壮大な計画 1
風が清々しい空気をのせて、開け放たれた窓を抜けていくある気持ちの良い午後のこと──
イリユスの神殿長・啼義は、 十八歳になったばかりの息子、蒼惟の言葉に耳を疑った。
「今、なんて言った?」
すると蒼惟は、父の困惑の表情など気にも留めない様子で、黒い瞳──ほのかに神秘的な紫のグラデーションを宿している──を爛々と輝かせ、胸を張って、先ほどより少しばかり丁寧に言葉を並べて繰り返した。
「ドラガーナ山脈を挟んで北と南にある慈禊の祠と慈源の祠を、誰でも通れるように出来ないかって考えたんだ」
「……」
聞き間違いではなかった。
啼義は、軽い目眩を覚えて息子と同じ黒髪を揺らし、思わず眉間に皺を寄せたが、蒼惟の溌剌とした声が追い打ちをかけた。
「父上は成人の儀の時、大陸の安全を護る神殿長の長男として、自分に出来そうなことを何か考えろって言っただろう? あそこが本当に瞬間移動の扉として機能すれば、物や人の往来が格段に楽になる」
啼義は渋い表情のまま、机についていた手を腕組みに変えて、あらためて息子と向き合った。こないだまで見下ろしていた気がするのに、いつの間にか息子の身長は少々自分を追い抜いている。
父としての威厳が損なわれないよう、彼は努めて重鎮な声音を意識して口を開いた。
「そうは言ったが、そんな非現実的なことを考えろという意味じゃない。もっとこう、日々の生活に根ざしたことで考えて行動しろという意味で言ったんだ」
「非現実的?」蒼惟が目を瞬く。啼義は小さく息をついた。
「あれは閉じられし祠で、今は全く使われていない。山脈を一瞬で抜けられるどころか、生きて出た者の記録などないに等しい死の祠とも呼ばれている。どんな仕組みで稼働していたかさえ分からない。それを、誰でも使えるように? 夢物語もいいところだ」
「……」
蒼惟は、足元に目線を落として黙った。
<けれど、そんな場所に目をつけるとはな>
啼義は内心、息子の視野が意外と広いことに感心していた。蒼惟の目は、自分の住む神殿や街の範囲を大きく飛び出し、まさにこのエディラドハルドの大陸全体に向いている。だが、今回の案は少々飛躍しすぎだ。
「わかった」
蒼惟が、顔を上げた。そうか、と答えようとして見たその顔には、諦めではなく笑顔が浮かんでいる。啼義は嫌な予感がした。
「じゃあ、どんな仕組みなのか、あの祠のことをもっと調べてから、策を練るよ」
「は?」
そういうことじゃない。
啼義は呆気に取られ、その思いを言葉に出すこともできずに、「では神殿長、お邪魔しました」と行儀良く頭を下げて踵を返し、淡い青色のマントを靡かせて颯爽と出ていく息子を見送った。
一人残された部屋に、風が、窓からふわりと外の空気を運んでくる。少しばかり熱を帯び始めた、初夏の風だ。
啼義は、小綺麗に整えた顎鬚を無意識に撫でた。四十にしては歳若くみられがちなイメージを払拭し、貫禄をつけようと、昨年から伸ばしているのだ。
<全く……誰に似たんだろう>
どちらかというと、自分は慎重な方だ。だとすれば、何事も根本的に明るい方へ考える気質は、妻であり、蒼惟の母──リナ寄りなのだろう。
おまけに蒼惟は、イリユス神殿の長の嫡男として、何不自由なく、文字通りすくすくと真っ直ぐに育っている。この神殿ではなく、出自不明の赤ん坊として北部の社の頭領に拾われ、十七歳まで異郷の地で育った自分のような苦労は、一切していない。
そんな環境が、挫折や葛藤を知らない、前向きで伸びやかな人格の形成に影響していることは間違いなかった。
<曇りがないということは、強みかも知れない。けれど──>
この先も、陽気な気質だけで乗り切っていけるほど、世の中は甘くはない。その壁にぶち当たった時、蒼惟はどうなるのだろう。
「生きて抜けた者など、いないに等しい祠……か」
声に出して、独り言つ。
ああは言ったが、啼義は、あの祠を生きて通った人物を、一人だけ知っていた。
上級魔術師ダリュスカイン。
約二十三年前、もはや誰も使おうともしなかったあの祠を見事に抜けたのは、金の髪に紅赤の瞳を持つ美貌の青年であり、その突出した魔力に並ぶ者のない孤高の魔術師であった。
彼は、ただ祠を抜けた魔術師としてだけ、啼義の記憶に刻まれているわけではない。
緩んだ境界線を越えて人里に出没する魔物の脅威に人々が脅かされていた当時に、イリユスから遠い北東の地域に莫大な結界を施して魔物の出没を食い止めたのは、他らなぬダリュスカインだ。それは、現在は啼義が有している魔物を抑制するための力、<蒼空の竜の加護>があの地に及ぶまで、思いがけず大きな助けとなった。
しかし、彼は十五年ほど前に他界している。
だが、その血は途絶えたわけではない。ダリュスカインには二人の子供がいた。そのうちの一人、二卵性双生児の弟が──
「ついこないだまで、イリユスにいたんだよな……」
父に似た秀麗な顔立ちに紅赤の鋭い瞳と、母譲りの真っ直ぐな黒髪に前髪の一房だけ紅が混じった無愛想な青年──柊の姿が、啼義の脳裏に浮かぶ。
柊は蒼惟より二歳上、今年二十歳。二年前に神学院の魔術科を首席で卒業していた。啼義が魔術の才を見出し、神学院に通わせるためにイリユスに呼び寄せたこともあり、在学中は同じ敷地内に居を置いていた。ゆえに柊と蒼惟は、もちろん顔見知りだ。
<蒼惟が、嗅ぎつけなければいいが>
しかしそういう願いは、得てして裏切られる運命にあるのだ。




