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蒼月海照シ 明光ハ 常夜見ノ彼方  作者: ふく ねこ


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2/2

 飛鳥の夜は、いつも朝廷の秘密を飲み込んで明ける。

 小墾田宮の奥殿。灯火の脂が焦げる匂いの中、三人の男が膝を揃えていた。冠をつけた者、頭巾の者、そして顔を布で覆った者。名を呼ばぬ。呼んだ言葉は証拠になるからだ。


「長谷王の(なきがら)は」


「見つかりませぬ」


 布を被った男の声は低く、感情を持たぬ水のようであった。


「川沿いを十里。葦を踏み倒し、死体を探させました。血はございました。矢傷の量ならば、失血で落ちるはず」


「ならば川底か」


「それが……」


 男は一息置いてから告げる。


「白壁王もおりませぬ」


 沈黙が灯火を揺らした。

 冠の男が膝の上で指を組み、組んだ指へ力を込める。関節が白くなった。


「長谷王一人を消せと言うたはずだ」


「左様。しかし白壁王は長谷王と共に舟に乗っておりました。川辺の者が見ております」


「七つの子が……」


 頭巾の男が初めて口を開いた。声が震えている。老いた声ではなく、恐怖の震えであった。


「白壁王は、大王家のお血筋でもある。しかし、上宮天皇の御子であることに変わりはない。その子が死んだとあれば――」


「騒ぎになる」


「騒ぎでは済みませぬ」


 男は明確に言葉を切った。


「神罰、と人は呼びましょう。天皇の御子たちを手にかけたとなれば、仏罰も天罰も、両方が降ります。民は鬼神が宮を焼くと信じる。左様な噂は疫病より速く広まる」


 冠の男は瞑目した。

 灯火がひとつ、音もなく揺れて消えた。


「捜せ。白壁王を。生きた姿で、斑鳩へ返せ」


「長谷王は」


「見つかれば消せ。ただし……」


 男は目を開いた。その目に感情はない。ただ算盤を弾く商人のような冷たさがあった。


「白壁王の前でするな。それだけだ」


 布を被った男は頭を下げ、音もなく闇へ溶けた。残された二人は互いを見ず、それぞれ燃え残った灯火を見つめている。

 脂の焦げる匂いだけが、変わらず部屋に満ちていた。


     ***


 斑鳩の中宮は、夜が明けても静寂を取り戻さなかった。

 廊下を走る足音、呼び交わす女官の声、転がる水瓶。その喧騒の中心に、偉名部妃はいた。

 几帳を引き倒し、白い絹が床に広がっている。その上に跪いた妃は、衣の乱れも髪の乱れも構わず、地面を両手で叩いていた。


「白壁を返せ。白壁を……っ」


 声が割れていた。泣き声でも悲鳴でもない、獣が罠に足を挟まれた時に上げる、あの種の声であった。


「妃様」


 祖母、額田部大王が暫く頼む、と置いていった采女が恐る恐る近づく。妃は顔を上げた。その目に涙はない。乾いた炎だけがある。


「長谷王はどこだ」


「存じませぬ、妃様」


「長谷王が連れて行ったのだ。あの男が、白壁を連れて逃げたのだ!」


 采女は口をつぐんだ。否定も肯定も、今この妃の前ではどちらも刃になる。


「上宮様が身罷られてから、この宮は変わった。変わったのだ」


 妃は立ち上がった。よろめきながら、それでも柱を掴んで体を起こす。


「あの男の目を見たか。上宮様が身罷られたというのに、一度も泣かなかった。一度も。吾の元にさえ、一度も通うことはなかった!」


 偉名部妃の声は低く、低くなるほど凄みを帯びた。


「あの者を信じてはならぬ。心を持たぬ者ほど、恐ろしいものはない」


「妃様……。妃様は、今は長谷王様の妃であらせられますのに……」


「あの男は、地位が欲しくて吾を娶っただけだ!!」


 妃は采女の言葉を断ち切った。


「白壁はまだ七つ。乳の匂いが残っている。その子をひとり夜の川へ連れ出して、何が義父だ、異母兄だ」


 廊下の端で、老いた乳母が袖を噛んでいた。泣き声を堪えているのか、それとも別の何かを堪えているのか、その皺だらけの顔からは読み取れない。

 妃はふたたび床に崩れた。今度は倒れるように、ゆっくりと。


「白壁……」


 子の名を呼ぶ声だけが、先ほどとまるで別の声だった。柔らかく、濡れていた。


「白壁、どこにいる……」


 朝の光が几帳の倒れた窓から差し込む。埃が光の中で舞い、妃の乱れた髪を照らした。美しい朝だった。白壁王がいた頃と何一つ変わらぬ朝だった。その変わらなさが、何よりも残酷であった。


     ***


 川は夜明けとともに霧を脱いだ。

 大和川の流れは穏やかで、舟は人の意志など知らぬように東へ東へと押し流されてゆく。

 長谷王は左腕を腹へ押し付けたまま、目だけで空を見ていた。橙と紫が混じった夜明けの空は、血と膿の色に似ている。

 白壁王は舟底で丸くなり、眠っていた。

 子供の寝顔というのは不思議なものだ、と長谷王は思った。あれほど冷静に老人と言葉を交わし、あれほど静かに死を差し出そうとしたこの子が、今は口を半開きにして川の揺れに任せている。

 そうだ、この子はまだ七つなのだ。

 長谷王は視線を川面へ戻した。水は赤くない。己の血を受け取りながら、水は何も語らず流れ続けている。

 老人の言葉が耳に残っていた。


 ――その道は、まだ誰も歩いたことがない。


 誰も歩いたことがない道というのは、道ではない。獣道でもなく、ただの荒野だ。踏み固める一歩一歩が、そのまま血の染みになる可能性がある。

 しかし――、長谷王は目を閉じた。

 脳裏に父上の姿が見える。折れた槍が見える。幾度も繰り返した夜が見える。同じ選択をするたびに、同じ場所で同じ血が流れた。

 ならば違う選択をするほかにない。

 どれほど茨であろうとも。

 常世の長鳴鶏はもう鳴かない。かわりに川辺の葦原で、名も知れぬ鳥が一声啼いた。夜明けを知らせる声か、それとも嘆きの声か。

 白壁王が目を開けた。

 兄の顔を見て、何も言わない。ただ起き上がり、膝を揃えて川の先を見た。

 二人の前には、まだ誰も名付けていない水の道が続いている。

 舟は流れる。

 東へ、夜明けへ。あるいは、別の夜へ向かって。

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