謀
飛鳥の夜は、いつも朝廷の秘密を飲み込んで明ける。
小墾田宮の奥殿。灯火の脂が焦げる匂いの中、三人の男が膝を揃えていた。冠をつけた者、頭巾の者、そして顔を布で覆った者。名を呼ばぬ。呼んだ言葉は証拠になるからだ。
「長谷王の骸は」
「見つかりませぬ」
布を被った男の声は低く、感情を持たぬ水のようであった。
「川沿いを十里。葦を踏み倒し、死体を探させました。血はございました。矢傷の量ならば、失血で落ちるはず」
「ならば川底か」
「それが……」
男は一息置いてから告げる。
「白壁王もおりませぬ」
沈黙が灯火を揺らした。
冠の男が膝の上で指を組み、組んだ指へ力を込める。関節が白くなった。
「長谷王一人を消せと言うたはずだ」
「左様。しかし白壁王は長谷王と共に舟に乗っておりました。川辺の者が見ております」
「七つの子が……」
頭巾の男が初めて口を開いた。声が震えている。老いた声ではなく、恐怖の震えであった。
「白壁王は、大王家のお血筋でもある。しかし、上宮天皇の御子であることに変わりはない。その子が死んだとあれば――」
「騒ぎになる」
「騒ぎでは済みませぬ」
男は明確に言葉を切った。
「神罰、と人は呼びましょう。天皇の御子たちを手にかけたとなれば、仏罰も天罰も、両方が降ります。民は鬼神が宮を焼くと信じる。左様な噂は疫病より速く広まる」
冠の男は瞑目した。
灯火がひとつ、音もなく揺れて消えた。
「捜せ。白壁王を。生きた姿で、斑鳩へ返せ」
「長谷王は」
「見つかれば消せ。ただし……」
男は目を開いた。その目に感情はない。ただ算盤を弾く商人のような冷たさがあった。
「白壁王の前でするな。それだけだ」
布を被った男は頭を下げ、音もなく闇へ溶けた。残された二人は互いを見ず、それぞれ燃え残った灯火を見つめている。
脂の焦げる匂いだけが、変わらず部屋に満ちていた。
***
斑鳩の中宮は、夜が明けても静寂を取り戻さなかった。
廊下を走る足音、呼び交わす女官の声、転がる水瓶。その喧騒の中心に、偉名部妃はいた。
几帳を引き倒し、白い絹が床に広がっている。その上に跪いた妃は、衣の乱れも髪の乱れも構わず、地面を両手で叩いていた。
「白壁を返せ。白壁を……っ」
声が割れていた。泣き声でも悲鳴でもない、獣が罠に足を挟まれた時に上げる、あの種の声であった。
「妃様」
祖母、額田部大王が暫く頼む、と置いていった采女が恐る恐る近づく。妃は顔を上げた。その目に涙はない。乾いた炎だけがある。
「長谷王はどこだ」
「存じませぬ、妃様」
「長谷王が連れて行ったのだ。あの男が、白壁を連れて逃げたのだ!」
采女は口をつぐんだ。否定も肯定も、今この妃の前ではどちらも刃になる。
「上宮様が身罷られてから、この宮は変わった。変わったのだ」
妃は立ち上がった。よろめきながら、それでも柱を掴んで体を起こす。
「あの男の目を見たか。上宮様が身罷られたというのに、一度も泣かなかった。一度も。吾の元にさえ、一度も通うことはなかった!」
偉名部妃の声は低く、低くなるほど凄みを帯びた。
「あの者を信じてはならぬ。心を持たぬ者ほど、恐ろしいものはない」
「妃様……。妃様は、今は長谷王様の妃であらせられますのに……」
「あの男は、地位が欲しくて吾を娶っただけだ!!」
妃は采女の言葉を断ち切った。
「白壁はまだ七つ。乳の匂いが残っている。その子をひとり夜の川へ連れ出して、何が義父だ、異母兄だ」
廊下の端で、老いた乳母が袖を噛んでいた。泣き声を堪えているのか、それとも別の何かを堪えているのか、その皺だらけの顔からは読み取れない。
妃はふたたび床に崩れた。今度は倒れるように、ゆっくりと。
「白壁……」
子の名を呼ぶ声だけが、先ほどとまるで別の声だった。柔らかく、濡れていた。
「白壁、どこにいる……」
朝の光が几帳の倒れた窓から差し込む。埃が光の中で舞い、妃の乱れた髪を照らした。美しい朝だった。白壁王がいた頃と何一つ変わらぬ朝だった。その変わらなさが、何よりも残酷であった。
***
川は夜明けとともに霧を脱いだ。
大和川の流れは穏やかで、舟は人の意志など知らぬように東へ東へと押し流されてゆく。
長谷王は左腕を腹へ押し付けたまま、目だけで空を見ていた。橙と紫が混じった夜明けの空は、血と膿の色に似ている。
白壁王は舟底で丸くなり、眠っていた。
子供の寝顔というのは不思議なものだ、と長谷王は思った。あれほど冷静に老人と言葉を交わし、あれほど静かに死を差し出そうとしたこの子が、今は口を半開きにして川の揺れに任せている。
そうだ、この子はまだ七つなのだ。
長谷王は視線を川面へ戻した。水は赤くない。己の血を受け取りながら、水は何も語らず流れ続けている。
老人の言葉が耳に残っていた。
――その道は、まだ誰も歩いたことがない。
誰も歩いたことがない道というのは、道ではない。獣道でもなく、ただの荒野だ。踏み固める一歩一歩が、そのまま血の染みになる可能性がある。
しかし――、長谷王は目を閉じた。
脳裏に父上の姿が見える。折れた槍が見える。幾度も繰り返した夜が見える。同じ選択をするたびに、同じ場所で同じ血が流れた。
ならば違う選択をするほかにない。
どれほど茨であろうとも。
常世の長鳴鶏はもう鳴かない。かわりに川辺の葦原で、名も知れぬ鳥が一声啼いた。夜明けを知らせる声か、それとも嘆きの声か。
白壁王が目を開けた。
兄の顔を見て、何も言わない。ただ起き上がり、膝を揃えて川の先を見た。
二人の前には、まだ誰も名付けていない水の道が続いている。
舟は流れる。
東へ、夜明けへ。あるいは、別の夜へ向かって。




