表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
領収書、拝見します。〜左遷された天才経理の裏帳簿ハンティング〜  作者: 伊達ジン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/12

第10話 地下室の「戦利品」と次なる不協和音

 古い紙の匂いとカビの気配が淀む空間に、乾いたタイピング音が機関銃のように響き渡っていた。


 窓一つない地下二階の第8資料管理室。壁一面を埋め尽くすスチールラックには、帝都物産の過去数十年分の決裁書が墓標のように整然と並べられている。


 高野清太郎が重厚な鉄扉を開けて中に入ると、自身のデスクには向かわず、まっすぐに奥のモニター群へと歩み寄った。そこには、薄暗い部屋の中で異彩を放つ、四面構成のハイエンドモニターが壁のようにそびえ立っている。


 少し着崩したラフな黒のシルクシャツを纏い、透き通るような白い肌を青白い光に照らされたクロエ・マクスウェルの姿があった。彼女のブルーの瞳は、モニター上を滝のように流れる緑色の文字列と、無数のコマンドプロンプトのウィンドウを恐ろしい速度で追尾している。長いブロンドの髪は無造作に束ねられ、手元のマグカップのコーヒーはすっかり冷え切っているようだった。


「おはようございます、クロエさん。随分と早いですね」


 清太郎が温和な声で呼びかけると、クロエはキーボードを叩く手を一瞬も止めずに、鼻で小さく笑った。


「あなたが遅いのよ、エリート様」


 シニカルな響きを含んだその呼び名には、以前のような完全な拒絶や無関心はなかった。鮫島健太という腐敗した直属の上司を、逃げ場のない論理と証拠で盤上から完全に退場させた清太郎の冷徹な手腕。それに対する、一種の皮肉めいた敬意が混じっている。彼女の指先は、まるでピアノの難曲を弾きこなすかのように、複雑なコードを淀みなく紡ぎ出していた。


「私の出社時間は規定通りですが。それにしても、随分と能動的に作業を進めていただいているようで助かります」

「勘違いしないで。私の高度なハッキング技術を、あんな中途半端な泥棒の小遣い稼ぎを『暴くため』だけに使わされたのが、我慢ならないのよ」


 クロエはエンターキーを強く、ひときわ大きな音を立てて叩いた。その瞬間、四面のモニターのうち中央のメインスクリーンに、一つの複雑なネットワーク図が展開された。それは、先日鮫島を処刑するために使用した、ダミー会社の海外送金ルートのさらに深層を可視化したものだった。赤と青のラインが、世界地図の上を血管のように這い回っている。


「鮫島のダミー会社から抜き取ったサーバーログを、さらに深い階層まで解析してみたわ」


 クロエはキャスター付きの椅子を回転させ、清太郎を見上げた。その瞳には、ハッカーとしての純粋な闘争心と、得体の知れない巨大な闇の輪郭を捉えた緊張感が宿っている。


「あなたが言っていた通りよ。5000万円というキリの良い数字は、ただのテスト用のダミーデータに過ぎなかった。鮫島が使っていたバハマからキプロス、そして香港を経由するルート。あれは、鮫島自身が構築したものではないわ。さらに上位の権限を持つ人間が、既存の社内ネットワークのバックドアを利用して構築した『プロの手による資金洗浄のパイプライン』よ」


 清太郎は表情を変えることなく、モニターに映し出されたノードの繋がりを見つめた。彼の網膜には、光る点の連なりではなく、過去数十万件に及ぶ経費決裁のデータの束が重なって見えていた。


「興味深いですね。そのパイプラインの起点は、どこに繋がっていたのですか?」

「……帝都物産の、ロンドン支社よ」


 クロエの声が、僅かに硬く冷たくなった。地下室の乾いた空気が、一瞬にして張り詰める。


 ロンドン支社。それは、彼女自身がかつて内部監査室のエースとして働き、そして本社役員絡みの巨大な不正に触れたことで、この極東の地下室へと左遷される原因となった因縁の場所だった。完璧な証拠を集めながらも、権力という理不尽な壁の前にすべてを握り潰された記憶。彼女の細い指先が、無意識のうちに強く膝を握りしめている。指の関節が白くなるほどの力がこもっていた。


「ロンドン支社の休眠状態の口座をプロキシとして経由し、複数のタックスヘイブンにある海外子会社へと接続されている。高度に暗号化されたトランザクションの履歴が、無数に残っていたわ。鮫島の5000万なんて、この巨大なパイプのほんの入り口を濡らした程度の水滴に過ぎない」


 地下室の低い駆動音だけが、二人の間に横たわる静寂を埋めていた。


 清太郎の脳内では、アナログの紙の山から拾い集めた不自然な接待の日付、金額のズレといった情報の断片が、クロエが提示したロンドン支社発の資金洗浄ルートと凄まじい速度で照合され、結合されていく。人間の欲が作り出した不自然な数字の羅列が、一つの巨大な不協和音となって彼の共感覚を刺激した。


「鮫島課長のような小悪党を、わざわざこの洗練されたルートのテストプレイヤーに選んだ理由。それは、彼が万が一尻尾を掴まれても、個人の横領事件としてトカゲの尻尾切りが容易だったからです」


 清太郎の声からは、一切の温度が消え失せていた。彼は完璧なポーカーフェイスのまま、モニターの奥に潜む「真の標的」に向けて独白するように呟いた。


「5000万がテスト用のダミーデータなら、本番で流れるのは十億単位。この不協和音は、まだ序曲に過ぎない」


 その言葉に、クロエは背筋に冷たいものが走るのを感じた。強大な権力に対する本能的な恐怖。しかし同時に、その巨大な壁すらも論理と数字で解体しようとするこの男に対する、確かな信頼が彼女の中で形作られつつあった。彼は決して感情で動かない。だからこそ、どれほど巨大な敵であろうと、必ずその論理の刃は喉元に届く。


「……本当に、性格が悪いわね。不気味な経理」


 クロエは小さく息を吐き、再びキーボードに指を置いた。ロンドンの呪縛に立ち向かう覚悟を決めたように、その横顔には以前のような無力感はなかった。


「最高の褒め言葉として受け取っておきましょう。引き続き、ロンドン支社からのトラフィックの監視をお願いします。本命の数字が動く時、必ずどこかに1円のズレが生じます」


 清太郎は静かに一礼すると、自身のデスクへと戻り、うず高く積まれた古い決裁書の山へと再び手を伸ばした。地上の喧騒とは無縁の地下室で、巨大な不正を狩るための静かな準備が着々と進められていた。


★★★★★★★★★★★


 その日の夜。


 清太郎は、都内にある自身の清潔で整然としたマンションの一室に帰宅していた。スーツをハンガーにかけ、完璧にアイロンがけされたシャツからラフな部屋着へと着替えると、彼はすぐにキッチンへと向かった。


 彼の思考は依然として地下室で見た巨大な資金洗浄のルーティング図をなぞっていたが、その手元は全く別の作業に向けて寸分の狂いもなく動き始めていた。無駄を徹底的に削ぎ落とした、彼特有の静謐な時間だ。キッチンツールはすべて定位置に収まり、ステンレスの調理台には曇り一つない。


 今夜の献立は、冷蔵庫に残っていた一昨日のあまり食材の活用だった。


 取り出したのは、豚ロースの塊肉、シュウマイの皮と餡の残り。鰺の開き。そして、シメジ、シイタケ、マッシュルームといったキノコ類とモズクだ。


 清太郎はまず、よく研がれた柳刃包丁を手に取り、豚ロースの塊肉と向き合った。冷気に包まれた肉の繊維の方向を正確に見極め、刃の重みだけを利用して滑らせていく。まな板に当たる微かな音とともに、ミリ単位で均一に切り出されたスライス肉が、美しいカードの束のように整然と並べられていく。摩擦熱を極限まで抑えた流れるような刃筋は、細胞を潰すことなく肉の本来の旨味を閉じ込めていた。


 次に、残っていた餡をシュウマイの皮で包む。左手で皮を作り、右手で餡を乗せ、親指と人差し指を使って滑らかな円柱状に整える。指先の淀みない動きで、均等なヒダが刻まれたシュウマイが次々と形成され、木製の蒸し器の中へと等間隔に配置される。火にかけると、やがて沸騰した湯の蒸気が立ち上がり、竹特有の清々しい香りがキッチンにほんのりと漂い始めた。


 コンロの隣では、魚焼きグリルが完璧な予熱を終えていた。清太郎は鰺の開きを慎重に網に乗せる。遠火の強火を意識し、皮の表面に浮き出る脂の弾ける微かな音に耳を澄ませる。焦げる手前の最も香ばしい匂い。火の通り具合を視覚だけでなく音と匂いで判断し、皮はパリッと、身はふっくらと仕上がる絶妙なタイミングを見計らう。決して焼きすぎることはない。


 その合間に、フライパンにオリーブオイルと細かく刻んだガーリックを投入し、弱火でじっくりと香りを引き出す。オイルにガーリックの芳醇な香りが完全に移り、微かに色づき始めた瞬間、シメジ、シイタケ、マッシュルームを豪快かつ手早く炒め合わせる。強火でキノコから出る余分な水分を素早く飛ばしつつ、ガーリックの風味を表面に均一にコーティングしていく。フライパンを振る手首のスナップには一切の無駄な力みがなく、三種のキノコが空中で美しく舞ってはフライパンへと収まる。仕上げに数滴の醤油を鍋肌に垂らすと、焦げた醤油の香ばしい匂いが爆発的に広がり、プロ顔負けのガーリック風味ソテーが完成した。


 最後に、あらかじめ引いておいた一番出汁を小鍋で温める。昆布と鰹節の繊細な風味を飛ばさないよう、決して沸騰させない温度を保ちながらモズクを落とす。磯の香りが上品な出汁の旨味と混ざり合い、透き通った黄金色の吸い物が漆塗りの椀に注がれた。


 食卓には、見事な定食が並んだ。均一な火入れでほんのりと桜色に仕上がった豚ロースのスライス、肉汁を閉じ込めた熱々のシュウマイ、脂が乗って皮目が香ばしい鰺の開き、食感を残したキノコのガーリックソテー、そして上品なモズクの吸い物。


 清太郎は姿勢を正し、静かに箸を取った。


 咀嚼する間も、彼の脳裏にはロンドン支社からタックスヘイブンへと延びる複雑なパイプラインが明滅していた。鮫島というテストプレイヤーを使い捨てた、真の黒幕。何十億という巨大な金が動く時、彼らは必ずどこかで驕り、ボロを出す。その些細なノイズを、決して逃しはしない。


 丁寧に作られた料理の調和を一つ一つ確かめるように味わいながら、清太郎は一人、静かに食事を終えた。


 食後。


 清太郎は湯を沸かし、急須に棒茶の茶葉を正確に計量して入れた。一度湯冷ましに移して最適な温度まで下げた湯を注ぎ、砂時計で抽出時間を計る。最後の一滴まで絞り切るように湯呑みに注がれた琥珀色の液体からは、焙煎された茎特有の、深く香ばしい香りが立ち上った。


 清太郎は湯呑みを手に取り、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。地上の光の海が、音もなく静かにまたたいている。


 一口、棒茶をゆっくりと飲む。温かい液体が喉を通り、冷徹に研ぎ澄まされた脳細胞を静かに落ち着かせていく。


 誰もいない部屋で、清太郎は窓ガラスに映る自身の顔を見つめ、極めて優雅に、そして氷のように冷たい微笑みを浮かべた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ