海の記憶
記憶にあるのは、一面に広がる海だ。
白い飛沫をあげて、海を渡る船の舳先には、幼かった頃の自分がいる。
洗濯物をひろげてマントにして、舳先に股がって海を見ている。
ぶら下がった脚の下をイルカが泳ぎ、遥か彼方で鯨が身を翻す。
時おり煌めくのは銀色の魚の鱗だ。
危ういところでバランスをとりながら、飽くこともなく海を見つめる娘を。
甲板に洗濯物を干しながら、母親は苦笑している。
舵をとる父親も、彼女をみてしょうがないな、という風に眉をしかめようとして、結局笑ってしまっている。
あの頃は、なんでもない一日の風景。
今では、かけがえのない幸せな一時だったと、彼女は知っている。
日影者ではあったけれど、海での暮らしは楽しかった。
あの日がくるまでは。
ついに、捕まって皇帝の元へ連行されたあの日。
皇帝は父親に、取引を持ちかけた。
母親を差し出せば、代わりに一家の命を救い、さらに商船の手形も渡そう、と。
彼女の母親は、三国一と称えられるほどの美人であったのだ。
色狂いと評判の皇帝は、彼女を喉から手が出るほど欲していた。
父親は一晩悩んで、結果その申し出を受けた。
そして、一家は救われ、才覚のあった父親は商売を成功させた。
母親の犠牲の元に。
後ろ楯のない母親は、皇帝の過剰な寵愛と比例して、後宮の壮絶な苛めを受け、女子を産み落とした後、帰らぬ人となった。
遺した女子も十二を過ぎた頃に毒を盛られた。
彼女は皇帝を憎んだ。
父親を憎んだ。
そして男という性を憎んだ。
女が花であれば、その蜜を吸う権利があると、図々しく迫ってくる蔑むべき虫けら共。
(だから…私は男を信じない)
そう決めていたのに。
彼女は赤い隻眼の青年に出会った。
(私に力を貸してほしい)
(その代わり、貴方の望むものを差し出すつもりだ)
夜会の誘いの常套句と鼻で笑った。
(私は金のかかる女ですわよ。その覚悟はあって?)
相手は動じなかった。
(此方の望むものは貴方の知識だ。海を渡る航海術、そしてその情報収集の腕を買いたい)
母親の美貌をうけついでいた彼女に、"女"を求めない初めての人間に、ひどく興味が湧いた。
(その代わりに、貴方は何を下さるの?)
その反応に男は初めて、唇をゆがめた。
それは獲物を仕留めた猛禽類のようでもあり。
彼女は目の前の男が、恐ろしく思えた。
(皇帝の元にいる小鳥を貴方に。そして、我が国での生活を保証しよう)
しらぬ間に、涙が流れていたようでこめかみが冷たかった。
それをそっと拭ってくれた手を感じて、茉莉花は目を開いた。
「…大丈夫か?」
何時もより、少しだけ翳る赤い隻眼が彼女を捉えていた。
彼女があぶなげなく、立ち上がるのを見届けて、王はすっと彼女から距離をおく。
これが、二人の暗黙の了解だった。
何よりも男を嫌う彼女のために、王が決めた取り決め。
「…大丈夫です。王の方こそ…よろしいのですか?」
最近では、王妃の部屋にも訪れないで、新しい妃に夢中、という王の突然の訪問に、思わず皮肉で対応してしまう。
皮肉られた相手は、唇をほんの少しだけ歪めて。
「エレインが心配だから様子を見てくれ、とせっつくので、な」
惚気とも聞こえるその言葉よりも。
名前を呼ぶときの表情に、彼女は悟る。
王の心の在りかを。
「それは…お気遣いいただき痛み入ります。レイン様にもご心配をかけて申し訳ありませんでしたわ。少しだけ…昔を思い出しただけですの」
茉莉花の言葉に、王は少しだけ眉を寄せて、瞳を伏せる。
「そうか」
慰めるでもなく。
ただ受け止めるだけの優しさを、優しさと認められるようになったのはいつからだろう。
最初にその手を取ることを拒絶した自分を、後悔するようになったのはいつからだろう。
「陛下、…お願いがありますの」
あのとき叶えてくれた彼女の願いのように。
(願えば叶えてくれるだろうか?)
茉莉花は、目の前の隻眼の王を一心に見つめた。
けして口に出せない願いの代わりに、ほんの少しの意地悪をこめた依頼を王に送る。
(他の妻の前で堂々と惚気るからですわ)
茉莉花の過去編でした。
次はちょっとした小話的なやつです。




