない。西園寺にとって真に目障りなのは、無駄にコストを食う社員ではなく、長年会社に居座り、不正な資金の流れや経費の不自然なズレに気づく可能性のある、古参の勘の鋭い社員たちだった。彼らを合法的に会社から追い出すための、絶好の口実である。


「悪くない。早急に進めたまえ」


 大黒の安易な承認を得て、西園寺は僅かに口角を上げた。


「承知いたしました。すべては、帝都物産の輝かしい未来のために」


★★★★★★★★★★★


 地下2階、第8資料管理室。


 空調の効きの悪い淀んだ空気が漂う中、重厚な鉄扉が錆びた蝶番をきしませて開いた。カビと古い紙の匂いが染み付いた空間に、柑橘系から甘いバニラへと変わる上質で高級な香水の香りがふわりと流れ込む。


「あら。相変わらず陰気な部屋だけど、少しは風通しが良くなったかしら?」


 ヒールの足音を小気味よく響かせて現れたのは、社長室秘書課の山内久美子だった。身体のラインに沿ったネイビーのタイトスカートに身を包んだ彼女の手には、銀座にある老舗和菓子店の美しい手提げ袋が提げられている。


「お待ちしていました、久美子さん」


 高野清太郎は、自身のデスクに積み上げられた古い決裁書の山から視線を上げ、静かに立ち上がって深く一礼した。そのまま滑らかな動作でパイプ椅子を引き寄せ、久美子に勧める。


 数メートル離れた席では、クロエ・マクスウェルがモニターから視線を外し、面倒そうに深く息をついた。


「お茶会なら上のラウンジでやってくれない?」

「ごめんなさいね、クロエちゃん。でも今日は、あなたたちが欲しがりそうなとっておきの話を持ってきたのよ」


 久美子はふんわりとした笑顔でクロエの刺をいなし、清太郎のデスクに手提げ袋を置いた。中から現れたのは、季節の移ろいを表現した繊細な生菓子の詰め合わせだった。薄紅色の練り切りや、透明感のある錦玉羹が、まるで小さな宝石のように並んでいる。


「差し入れよ。糖分補給は大事でしょ?」

「お気遣いありがとうございます。素晴らしい細工ですね」


 清太郎は和菓子を一つ小皿に取り分けながら、静かに切り出した。


「それで、久美子さん。上の様子はいかがですか」


 その言葉に、久美子の表情から愛想笑いが消え、ビジネスの最前線を泳ぐ鋭い目つきに変わった。


「西園寺常務が動いているわ。鮫島の一件を利用して、経理や総務の古参社員たちを『不採算部門の整理』という名目で一斉にリストラする計画を立てているみたい。私が集めた情報だと、すでに人事部へ具体的な対象者のリストが回っているわ。過去の内部監査で証言をしたことがある人なんかも含まれているわね」

「やはり。目障りな監視役を排除し、自身の城を強固にするつもりですね」


 清太郎は落ち着いた声で応じた。


「それだけじゃないの。これが本命なんだけど……」久美子は声を潜めた。「西園寺常務が、極秘に『海外子会社への特別出資計画』を進めているわ。金額は、30億円」

「30億……」


 クロエがキーボードを叩く手を完全に止め、椅子を回転させて二人の方を向いた。


「表向きは、東南アジアにおける新規インフラ事業への出資ということになっているけど、稟議の通し方が異常なの。役員会議を通さず、大黒社長の専決事項として処理しようとしている。しかも、送金先は複雑なジョイントベンチャーを経由していて、実態が不透明よ」

「なるほど」


 清太郎の瞳に、冷たい光が宿った。


「鮫島課長の5000万円という端数のないキリの良い数字は、資金洗浄ルートが正常に機能するかを確認するための、単なるテスト用のダミーデータに過ぎませんでした」


 清太郎の脳内で、これまでの情報の断片が凄まじい速度で結合していく。彼の視界には、アナログの決裁書類の山と、クロエが暴き出したデジタルな送金ログの網の目が重なり合って見えていた。


「クロエさん。先日あなたが特定した、ロンドン支社からタックスヘイブンを経由して接続されている、あの資金洗浄のパイプライン。現在も監視を続けていますね?」

「ええ。監視用のバックドアは維持しているわ」


 クロエは即座に答えた。


「でも、今のところ大きな資金移動のトラフィックは検知していない」

「久美子さん、その30億円の特別出資計画ですが、最終的な決裁日はいつに設定されていますか?」

「明日の午後3時よ。社長の電子印が押された直後に、指定口座への送金処理が実行される手はずになっているわ」


 清太郎は、クロエの青い瞳を真っ直ぐに見つめた。


「クロエさん。あなたが監視しているルートの奥深く、複雑に暗号化されたトランザクションの中に、『疎通確認ルートの完成予定日』を示すタイムスタンプは残っていませんか?」


 クロエは即座にモニターに向き直り、目にも留まらぬ速度でキーボードを叩き始めた。黒いターミナル画面に緑色の文字列が滝のように流れ、暗号化されたログの深層へとダイブしていく。地下室の乾いた空気を、猛烈なタイピング音が切り裂く。


「……待って。バハマのプロキシサーバーを経由して、香港の取引所に設定されたスマートコントラクトの実行予約ログ。……タイムスタンプのデコード完了」


 クロエの指が止まり、画面上の特定の数字をハイライトした。


「明日の午後3時0分0秒。……嘘でしょ。出資計画の最終決裁日と、疎通確認ルートの完全オープン予定日が、秒単位で一致している」

「見事です」


 清太郎の唇に、三日月のような冷酷な微笑みが浮かんだ。


「西園寺常務は、大黒社長の決裁をトリガーとして、30億円という本命の資金を一気にあのルートへ流し込むつもりです。鮫島課長というテストプレイヤーを使い捨て、いよいよ『本番』へ移行しようとする決定的な瞬間です」

「30億が完全にあのパイプラインに吸い込まれたら、いくら私でもすべてを追跡しきるのは難しいわ。暗号資産のミキシングを何十回も噛まされたら、完全に資金は消滅する」


 クロエの顔に緊張が走る。


「彼らが巨大な資金を動かせば、そこには必ず致命的なノイズが生じます。明日の午後3時。その瞬間こそが、真の清算の時です」


 清太郎は静かに言い放ち、和菓子を口に運んだ。上品な甘さが、冷徹に研ぎ澄まされた脳細胞に静かに浸透していく。


★★★★★★★★★★★


 その日の夜。


 地下室での密度の濃い作戦会議を終えた後、三人はホテルオークラ東京へと足を運んでいた。久美子の手配で予約された中華レストラン『桃花林』の個室で、極上の料理を堪能し、張り詰めていた神経を少しだけ緩める。


 濃厚でありながら澄み切った黄金色のスープでじっくりと煮込まれたフカヒレの姿煮。そして、飴色に輝くパリッとした皮に甘味噌を絡めた北京ダック。クロエは最初こそ「日本の社内政治の延長のような会食はご免だ」と渋っていたが、目の前に並べられた料理の圧倒的な質の高さにはあっさりと沈黙し、黙々と箸を進めていた。


 食後、ホテルを出た彼らは、赤坂の路地裏にある静かなレストランバーへと移動した。照明が落とされ、静かなジャズが流れる大人の空間だ。


 革張りの深いソファに腰を下ろすと、久美子が慣れた様子で赤ワインをオーダーする。


「さあ、明日の本番に向けた前夜祭よ。軽く一杯だけね」


 運ばれてきたのは、芳醇な香りを放つフルボディの赤ワインと、この店の名物である牛トロのカルパッチョだった。


 大理石のような美しいサシが入った極上の牛肉が、皿の上に薄く敷き詰められている。表面には熟成されたパルミジャーノ・レッジャーノが粉雪のように削りかけられ、上質なエキストラバージンオリーブオイルが琥珀色の輝きを放っていた。散らされたルッコラの鮮やかな緑と、粗挽きの黒胡椒が、視覚的にも食欲を刺激する。


 清太郎は静かにフォークを取り、一枚を口に運んだ。


 舌の温度で瞬時に溶け出す牛トロの極上の脂の甘み。そこにオリーブオイルの青々しい香りと、チーズの深い塩気、そしてバルサミコ酢の微かな酸味が完璧なバランスで絡み合う。


「……素晴らしい調和ですね。素材の良さはもちろんですが、各々の要素が1グラムの狂いもなく計算されている」


 清太郎の言葉に、クロエが自身のグラスを軽く揺らしながら鼻で笑った。


「あなたは何を食べても、結局は数字と計算の話になるのね。本当に気味の悪い経理マン」


 清太郎は静かに微笑み、会釈するようにグラスをわずかに傾けた。


「過分なお言葉ですね」

「明日の午後3時。西園寺常務が30億円という巨大な数字を動かす瞬間。我々もまた、完璧な計算式で彼を迎え撃つ必要があります」

「ええ。サイバー空間の監視システムは私が完璧に仕上げておくわ」


 クロエの青い瞳に、ハッカーとしての純粋な闘争心が燃えている。


「1バイトのデータすら逃さない」

「私は、上の連中の動きをギリギリまで監視しておく。大黒社長のスケジュールに変更がないかも含めてね」


 久美子もまた、ワインを一口飲み、妖艶な笑みを浮かべた。


 清太郎は、窓の外で瞬く赤坂のネオンを見つめた。地上の喧騒から切り離された静かな空間で、都会の灯りが彼の持つワイングラスの曲面に反射して揺れている。彼はゆっくりと残りのワインを喉の奥へ流し込み、静かに目を伏せた。

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