岐路
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夜の富雄川は、死者の瞼のように静かであった。
水は月を呑み込みながら、何事もなかったように東へ流れてゆく。岸辺の葦が風に伏し、伏したまま誰にも逆らわぬ草臣のように震えた。
その闇を、一艘の小舟が音もなく裂いている。
舟首に膝をつく男は左腕を抱えていた。
長谷王。
白い衣は肩から袖へ赤黒く染まり、血は舟底へ滴って、月影を映す水と混じり合っている。鉄の匂いは湿った葦の香より濃く、夜気に溶けずに鼻腔へまとわりついた。
矢は骨をかすめた。引き抜いた瞬間、肉は裂け、袖は裂けた。ぼんやりと白く浮かぶ鷺が一羽、声高に鳴き、バサバサと羽をはばたかせ飛び立った。その音が、今宵の神々の返事であるかのように。
「兄上」
舟の後ろから小さな声がした。
七つになったばかりの白壁王は、濡れた衣を膝へ寄せ、じっと長谷王を見ている。
泣かない。問いもしない。
その黒い瞳は、大人の沈黙を覚えてしまった者のように静かであった。
「寒くはないか」
「寒くありませぬ」
「そうか……」
それきりである。幼子にしてはあまりにも短い言葉。しかし、舟を追う松明の灯を見れば、この聡い子が何も知らぬはずはなかった。
岸では犬が吠え、人が叫び、甲冑が石を打つ音が風に乗る。
狩りだ。
ただし、獲物は鹿ではなく、天皇の血を引く者。
長谷王は唇を噛んだ。
父は上宮天皇。 母は膳夫妃。
その血は、ある者には祝福であり、ある者には呪詛である。
山背大兄王を戴く一門を滅ぼさんとする者たちは、ついに刃を夜へ放った。
秦河勝は山背に与し、蘇我の兵もまた各地に散っている。
敵はそれを承知で動いた。
大王家と天皇家。二つに並ぶ王権を一つへ収めるためなら、血統も神託も川へ流して構わぬというのである。
ごつり、と鈍い音をたて、舟が岩へ軽く触れた。舟の振動と共に、左腕へ痛みが走る。まるで焼けた鉄を骨へ流し込まれるようで、視界が白く揺れた。
白壁王が静かに近寄る。
「兄上」
「申せ」
「追手は三十ほど」
長谷王は目を見開いた。
「汝にも見えたか」
「松明が揺れる間に数えました」
幼子の口から出る言葉ではなかった。川面へ映る火を数え、人の数を読む。乱世がこの子へ与えた知恵である。
長谷王は思わず笑った。
「……賢すぎるな」
「父上のように賢くなければ、生きられませぬ」
その返事は風のように冷たく吹き抜けた。舟はやがて深い霧へ入る。白い靄は岸も空も消し去り、世界は水音だけになった。
櫂が水を押す。きい、ぱしゃん……と規則正しい音が鼓動と重なる。
しばらくすると、大和川に合流する地点のはずだが、霞がかってきて視界が悪くなってきた。それでも先に進むと、霧の向こうから別の舟音がする。長谷王は短刀を握る。
左腕は使えぬ。右手だけで勝たねばならぬ。
音はなおも近づいてくる。水を裂く音、人の息、木が軋む音……。
やがて、一艘の黒い舟が姿を現した。乗っているのは老人ひとり。油蓑の笠を被り蓑をまとい、顔は半ば闇へ溶けている。
「王よ」
老人は言った。
「道を違えたな」
「何者だ」
「一介の渡し守よ」
笑いを含んだような声である。目だけは底知れぬ井戸のように暗い。
「向こうへ渡れば助かる」
「代わりに何を取る」
「一人」
長谷王は白壁王を見る。白壁王もまた老人を見返していた。そして、幼子は不意に立ち上がる。
「兄上」
「座れ」
白壁王は老人へ一歩進んだ。
「連れてゆくなら、吾を」
長谷王の胸が軋んだ。
「何を申す」
「兄上は残らねばならぬ」
「莫迦を――」
「吾は知っています」
初めて白壁王の声が揺れた。
「仮に、山背の兄上が倒れたとしても、権力を欲する者らは、吾の血を旗にしてまた争います」
「……」
「兄上は争いを止めようとしている。吾は、その顔を何度も見ました」
長谷王は息を止めた。
「何度も?」
「はい。夢で」
霧が濃くなる。老人は静かに笑った。
「ようやく思い出したか」
刹那、長谷王の頭へ雷が落ちたような痛みが走った。
炎――焼ける宮。折れた槍。
白壁の首、山背の死、己の死――。幾度も幾度も……。
春が巡るたび同じ血が流れ、夏が来るたび同じ裏切りが起こり、秋には王族の首が晒され、冬には名だけが土へ埋まる。
この夜は初めてではない。何度も繰り返された岐路。
老人は渡し守ではない。運命の道分に立つ守人であった。
「選べ」
老人は言う。
「兄を生かせば弟が死ぬ。弟を生かせば兄が死ぬ」
白壁王は、まだ幼い顔で微笑んだ。
「兄上、吾はどんな選択だろうとも、嘆きはしません」
長谷王は血に濡れた左腕を押さえながら、静かに首を振る。
「違う……」
そして短刀を川へ投げ捨てた。
銀色の刃は月を映し、一瞬だけ星になって沈んだ。
「どちらも死なぬ」
老人の目が細くなる。
「その道は、まだ誰も歩いたことがない」
「ならば、吾が最初に歩もう」
竜田の神が後押しをするように風が吹き、霧が晴れ視界が広がる。
大和川沿の向こう岸には追手の松明が無数に灯り、こちら岸には闇しかない。
どちらへ進んでも滅びが待つのなら……。
長谷王は櫂を取り、自ら川の真ん中へ舟を向けた。
岸へは着かぬ。川の流れゆくままにまかせ、新たな舵を切る。
その決意を確認したかのように、老人の舟は霧とともに消えた。まるで、船玉が『世間虚仮 唯仏是真』と言っているかの如く――。
残ったのは水音と、櫂の動かす舟の波紋だけだった。
白壁王は何も言わず兄の背を見つめる。
左腕から落ちる血は黒い川面へ溶け、新しい道筋を描く朱の糸のように流れていく。
遠くで常世の長鳴鶏が夜の明ける前に鳴いた。それは吉兆にも、凶兆にも聞こえる。
哮ヶ峯の稜線はほの明るいが、空はまだ暗い。東雲の空の下で、誰にも知られなかった物語が動き始めていた。
※『世間虚仮 唯仏是真』
この世の物事はすべて空しく仮のものであり、仏の教え(真理)のみが真実である。




