第6話 運命の日、再び
夏の花火大会から一ヶ月以上が過ぎ、街は少しずつ秋の色を帯び始めていた。
並木道の葉は赤や橙に染まり始め、夕暮れの風もどこか冷たい。
放課後のストーバックスには、焼き芋やシナモンの甘い香りが漂い、窓際の席へ柔らかな夕陽が差し込んでいた。
私はいつものブラックコーヒーを飲みながら、向かいに座る桃華を見つめていた。
水色のセーラー服、長い黒髪、フラペチーノを飲むたびに小さく揺れる長い睫毛。
去年失われたはずの光景が、今は確かにここにある。
「朱音、今日も一緒に帰ろうね」
桃華がふわりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
今日は、あの日だった。
運命の日。
去年、桃華を永遠に失った日。
私は笑顔を崩さないよう努めながら頷いた。
「うん。もちろん」
指先にはじっとりと汗が滲んでいた。
朝から心臓の鼓動が速かった。
(来る……)
あの男が。
元格闘家の美術講師。
桃華に異常な執着を向けた、黒い影のような男が。
私は無意識に拳を強く握りしめた。
「朱音? どうかした?」
桃華が心配そうに首を傾げる。
「……いや。ちょっと眠いだけ」
嘘だった。
本当は怖かった。
でも、去年とは違う。
私は逃げない。
守るために、この一年間、すべてを賭けてきた。
店を出ると、秋の夕暮れが街を橙色に染めていた。
私たちは並んで歩き始めた。
いつもの帰り道。
いつもの会話。
「最近、空手の大会とか出ないの?」
「出ないよ。護身術メインだから」
「でも朱音、絶対強いよね。
この前、腕触ったら筋肉すごかったもん」
「ちょっ……お前いきなり触るなよ……」
桃華がくすくす笑う。
その笑い声が愛おしくて、胸が熱くなった。
やがて、例の薄暗い路地が見えてきた。
そして——
「ひっひっひ、桃華ちゃん!」
低く粘ついた笑い声とともに、黒い影が飛び出した。
「きゃぁぁぁっ!!」
桃華の悲鳴が響いた。
男が桃華の腕を乱暴に掴み、銀色のナイフを白い首に押し当てた。
長身で筋肉質、全身を黒い服で包んだ元格闘家。
目は興奮と狂気でぎらついていた。
「「ずっと待ってたんだ。お前と、本当に一つになれる瞬間を……」
気持ち悪いくらい、ねっとりした声。
桃華の顔が真っ青になった。
「……離してください、先生。
私は……そんな風に思ってません……怖いんです……!」
「嘘だろ?」
男はニヤニヤと笑い、桃華の頰を指で撫でた。
その瞬間、私の中で赤い炎が爆発した。
「その手を離しなさい!」
私の声は低く冷たかった。
赤いジャージの袖が風に翻る。
男がゆっくりこちらを向く。
「……またお前か、赤ジャージの女。
いつも邪魔しやがって。桃華は俺のものだ」
「違う」
私は一歩前に出た。
「桃華は誰のものでもない。
あんたみたいな黒い男のものなんかじゃない」
男が舌打ちし、桃華を盾にしたまま突っ込んできた。
戦いは、予想以上に厳しかった。
男の最初の拳が、私の肩に重く叩き込まれた。
「っ……!」
激痛が全身を走り、体が大きくよろめく。
男の動きは重く、速く、容赦がなかった。
元格闘家としての経験が、攻撃に圧倒的な重みを与えていた。
「どうした? 守るんじゃなかったのかよ!」
男が嘲笑いながらナイフを振り回す。
私は後ろへ飛び退いたが、刃が頰を浅く切り裂き、熱い血が伝った。
「朱音!!」
桃華の叫び声が響く。
私は歯を食いしばって構えを立て直したが、息が上がっていた。
(……強い。本物だ……このままじゃ本当に負ける……)
男が再び猛烈な連撃を浴びせてくる。
拳、肘、膝。黒い影のような重い攻撃が、次々と私を襲う。
私は必死に防御したが、徐々に押されていく。
一発の膝蹴りが腹部に入り、息が詰まった。
視界が一瞬白くなり、膝が崩れそうになる。
(やばい……このままじゃ……本当に負けてしまう……)
男がニヤリと笑う。
「弱えな。所詮は女子高生か」
その言葉に、屈辱と恐怖が胸を締め付けた。
負けそうだった。
本当に、負けてしまいそうだった。
その時——
「朱音……!!
頑張って!!
私は朱音を信じてる!
絶対に勝てるよ!!
朱音なら……私を守れるよ!!
ずっと、朱音の隣にいたいんだから……!!」
桃華の声援が、路地に力強く響いた。
震えながらも、必死に私を励ますその声。
淡い桃色の想いが、私の胸に熱く突き刺さった。
(……桃華……)
その瞬間、私の中で赤い炎が爆発的に燃え上がった。
(負けてたまるか……!
あんたをやっつけるために、この一年間、死ぬほど努力してきたんだ!
桃華を守るために……絶対に負けるわけにいかない!)
私は低く構え直し、一気に加速した。
一瞬の隙をついてローキックを男の膝に叩き込む。
「ぐっ!?」
男の黒い影が大きく揺らぐ。
私はナイフを蹴り飛ばし、連続パンチを顔面に浴びせた。
「痛い? 桃華が感じた恐怖の、ほんの一部だよ!」
私は止まらなかった。
中段蹴りを腹部に深く突き刺し、連続正拳を顔面に浴びせる。
「がはっ……やめ……!」
「やめてって、桃華は何度も言ったよね?
でもあんたは無視した!
自分の黒い欲望を押し付けて、桃華を泣かせた!」
拳が男の顎を砕く。
「ぎょぇぇぇぇ……!」
男の目に恐怖が浮かぶ。
「あんただけは絶対に許さない」
桃華が涙を流しながら叫んだ。
「いけ! 朱音ちゃん! やっつけて!!」
その声に、私は跳び上がった。
赤いジャージの両脚で男の首を完璧に捕らえ、地面に倒れ込み三角絞めを極める。
「てぇぇぇぇぇい!!」
「ひぎゃぁぁぁぁっ!!
格闘家の俺が女に負けるなんて……苦しい……!」
男が情けなく暴れる。
私の真っ赤な腕が、男の黒い首を容赦なく締め上げる。
「女の友情は最強なんだよ!
あんたをやっつけるために、私は今日まで死ぬほど努力してきた!」
男の顔が紫色に変わり、体が激しく痙攣した。
「桃華を傷つけたこと……
彼女の笑顔を奪おうとしたこと……
全部、今ここで返してもらう!」
私は低く言い放った。
「観念しなさい! ストーカー男」
最後に、思い切り力を込めた。
「ひぎゃぁぁぁぁ、やめてくれぇぇぇ……!」
「やめるもんか!てぇぇぇぇぇい!」
男の体が大きく跳ね、ついに動かなくなった。
「……参ったか、ストーカー男」
私はゆっくりと足を解き、立ち上がった。
汗でびっしょり濡れた赤いジャージが体に張り付き、荒い息を吐く私の姿は、力強くも美しかった。
赤が、黒を完全に制した瞬間だった。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。
私は桃華の元へ歩み寄った。
「桃華……」
桃華が泣きながら駆け寄り、私に強く抱きついてきた。
「朱音……ありがとう!
本当に……かっこよかったよ……!」
私はその震える体を優しく、けれど力強く抱きしめ返した。
「ごめん、怖かったよな……
でも、もう大丈夫。
今度こそ、ちゃんと守れたから」
夕陽が赤く路地を染める中、私たちは固く抱き合っていた。
私の赤と、桃華の桃色が、黒い闇を払いのけたように輝いていた。




