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【SF短編小説】共感覚翻訳士レイ・カナエの沈黙 ―312の言語、100年の孤独、そして君の心拍―  作者: 霧崎薫


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エピローグ:100年後のアーカイブに灯る点

 銀河交信記録局のアーカイブ室は、局舎の地下にある。


 研究者のナン・シウは古い記録の整理をしていた。デジタル化されたアーカイブの中に、紙の手書き記録が混在している。100年前は紙の記録が多かった。


 レイ・カナエの翻訳記録がある。


 整理されたファイルを開くと、解読済み案件が時系列で並んでいる。312言語分の解読実績。一件一件に「感情的内容:なし」が末尾についている。


 几帳面だ、とナン・シウは思った。


 途中から変わる。


「感情的内容:判定保留」


 次に「感情的内容:測定不能」。


 そして「感情的内容:あり」。


 変化の理由を説明する記述はどこにもない。ただ、記録だけが変わっていく。


 VX-Null関連の記録が別フォルダにある。翻訳不能宣言の報告書。副局長との記録。観測日誌。そして送信ログ。送信内容の説明欄に「翻訳不能」と書かれている。


 送信したが翻訳不能なものを送る、という矛盾をナン・シウはしばらく考えた。


 返信受信の記録がある。受信内容の欄に「翻訳不能。心拍との同期:あり」と書かれていた。


 別のフォルダに、ヴァシ・オリンの手帳のスキャンデータがあった。全ページがスキャンされている。その中に一ページ、破り取られた跡があった。


 別途現物保管と注記があった。


 ナン・シウは立ち上がって、棚の奥を確認した。保管ケースが一つある。ラベルに「レイ・カナエ関連資料・物理保管」と書かれている。


 ケースを開けた。


 中に、小さく折り畳まれた紙片が入っていた。


 ビニールの保護袋に収められていた。袋の外から見ても、紙が相当くたびれているのが分かった。折り目が何度も繰り返されて、繊維が白く毛羽立っている。端にインクのにじみがある。


 袋から取り出さずに、透越しで見た。


 点の群れだった。


 文字ではない。記号でもない。密な部分と疎な部分がある。不規則な大きさの点が、不規則な間隔で並んでいる。


 ナン・シウは解読ソフトを起動しようとして、止まった。


 端末に向かいかけた手が、途中で止まった。


 紙片をまた見た。


 点の群れ。

 密な部分と疎な部分。

 不規則な間隔。


 ナン・シウは無意識に、指先で机を叩き始めた。規則的な間隔で。


 叩きながら、何かを考えようとした。しかしそれはまとまらなかった。


 叩くのをやめた。


 記録簿を開いた。今日の整理記録をつける欄がある。


「解読済み。意味:不明。感情的内容:あり」


 なぜそう書いたのか説明できなかった。


 「解読済み」と書いたが、解読はしていない。「意味:不明」は矛盾だ。「感情的内容:あり」は整理記録の欄に書く内容ではない。


 書き直そうとして、やめた。


 紙片を保護袋ごと、丁寧に元のケースに戻した。


 記録簿を閉じた。荷物をまとめた。帰宅する時間だった。


 廊下に出ると、換気システムの低い音がした。いつも聞いている音だ。


 今日は、立ち止まって聞いた。


 自分の心拍が、音の間隔と、わずかに重なる瞬間があった。


 ナン・シウは胸に手を当てた。


 廊下の突き当たりに窓がある。外は暗かった。


 しばらくそこに立っていた。窓の外には何も見えない。自分の顔が薄く映っている。


 遠くで、何かの周期が、自分の鼓動に静かに寄り添っているのを感じた。


(了)


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