黒狼との再会
王が鉄砲水で浚われ、視察先で消息不明になった、という一報を受けた王妃の反応は、後々まで語り草になるものだった。
「必ず帰るさ。まだあいつに、暇を出したつもりはないからな」
にっこりと無邪気に微笑んで、そう断言してすぐ様、消息不明の王と、視察先で事後処理に追われる宰相の代わりに、内政を行う旨を廷臣に通達させた、という。
レインは、大きく息を吸い込んだ。
馴染んだ染め物の匂いが、レインを包み込む。
しかし、それもいつものようには、レインを高揚させてくれなかった。
開いた窓辺に頬杖をつきながら、レインはため息をついた。
辺りは夕闇が忍びより、茜色の空が目に染みる。
(なんて一日だったのかしら…)
王の失踪を聞いてから、とんぼ返りした王宮で、側妃たちは早くも仕事を開始した。
元々は他国の姫である王妃を、内政に干渉させるということは、一部の貴族に猛烈な反発を招いていた。
その貴族の急先鋒ともいえる、上級貴族の一人は、王妃に面と向かって「よそ者のままごと」で国を乱されては困る、とさえ言ってのけた位だ。
しかし、その男はその後、その一言を海よりも深く、後悔することになる。
王妃を守るように、前に進み出たヒルデガルドに、自身のもつ特殊な性癖を暴露された彼は、廃人寸前で退場していった。
エメラルドの瞳を細めて、薔薇色の唇で綺麗な弧を描いて見せたヒルデガルドは、集まった貴族を見回して、一言言うだけでよかった。
「もちろん、皆様の後ろ暗い女友達の方とも、随分と仲良くさせていただいておりますのよ?」
その言葉に、震え上がらない貴族は一人もいなかったのである。
その言葉にレインはようやく納得した。
(あのお菓子店は…貴族の愛人のサロンがわりだったのね…)
男子禁制であるのは、そのほうが張本人である貴族をシャットアウトして、愛人の口を軽くできるからだろう。
レインは納得して頷き、ヒルデガルドは敵に回すまいと決意した。
そうしてあっという間に、王妃の代行政権は軌道に乗り、現在も山のような仕事を素晴らしいスピードで仕分けているはずだ。
ヒルダのように、貴族の裏事情に詳しくもなく。
茉莉花のように、外交に詳しくもなく。
アヴィカのように、軍事にも詳しくなく。
そんな「王妃にとって役に立たない」レインとしては、もとより執務室と続いている王の私室である、自分の部屋を譲ることしかなかった。
側妃の仕事は、王妃の教育。
そう聞かされていたことの実情に、レインは戸惑いを隠せなかった。
(これではまるで…王妃ではなくて…)
王の教育、そのものに思えて。
優れた補佐官たる側妃を従えて、統治者として才覚を発揮しはじめた王妃に、レインは言い知れぬ不安を覚えていた。
(もしかしたら…陛下は…)
元から、この国を王妃に譲るつもりなのかもしれない。
だからこそ、側妃たちを付け、教育を施した。
ならば、この失踪すらも計画していたことなのだろうか。
レインは思わず、足を止めた。
もしかしたら。
王妃暗殺事件の犯人は、王の後継者としての彼女を狙っていたのだろうか。
(それなら…最も疑わしいのは…)
脳裏に、オールブラウンの信頼ならない男が過った時。
バサリ…
それを否定するように、軽い羽音とともに、白いものが視界を過った。
(な…なに?!)
様子を伺うように、旋回したそれは、菫の瞳を見開いたレインの肩に、滑るように止まった。
「あ…鳩…??」
それは見とれるほど、美しい白い鳩だった。
血のように赤い目にレインを捉えて、首を傾げる姿は、どことなく人を思わせる不思議な鳥だった。
「貴方は、どこからきたの?」
その質問には、当然ながら答えはなかったが、代わりに鳩はじっとレインを見つめた。
その赤い目を、レインは惹き付けられるように、見つめ返す。
(この目…どこかで…)
その時、鳩が再び飛び上がった。
「あ、待って!」
その瞬間、レインは自分自身にもよくわからない衝動に、突き動かされた。
(追いかけなくちゃ…!)
そのまま、スカートをたくしあげると窓枠を乗り越えて、レインをまっているように旋回する鳩を追いかけ始めた。
「…待って!!」
鳩は一直線に、城に隣接する森を目指しているようだった。
その姿を一心に追うあまり、彼女は気づかなかった。
その姿を見つめる者の存在に。
その者は、鳩を追いかけるレインの後ろ姿を見届けると、ふっと微笑みをもらすと、その後を静かに追い始めた。
鳩はレインを待つように、時々枝にとまりながら、森の奥を目指していた。
(何処まで行くんだろう…??)
辺りは既に暗くなり、鳩の白さは際立っていく。
追いかけやすい反面、足元は見えづらくレインは何度も足をとられ、ドレスの裾はボロボロだった。
それでも追いかけ続けたのは、レインにもわからない衝動の結果だった。
追いかけなければ、後悔する。
その一念だけが、レインを前にすすませていた。
そして、視界がいきなり開けた。
その途端に目に入ったのは、大きな木。
森の主の風格さえあるそれは、何故か立ち枯れて、枯れ落ちた葉がうず高く地面に積もっている。
その異様な光景に驚く間もなく、レインはその落ち葉に埋もれた黒い塊に引き付けられた。
(まさか…あれは…)
かさり、と枯れ葉を踏む音に。
その塊がぐっと頭をもたげた。
闇夜にキラリと輝く眼は相変わらず、サファイアよりも美しかった。
記憶にあるよりも、ずっと深い海の色のそれ。
「クロ…!」
塊に見えたもの、それは大きな黒い狼。
かつて、レインを慰めてくれた、優しい不思議な獣。
しかし今、黒狼は傷ついていた。
頭を上げ、此方を伺っている口許からは、血が滴り落ちている。
警戒して少し唸っている彼は、それでもそこを立ち去りはしない。
(きっと、前足か後ろ足が傷ついているんだわ…)
そうでなければ、この誇り高き野生の獣は、傷ついた体をレインに見せることなどなかったはずだ。
レインは、黒狼に駆け寄った。
唸りは大きくなり、黒狼の口からは立派な歯が剥き出しになったが、レインは怯まなかった。
そして、その首を抱き締めた。
シルクのような手触りだった漆黒の毛並みは、今は固まった血がこびりつき見る影もない。
でも、その体は温かかった。
「良かった…生きてたのね…!」
レインの瞳に涙が浮かぶ。
自分の半分ほどの人間の力など、すぐに振りほどけるほど弱いものだろうに、黒狼は其を振りほどかなかった。
ぴくんと、耳を震わせた後は、大人しくされるがままになり、唸り声も次第に小さくなり、やがて大きな吐息が聞こえて静かになった。
まるで人間のため息のように聞こえたそれに、レインは思わず黒狼の顔を見上げる。
黒狼は、レインを見下ろしていた。
静かな湖水の眼差しに、微かに混じる何か。
レインの胸がドキリ、と跳ね上がる。
優しく微笑む赤い瞳と同じ何かが、見えた気がして。
(…なんで…こんなときに…陛下のことを…!)
焦るレインの腕が、突然ぐっと重くなった。
ふっ…と黒狼の瞳が焦点を失い始める。
血が足りなくなったせいで、貧血になったのだろう。
しかし、レインの腕だけでは頭を支えきれない。
(あ、いけない…!!)
倒れる!!と目を瞑った時。
唇がなにか、冷たいものに当たった。
その瞬間、パチリと何かがつながった感覚がして。
さぁっ…と音を立てて、自分からなにかが流れ出していく。
(な、なに…?これ??!)
軽いパニックのあと。
感じたのは、猛烈な痛み。
手が、足が、そして内臓が。
激しく燃え盛るような、経験したこともない痛みに、レインは悲鳴を上げる。
(なに…?!これは…一体…??!)
レインが感じているもの。それは。
折れていた骨が軋み、広がりそして、新しい骨と取り替えられるような感覚。
腹を無理矢理こじ開けて、力づくで臓腑が元の位置に戻される感覚。
(これは…な…に??)
そう思ったのを最後に、レインは意識を手放した。
読んでくださった方、ありがとうございます。
ノロノロ亀更新は変わらずですが、遅いながらも完結目指して頑張りますのでよろしくお願い致します。




