その頃、東雲家では
やや閑話的なお話。
「ただいまー」
航がガラガラと玄関の引き戸を開けて帰宅を告げると、廊下の奥からぱたぱたとスリッパで歩く音が聞こえてきた。
「おかえり、航くん」
「ただいま、晴香さん。これ、竜馬から結婚祝いだって」
玄関までで迎えに来てくれた晴香に、航は本人の姉から渡された紙袋を手渡した。
「もー、姉弟で別々にくれなくても、まとめて1つでいいのに…」
「でも、千晶さんは一緒に使うものって言ってたけど…」
普段食事場所として使っている畳敷きの部屋は、この建物が昔旅館だった際にも宴会用や朝食用の座敷として使われていた場所らしく、かなり広い。間仕切りも可能な奥の部屋で何人かが寝転んだり座ったりでテレビを見ていたが、手前の食事用の机が並んでいる広い座敷には今は誰もおらず、晴香がその端の方に座って紙袋を置いた。
「開けてみるね。…あら、かわいいマグカップ。なるほど!」
「…千晶さんからは?」
「ついさっき持ってきてくれたの、銀のスプーンと紅茶のセットだよ。また改めて二人にお礼言わなきゃ。ちょっと待ってて、取ってくる」
二人の新居となる予定の旧祖父母の部屋は、リフォームが終わったばかりで今はほとんど物がなく、がらんとしている。現状は晴香が自分の部屋から持ち込んだカラーボックスが2個とクッションが二つ、折りたたみのミニテーブルが一つだけ置かれているのだが、頂いたお祝いの品はとりあえず開けてカラーボックスに積んでいる状態だ。
そちらへ晴香が取りに行こうと立ち上がったので、
「あ、一緒に行きます。ちょっと話があって…」
と航も立ち上がりかけたところ、風呂から上がってきた下宿生と、今から風呂に入る先程までテレビを見ていた下宿生が、数人どやどやと邪魔をしにやってきた。
「あー!何二人きりになろうとしてるんすか、航さん!」
大学生の下宿生の一人が、咎めるように口を開いた。
「うるさいな、ちょっと話があるんだよ」
「ここですりゃいいじゃないすかー!!」
大学生たちにごねられ、航も一瞬考えた。
「…ダメだ、やっぱお前らの前じゃ無理。いいからさっさと風呂行けよ」
「えー、人に聞かせられない話って何すかぁ?」
寮生に混じって晴香まで同じノリで来たので、航はふふっと吹き出してしまった。
「大牙の件で」
「…ふむ。向こう行こっか」
晴香は膝をついて竜馬からのマグカップを簡単に箱に詰め直すと、それを持って立ち上がった。
「わー、ブランド物のマグカップじゃないすか。おしゃれっすねー!誰からですか?」
「竜馬だよ」
「うわ、さっすが桐島涼っすねー!」
贈り主を褒めそやす声を聴きながら、航は晴香と共に座敷を後にした。
「で、大牙がどうかしたの?」
竜馬から貰ったお祝いをテーブルに置き、別の紙包みをカラーボックスから出して2つ卓上に置くと、晴香がクッションに座った。
「大牙というか…実際は美雨ちゃんの件なんですけど」
航もテーブルを挟んで向かい合うようにクッションに座る。
敬語は止めて、と言われているが、なかなか長年の習慣は抜けない。航はまた無意識に晴香に敬語を使ってしまっていた。
「…え?大牙振られたの?」
「なんでそうなるんですか…いや、美雨ちゃん、なんか腕に痣があって。他にもあちこちあるらしくて、俺はなんか悪い病気かもって心配したんですけど、里菜子が笑ってたから多分それは違うなって思って。美雨ちゃんに聞いても教えてくれないらしくて、あいつかなり疑心暗鬼になってて…」
航としては、それとなく晴香から美雨に確認してもらって、危険や問題がないのであればそれでいい、と思っていたのだが…。
「…ああ!」
目を見開いて晴香がポンと手を打った瞬間、航は晴香が「知っている側の人間」だという事に気付いてしまった。
「…晴香さん、何か知ってるんですか?」
「聞くならば、君には2つの選択肢がある!1つは聞かなかったふりで今後も大牙と接するか。もう1つは美雨ちゃんの代わりに説明して、大牙に投げられてくるかだっ!」
海外の刑事ものの吹き替えを真似したような口調で、晴香がいたずらっぽく指を二本目の前に立てて見せた。
「え、怖い怖い!どういう事!?」
知っているどころか、完全に関係者の気配が晴香からする。それを感じ取った瞬間、航の表情が強張った。
「…まさかの、主犯格側…?」
「なによそれ、失礼ねー!」
拗ねたふりをした後軽く笑って、晴香は美雨の「やりたい憧れ」を話してくれた。
「美雨ちゃんがハリケーン・ラナのトレーニング中って…結構衝撃なんですが…」
晴香から大体のあらましを聞いて、航は頭を抱えた。
「氷牙の技やりたいんだって。別に試合に出たいとかはないんだけどね。とにかくあの派手な空中回転技をやりたいんだって。肩の上での変則的な逃げ技からの、足で相手の頭挟んで後ろに倒れて、相手をマットに叩きつけるまで。フォールとかはむしろどうでもいい感じ」
「…じゃあ、美雨ちゃんがやりたいのはハリケーン・ラナよりもフランケンシュタイナーかな」
少年時代、航もプロのレスラーたちの技に魅せられたことはあるし、憧れる気持ちも分かる。
航は勝手に柔道少年あるあるだと思っているが、大人が見ていないところでプロレスごっこをやるのはお約束だった。その後飛び蹴りなどしているところを見つかって、怒られるまでがもはや様式美だった。
「あこがれは止められないよ。特にこの手の事始めるんだったら、今の自分が一番若いんだもん、今やらなきゃいつって話だよ」
人間生きていれば、一分一秒進むたびに老いて行くだけだ。
確かにこれからの人生の中では今この瞬間の自分が一番若い。航と同い年だから美雨も今年27歳になる。やってみたいと思い続けていたとしても、始めるには遅すぎたくらいだ。
「それにしても…よりによって氷牙兄かぁ…確かに、これは大牙には…」
「ねー?言えないでしょ?大牙の情報は美雨ちゃんから直接氷牙に届くけど、逆はないから…大牙の方は解きほぐしようがないんだよね」
航の記憶では、あの二人が仲が悪くなり始めた時、最初に突っかかり始めたのは兄の方からだった。
きっかけは大牙がぐんぐん背が伸びて氷牙の身長を追い越し、いつも負けてばかりだった弟が練習試合で始めて兄を負かしてしまった事が原因で、全てのはじまりだったと思っている。
あの時航は、勝った時の一瞬の嬉しそうな笑顔と、その直後「しまった」という顔に切り替わっていく大牙を見ていた。
無意識かもしれないが、あれから大牙は氷牙相手に手を抜くようになった。明らかに階級が下の相手に本気を出すのはおかしいと思ったのかも知れないし、兄を負かすのは悪いと思ったのかも知れない。だが、外から見ている航にも本気を出していないことが分かったのだ、氷牙がそれに気づかない訳がない。
当然プライドの高い氷牙がそれを許せるはずもなく、完全にキレてしまったのだ。
そこから氷牙は大牙に対してまあまあ幼稚な嫌がらせを始めた。靴にセミの抜け殻を入れるとか、水風船の絨毯爆撃など、下らないがやられた方はそれなりにストレスがかかる類のものだ。
最初はそれを黙って我慢していた大牙だったが、ある日突然ブチ切れた。そこから今の構図になったのだが、それでも畳の上での勝負では、大牙が氷牙に対して本気を出すことはなかった。
―――ああ、氷河兄は大牙に本気でかかって来て欲しかったんだな。
それに気づいたのはそれから何年か後だったが、キレた状態の大牙が氷牙に飛び掛かるときはプロレス技、たまに柔道技で投げるときもあったが、それは庭など畳の外ばかりだったのだ。
あの「挑戦」までは。
高校生になった兄弟は、東雲家伝統の「挑戦」で二人がそれぞれ望むものを賭けて立て続けに戦った。幼少時以来初めて本気を出した弟に、兄は2回とも瞬殺されてしまった。体格差があったとはいえ、完全に赤子の手をひねるが如く、だった。
「航くんなら言える?」
「無理です、無理無理絶対無理」
大牙からすれば、美雨の行動は最上級の裏切り行為ではないか。航の口から言うなど、考えたくもなかった。
「彼女は、あの二人に仲直り…して欲しいみたいなんだけどね…」
晴香が棚から持ってきた包みの一つを目の前で開いて見せてくれたが、聞いていた通り紅茶とスプーンのセットだった。竜馬からのマグカップに銀色の縁取りがあったので、並べて見ると元々セットだったかのようにしっくり馴染む。
「そしてこっちは美雨ちゃんからのお土産…なんだけど」
紙袋にはコーヒー豆と、ナッツが大量に入った大きな袋、そして化粧品だろうか、ハンドクリームのようなものと、封のされていない封筒が一つ入っていた。
「んふふふ、この封筒、氷河からのお祝い。お土産の下に隠してあったんだよ~。美雨ちゃん持ってくるの内心ドキドキだったろうね」
話を聞くにつけ、思った以上に美雨と氷牙の関係が近い。
「え。美雨ちゃんまるで俺たちの事知らなかったみたいに、お祝い贈りたいから欲しいもの教えてって言ってたけど…」
「もちろん知ってたよ。でも、結婚自体は今日初めて知ったことにして、大牙と一緒に選びに行きたいんだって。もう可愛いよねー!」
何だあの二人、心配することなど何もないではないか、と航はほっと息を吐いた。
「実際にはもう伝えてあるんだけどね。大牙にも見せるように改めて」
そう言って晴香はスマホを取り出すと、素知らぬ顔で美雨宛にメッセージを送った。
『航くんから聞いたよ、ありがとう!部屋が殺風景だから、何かセンスの良いインテリアを』
「ってカンジで」
「うわー、ハードル高っ!」
画面を見せられ、航は思わず叫んでしまった。非具体的過ぎるのに、センスを問われるなんて難し過ぎる。
「ほんとは、壁掛けの時計って言ってあるから」
「ああ…なんだ」
自分がこんなメッセージを送られたら途方に暮れてしまいそうだ。安心したところで、今度は氷牙からの封もされていない白い封筒が気になってきた。
「氷牙兄のそれは?」
「家具屋さんの…注文書のプリントアウト、だね。…あら、明日配送になってる」
「家具屋?」
「ベッド贈ってくれたの」
「そんな…高いものを」
そう言いながらも、いよいよ二人でここで生活できる日が近づいていることを実感し、航は今はがらんとした部屋を見回してじわりと幸せを噛みしめた。
不意に、部屋のドアがどんどんと不躾に叩かれはじめた。
「航さん、話し長いっすよ!」
「ラブコメ禁止!!まだ俺たちは籍が入るまで邪魔をし続ける!」
「うるさいな…」
「死ね死ね団来ちゃったね」
外から騒ぐ男たちの声に航は顔を顰めたが、晴香は下を向いてクスクスと笑っていた。
「そろそろ戻ろっか。美雨ちゃんからのコーヒーとナッツはみんな用だから向こうに持って行くね。…それと」
竜馬からのマグカップの袋から、晴香が封筒を抜き出して航に渡した。
表には『航へ』と書かれていて、しっかりと糊で封がしてある。
二人の仲が妄想であることを祈っていた友人からの手紙を受け取り、航はどんな表情をしていいのか分からず途方に暮れてしまった。
「じゃ、先に行っとくね。…こらぁ、うるさい!近所迷惑でしょっ」
袋を抱えて、外の死ね死ね団を黙らせながら晴香が出て行った。
「手紙って、何とアナログな」
電子の申し子のような仕事をしている竜馬からの手紙に、意外な気持ちと共に、どこか竜馬らしさも感じてしまう。
カラーボックスの上に置かれた開封用のカッターを手に取ると、航は封筒の隙間に刃を差し込んで手間取りながらも封を切った。
『あの家じゃゆっくり話も出来ないだろ。たまには部屋で二人のんびり紅茶でも飲め。この手かみは読み終わったら燃やすがよい。武士のなさけ』
不自然な手書きの文章から、太く書かれた文字を拾う。
「な…か…す、な。か」
またアナログな文字遊びをするな、と思いつつも、もっとうまい入れ方があるだろ、と突っ込みたくもなった。そしてこの手紙を用意した竜馬の気持ちを考える。
―――逆の立場だったら、俺は竜馬を祝えただろうか。
この家にいたかったと子供のように泣いていた酔っぱらいの姿を思うと、少し心が痛んだ。
「すげーヤツだよ、お前は」
ただ武士の情けで言われた通りに手紙を燃やしてやりたいが、このご時世庭で焚火も出来ないので、それを実行するのは難しい。
航は手紙をポケットにねじ込み、部屋を出て、談笑する晴香たちのいる居間の前を静かに通り過ぎて2階への階段を上った。
静かに自分の部屋に戻ると仕事用のカバンのポケットに手を突っ込み、今年の正月に神社に返しそびれた去年のお守りを取り出した。
去年初めて二人で行った初詣で晴香がプレゼントしてくれたものだったので、返したくなくて持ち続けていたものだ。
「新しいのあげるから、古いのはちゃんと神様に返しなよ?」
そう言われても手放せなかったお守りの中に、竜馬からの手紙を小さく折りたたみ、封入した。
「ちゃんと来年のどんど焼きでお焚き上げしてもらうから」
そう言って手を合わせると、航は再びカバンのポケットにその健康お守りを戻した。




